連載コラム・日本の島できごと事典 その120《沖縄のハルモニ》渡辺幸重

宮古島にある「慰安婦」祈念碑「アリランの碑」(Webサイト「琉球弧の軍事基地化に反対するネットワーク」より) http://ryukyuheiwa.blog.fc2.com/blog-entry-183.html

30数年前、私は当時住んでいた静岡市で、在日韓国人の行政差別撤廃運動を行っていた在日韓国人二世の友人たちと映画『沖縄のハルモニ-証言・従軍慰安婦』(1979年・山谷哲夫監督)の上映会を催しました。
沖縄のハルモニこと裴奉奇(ぺ・ポンギ)さん(1914~1991)は朝鮮半島の貧しい農村の家に生まれました。ハルモニとは「おばあさん」という意味です。裴さんは29歳の頃、「仕事をしなくても金を稼げる」などと業者にそそのかされ、1944(昭和19)年に来日しましたが、他の朝鮮人女性6人とともに1944年11月から1945年3月頃まで日本軍によって従軍慰安婦生活を強要されました。場所は慶良間列島・渡嘉敷島にある「赤い瓦屋根の家」と呼ばれる慰安所でした。日本敗戦後も渡嘉敷島の日本軍陣地に立てこもったため帰国時期を逸し、本国に送還されませんでした。身寄りのない裴さんは沖縄本島の飲食店を転々とするなどして生活、77歳のとき那覇市で亡くなったのです。
裴さんは1975(同50)年に共同通信など日本のマスコミを通じて自分が慰安婦であったことを公表しました。しかし、その勇気ある行動を日本社会は真正面から受けとめず、ある資料には「裴ハルモニの証言は社会の幅広い反響を呼ぶことができず、すぐに人々の記憶の中から忘れられてしまった」とあります。
韓国社会で本格的な慰安婦運動が始まるきっかけとなったのは金学順(キム・ハクスン)さんの証言からで、1991(平成3)年8月に記者会見を行っています。裴さんはその約16年前に朝鮮半島出身の女性として初めて元慰安婦であったことを明らかにしたことになります。30数年前に『沖縄のハルモニ』上映会を行った私たちも従軍慰安婦問題に真剣に取り組むことをしませんでした。当時、在日一世の人から「日本軍に徴用されて東南アジアに行ったとき、朝鮮人の従軍慰安婦と手を取り合って泣いた」という話も聞いていたのになぜ、と反省しています。
沖縄には第二次世界大戦中約140ヵ所の慰安所があったといわれています。宮古島だけでも16ヵ所以上あったとされ、現在ミサイル部隊が駐留する陸上自衛隊宮古島駐屯地の近くに「日本軍『慰安婦』祈念碑」が2008(平成20)年9月に建てられました。祈念碑には「女たちへ」とあり、12の言語で碑文が刻まれています。他にハングルと日本語で「アリランの碑」と書かれた岩も見られます。