びえんと《円安の犯人アベノミクス002》文・井上脩身

お金じゃぶじゃぶづけ

門間一夫・元日銀理事(ウィキベテアより)

私のような安月給で長い間会社勤めをし、退職後、ささやかな年金暮らしをしている者にとって、1円たりとも物価が上がっては困る。「2%物価上昇目標」と黒田総裁が述べたとき、「やめてくれ」と思ったものだ。物価を上げることがなぜいいのだろうか。
物価と景気の関係は経済学の基本の基本らしく「モノの価格は需要と供給のバランスで決まり、需要が供給を上回れば価格が上がり、供給が需要より下回れば価格は下がる」と説明されている。消費者物価でいえば、購買力が高くなれば供給を上回るので、物価が上がることになる。ということは、会社の利益が上がれば給料が上がり、自ずと物価が上がるはずだ。安倍首相と黒田総裁が物価上昇を目指したのは、経済活動を活性化するためだったのであろう。安倍政権時代の官邸のホームページには「持続的な経済成長(富の拡大)――国内総生産成長率3%」と銘うって、「大胆な金融政策」(第1の矢)では「金融緩和で流通するお金の量を増やし、デフレマインドを払拭」とある。要するにこの国をお金のじゃぶじゃぶづけにしようということなのだ。
わが国の長期金利は2004年から2012年まではおおむね1~2%の範囲内で推移した。黒田氏が総裁に就任してからは0~1%の範囲内で推移、とくに2017年から202年まではほぼゼロ%(2016,2020年はマイナス金利)である。金利を低くすることで企業が銀行などからの融資を受けやすくし、設備投資などの積極経営への道を開こうとしたのであろう。銀行からたくさんお金を借りて企業活動が盛んになればGDP(国内総生産)が上がるはずである。
だが現実はそうならなかった。2013年に508兆円だったGDPは2017年553兆円と1割アップした。しかしその後は556兆円(2018年)、557兆円(2019年)、539兆円(2020年)、549兆円(2021年)、556兆円(2022年)と横ばい。景気は少しも良くならず、したがって需要は増えない。2%インフレが起こらなかったのも当然である。
アベノミクスは金融緩和だけでなく、第2の柱として「機動的な財政政策」をうたいあげ、「約10兆円規模の経済対策予算によって、政府自ら率先して需要を創出する」と声高らかに宣言した。その金の主な出所が国債発行であることはいうまでもない。国債残高は2013年が743兆円。その後、774兆円(2014年)、805兆円(2015年)、830兆円(2016年)、853兆円(2017年)、874兆円(2018年)、886兆円(2019年)、946兆円(2020年)、991兆円(2021年)と増加、2022年は1005兆円と1千兆円の大台を突破した。
このように国債が天井知らずに増えるのは、日銀が買ってくれるからである。借りた金は返さねばならない。しかし、放蕩息子が親に無心する場合、借金をしたように思わないのと同様、日銀を事実上政府の従属機関にした結果、政府は好きなように無心できるのだ。
こうしてこの国はお金じゃぶじゃぶ状態になった。資金100万円で営業活動している人に50万円を貸したとしよう。それでも1円の利益も上がらなければ、150万円は100万円と同じ価値でしかなく、50万円分暴落したことになる。円安とはつまるところにこういうことではないのか。アベノミクスと胸を張ったものの、投入した金に見合う経済活動がなされなかったのである。

