宿場町シリーズ《中山道・垂井宿001》文、写真・井上脩身

敗者しのぶ関ヶ原直近の宿場

大谷吉継(落合芳幾画)(ウィキベテアより)

NHK大河ドラマの影響でこの1年、徳川家康が脚光を浴びた。関ケ原の合戦で勝利をおさめて天下人になった家康であるが、私は敗れた石田三成に加担した西軍の武将への同情心があり、司馬遼太郎の『関ヶ原』(新潮文庫)を読み返した。大谷吉継が垂井宿にいたとき、三成から使いがきて、「家康をうつ」という三成の決意を聞く。三成に従うべきかどうか、吉継は宿場で悩みに悩んだに違いない。やがて、宿場から西にわずか8キロの関ヶ原で果てることになろうとは夢にも思わなかったであろう。中山道の垂井宿をたずね、吉継に思いをはせた。

三成の秘事に揺れる大谷吉継

垂井宿の北を流れる相川。向こうは関ヶ原の山並み

司馬の小説では、秀吉の死後、会津の上杉景勝が豊臣家に謀反を企んでいるとして、五大老筆頭の家康が、大坂から会津攻めに動きだす。家康から上杉討伐の動員令を受けた敦賀五万石の大名・大谷吉継は、「家康と景勝の仲を調整して、和をもたらす」ために北国街道を南下した。吉継はハンセン病を患って頭髪が抜け、両目も失明。顔を白い布で包み、コシに揺られての出陣である。
垂井宿に入るなり、近江・佐和山城にいる石田三成に使いを走らせた。三成から「秘事がある」と言ってきたので、吉継は垂井から佐和山城に向かい三成と密談。「挙兵する」と決意を打ち明ける三成に対し、吉継は「内府(家康)の威力は大きすぎる。内府に刃向かうのはよほどの愚か者か、よほどの酔狂者。事はかならずしくじる」と言葉を尽くして説得。「内府と上杉を和睦させるしかない」という吉継の消極的平和主義に対し、三成は一つ一つ論駁し、「いま家康を討ち果たさねば、かの者はいよいよ増長し、ついには従二位様(豊臣秀頼)の天下を奪い取ることは火を見るより明らか」と言い放った。
「自滅するぞ」と言って三成と別れ、垂井宿にもどった吉継の頭に、秀吉が催した茶会がよぎった。茶碗がまわされ、ハンセン病を患っていた吉継が茶を喫しようとしたとき、鼻水が垂れて茶の中に落ちた。ハンセン病に対する科学的研究がなされていない時代だ。その茶碗がまわされると、居並ぶ諸侯は飲む真似をするだけ。三成だけが茶碗を高々ともちあげ、飲み干した。以来、「佐吉(三成)のためなら命も要らぬ」と吉嗣は三成にしたがってきたのだった。
吉継は十数日間、垂井宿から動かず、何度も使者を三成のもとに送り、思いとどまるよう諫止。「かならず負ける」と切言したが三成は聴かない。「わしを友と見込んで、この秘事を打ち明けてくれた。もはや事の成否を論じても詮はない。あの男と死なねばなるまい」。
吉継がそう決意した夜。垂井宿に驟雨が通り過ぎ、地を裂くような雷鳴をとどろかせたあと、程なく霽(は)れあがった。
以上のように吉継の心の動きを書き記した司馬。その心根を激しく揺れる天候にたとえた。

古代から交通の要衝

主な街道の宿場は家康が江戸に幕府を開いた際に整備された。吉継が垂井に宿営したときは、当然のことながらそれ以前の宿場である。垂井は古代、美濃国の中心地であり、畿内と美濃以東を結ぶ交通の要衝であった。秀吉が1589年、方広寺に大仏殿を建立するため美濃国の6人の武将に木曽材の輸送を命令したとき、6000人が動員されたといわれ、幹部は垂井に宿をとったと思われる。司馬の『関ヶ原』は、三成が佐和山城で挙兵して6000人の軍が東進、日が傾くころ垂井宿に着き、諸隊を付近に分宿させたと書いている。三成や島左近ら側近武将のほかは野宿せざるを得なかった。大軍が泊まれるほどには整備されてなかっただろう。吉継はどのようにして兵を分宿させたのであろうか。
すでに触れたが、家康は将軍になると、東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道の五街道の整備を手掛けた。これにともない、中山道の69の宿場の一つとして垂井宿も整えられた。1843(天保14)年の記録では人口1179人、戸数315軒。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠27軒。
以上の知識を頭において、10月下旬、垂井宿を訪ねた。

たにぐちみち、大垣みち

中山道に面した、格子窓がある旧旅籠「亀丸屋」

JR垂井駅を降りると竹中半兵衛像が迎えてくれた。秀吉の軍師であった竹中半兵衛は美濃で生まれており、垂井はゆかりの地だという。今回の旅のテーマは大谷吉継である。甲冑姿の凛々しい半兵衛の顔を見あげたあと、北に向かった。5、6分歩くと、相川にかかる相川橋のたもとに着いた。
相川は伊吹山の山麓を源とし、関ヶ原盆地経て伊勢湾に注いでいる。相川橋から関ヶ原の山並みが前方に広がり、その向こうに伊吹山が頭を出している。関ヶ原の合戦では、東西両軍の武将たちの陣がおかれたところだ。垂井宿は合戦場間近の宿場なのである。
相川橋をわたると、北のたもとに追分道標の石碑が建っている。1709年、垂井宿の問屋、奥山文左衛門が建てたもので、高さ1・2メートルの自然石に「是より右東海道大垣みち、左木曽街道たにぐちみち」と刻まれている。ここは中山道と美濃路の分岐点なのだ。「たにぐちみち」「大垣みち」と、旅人にわかりやすいように通称名が使われていたのであろう。「たにぐちみち」に進むと、中山道馬籠宿などを経て板橋宿に至る。「大垣みち
の方は東海道宮宿を経て品川宿に至る。吉継は家康に上杉との和睦を求めようとしていたのだから、大垣みちを東に向かうつもりだったであろう。三成の堅い挙兵の意志を知った吉継は、この分岐点でどのように思案したのであろうか。
相川をはさんで追分道標とは反対の南のたもとには「東の見附跡」の案内標識。宿場の江戸側の入り口を示していて、そばに「相川の人足渡跡」の案内板。「宿場の百姓が人足となって旅人を対岸に運んだ。朝鮮通信使などの特別な人には橋をかけた」と記されている。
ここから宿場内の街道を西に向かう。しばらくすると「紙屋塚」と呼ばれる石塚。美濃紙発祥の地とされている。さらに進むと板壁の古い民家。脇本陣に準じる旅籠「亀丸屋」だった家で、1777年に創建。浪花講の指定宿だったといい、上段の間があり、格子窓がその名残をとどめる。
亀丸屋の斜め向かいに数軒の瓦屋根の民家が軒を並べる。問屋場だったところだ。荷物の運送や相川の人足渡の手配などがここで行われていた。すぐそばに「中山道垂井宿本陣跡」の石碑。案内標識によると、「栗田本陣」と呼ばれ、床面積580平方メートルの屋内には約30の部屋があった。中山道に面した御門を入ると16畳の玄関があり、御上段の間は8畳というつくりである。(続く)