経済成長を夢見ての愚行

放蕩息子を例にあげたので、この点をもう少し考えたい。「真人間になり、しっかり働いてお金を返します」と言うのを真に受け、どんどんお金を工面したが結局、稼ぎは増えず雪だるま式に借金が膨らんで破産、という例は世間ではそう珍しいことではない。本人は自業自得かもしれないが、奥さんや子どもは路頭に迷わされるハメになる。国債残高がこのように急激に増えている状況をみれば、国民がいずれひどい目にあうのではないだろうか。
借金が増えても、返済は将来のことだ。だから国民は天井知らずの国債残高急増の深刻さがピンとこない。だが、借金をすれば利息だけは支払わねばならない。その利息がバカにならないのである。政府の2024年度概算要求では、国債の利息支払い分として前年度12・8%増の9兆5572億円を見込だ。2022年度の予算では介護3・6兆円、福祉4・6兆円だ。この二つを合わせた金額よりもはるかに高い金が利息支払いのために消えていくのだ。もし利息払いがなければ、福祉や教育などでさらにきめ細かい施策ができるであろう。政府は自分で自分の首を絞めているのである。そのツケはすべて国民の負担になっている。
なぜこんな愚を行ったのか。日本は経済成長すると安倍氏は思い込んでいたに相違ない。安倍氏は祖父の岸信介氏を尊敬していた。その岸氏の時代、日本は戦後の復興期を終え、力強く再生の道を歩んでいた。岸氏が首相だった1959年の成長率は11・2%、1960年は12%である。安倍氏の第2次政権中、この3分の1の比率で成長したら、投入した金は税収として回収できるかもしれない。しかし、かつての成長の再現は夢幻の物語でしかないことはさまざまなデータが示している。
さて、藻谷氏が挙げた元日銀幹部である。『アベノミクスは何を殺したか』には門間一夫元日銀理事が登場する。日銀で調査統計局長、企画局長を歴任し、白川方明総裁(黒田氏の前任)のもとで金融政策担当理事、黒田総裁のもとでは国際担当理事を務めた。門間氏は「2%物価上昇目標」について「日銀の政策によって(物価目標も)2%になんかならないし、日本経済が良くなるなんて思っていませんでした」と述べる。黒田総裁の最側近ですらアベノミクスが経済成長の起爆剤とは思っていなかったのだ。それどころか、安倍氏が2次政権を樹立する前の年である2012年、国民の豊かさを示す1人当たりのGDPは14位だったが、2022年には30位まで低下した。経済の上昇をうたいあげたアベノミクスは、実際にはアベコベミクスであった。
藻谷氏は新聞のコラムにこう書いた。「安倍氏こそ真の指導者と浮かれた者たちが、『自分たち安倍氏の岩盤支持層こそが、日本経済を壊した張本人である』と自覚することは、果たしてこの先あるのだろうか」と。岸田文雄首相は、自民党内でなお大きな勢力集団である旧安倍派を慮り、アベノミクス路線からはみ出さないようにしている。日本経済が壊れても「私の責任でない」と逃げるつもりであろうか。(完)

びえんと《円安の犯人アベノミクス001》文・井上脩身

安倍晋三元首相(ウィキベテアより)

円安が進んでいる。10月26日の東京為替市場での円相場は1ドル150円48銭と150円の大台を突破、2022年10月下旬以来約1年ぶりの円安・ドル高水準となった。前年の円安のさい、その理由として日米の金利差が指摘され、政府・日銀は9・2兆円を投入して為替介入し、ドル売り・円買いを行った。だが今回はそのような動きはいまのところ見られない。政府・日銀はもはや円安を止められないと判断しているのだろうか。そうであるとすれば、金利差では説明できないほどに、日本の経済力が弱体化していることを意味しているのではないのか。国の屋台骨にかかわる大問題のはずだが、政府はだんまりを続けている。銃弾に倒れた元首相の政策が原因と、あからさまに言えないからなのだろうか。手をこまねいていると、この国の経済がジリ貧になるのは必至である。

日銀に禁じ手強いた安倍政権

藻谷浩介・日本総合研究所主席研究員(ウィキベテアより)

 

私は経済問題が苦手だ。大学の進学先として経済学部を選んだり、銀行に就職した同級生たちが、私には異人種としか思えなかった。2014年10月、1ドル110円と1年前に比べて円が20円近く安くなったとき、元銀行員だった友人ら4、5人がどこまで下がるかを話題にしていた。元公務員は135円まで下がると予想したが、3人の元銀行員はおおむね120円くらいまでとみていた。2011年10月31日に1ドル75円32銭と最高値を記録したことを思えば、135円などという予想は、元銀行員からみれば素人の当て推量でしかなかったであろう。一流銀行に勤めていた友人は「日本の経済には底力がある」というのであった。
だが円は下がりつづけ、今年9月には、「素人の当て推量」をふっとばして150円ラインに到達しかねない状況になった。「経済は苦手」の私はどう判断してよいかわからず、新聞の為替欄を日々、もやもやした気持ちで見つめるしかなかった。
9月24日の毎日新聞の「時代の風」というコラム欄が私の目を引きつけた。「行き過ぎた円安」をテーマに日本総合研究所主席研究員の藻谷浩介氏が「政治家主導のツケ」と題して投稿していた。その概略は次の通りである。
1米ドルが140円台後半という、極端な円安が続く。世界銀行算定の購買力平均ベースのレート(物価が同じように計算したレート)では、1ドルはおよそ100円なので、円安は5割近くも行き過ぎだ。
円安は輸出を増やす。1ドルが平均110円だった2021年と、平均131円になった2022年を比較すれば、輸出は82兆円から99兆円へと17兆円増加した。しかし輸入も81兆円から115兆円へと34兆円も増え、貿易収支は大幅な赤字に転落。過度の円安はかえって国際収支を悪化させるというのが令和の現実だ。
本来は、欧米に倣い金融緩和を手じまいすることで円高に誘導すべきタイミングだ。だが緩和を見直すと金利が上昇し、国債や株式の市場価格が下がる。これは国の財政難や株式不況を引き起こしかねないのみならず、日銀の財務内容も大幅に悪化させる。日銀は、国債や株式を大量に買い込むという、先進国のどこもやっていない禁じ手を、第2次安倍政権に強いられてしまったからだ。
日本経済をこのような窮地に立たせたアベノミクスがいかに愚策であったか。それをわかりやすく暴き出した本が原真人著の『アベノミクスは何を殺したか』(朝日新書)⇒写真左。そのなかで注目されるのは、当事者だった日銀の元幹部の、まるで第二次大戦を山本五十六が総括するようなトーンの告白だ。「効果のないことはわかっていたが、民主主義国家である以上、やっても効果がないことを国民に証明するためにも、やれるところまでやるしかなかった」との発言だ。
以上の藻谷氏の論旨によると、円安をまねき、日本の経済を窮地に陥れたのはアベノミクスというのである。

政権優等生の黒田バズーカー

『アベノミクスは何を殺したか』には「日本の知性13人との闘論」の副題がついている。その一人である藻谷氏がいう「日銀元幹部」の発言については後述するとして、ここではアベノミクスの問題点を、同書を参考にして考えたい。
著者の原氏は経済ジャーナリスト。安倍氏が第2次政権を担って打ち出した経済政策を「アベノミクス」と呼んだのは原氏本人だという。批判的な意味を込めたネーミングだったが、安倍氏はプラスイメージとして利用、いかにも日本経済の特効薬であるかのうように、この言葉を使った。したたかではある。
アベノミクスは金融緩和、財政出動、成長戦略の「3本の矢」から成る。翁邦雄・京大公共政策大学名誉フェローは同書のなかで「本丸は本来、成長戦略だが、結果的に大胆な金融政策に大きく依存した」と述べたうえで、「安倍首相(当時)は日銀に2%の物価目標の早期達成を強く求め、黒田東彦総裁はその意を受けて大規模な金融緩和にまい進。しかし、実は物価目標達成のメドが立って本当に金利が上がり始めたら、困難に直面するのは巨額債務を抱えている政府」と指摘する。
先進国の中央銀行は国から独立した存在であることが原則だが、安倍氏は日銀を批判し続けてきた黒田氏を総裁に起用。黒田氏は総裁に就任すると、安倍政策の執行者とばかりに2%の物価目標期限を「2年」とした。日銀が政府から独立しなければならない一番の理由は、国の意向に左右されずに物価と金融システムの安定を維持する責任があるからであるが、黒田氏は独立主義の旗を降ろし、政府に従属の立場を鮮明に示したのであった。
黒田総裁は2013年4月、市場に供給するお金の量を2倍にし、日銀の国債保有量を2倍以上に増加する量的・質的緩和を打ち出す「黒田バズーカー」を発表。2014年10月、日銀による市場へのお金の供給量を年間80兆円に増額(バズーカーⅡ)、20162月、短期金利の誘導目標をマイナス0・1%とする、世界の中央銀行では唯一のマイナス金利を実施。さらに2016年9月、長期金利操作を導入し、10年物国債金利をゼロ程度にまでおさえた。世界の中央銀行で採用された例はほかにない国債買い支え策である。
こうした黒田日銀の金融政策は中央銀行の常識を覆すもので、「黒田サプライズ」と驚きの目で成り行きが注目された。
2%目標は黒田氏が2023年4月に退任するまで達成されず、退任記者会見では「目標の持続的、安定的な実現までに至らなかった点は残念」と述べた。しかし、翁氏は「日銀が物価目標にこだわって超緩和を続け、それでも目標達成のメドが立たない、そういう状態こそが政府にとって最も居心地がいいという矛盾した状態が続いていた」という。黒田氏は安倍政権にとって実に都合のよい優等生だったことになる。(明日に続く)

Lapiz2023冬号《巻頭言》Lapiz編集長 井上脩身

熱唱する桑田佳祐さん(ウィキベテアより)

ロックバンド「サザンオールスターズ」(以下「サザン」)のデビュー45周年を記念して、NHKが特別番組「MUSIC SPECIAL 45年経っても″馬鹿でごめんよ″」を9月28日、放映しました。この番組の中で、バンドマスターでボーカルの桑田佳祐さんが新曲『Relay~杜の詩』を披露。東京・神宮外苑の再開発事業に抗議する形で桑田さんが作詞・作曲したもので、時折天を見あげて歌う桑田さんのもの悲しげな表情を見ていると、エリーをしのんでいるように思いました。

岩本えり子さん著『エリー――茅ケ崎の海が好き』の表紙

サザンが『勝手にシンドバッド』でデビューしたのは1978年。そのころ、私はロックには関心がなく、サザンという名前を知っているだけでした。1985年ころ、サザンのファンという親しい友人に薦められ、テープを聞いてみました。『勝手にシンドバッド』は、茅ケ崎(神奈川県)の海岸を題材に、「江の島が見えてきた、俺の家も近い」とアップテンポにうたっています。『C調言葉に御用心』など初期の曲は総じてテンポが速くてついていけず、好きにはなれませんでした。
そんななか、スローテンポな『いとしのエリー』には引かれました。エリーに思いを寄せる心の機微を細やかに歌い上げていて、情感がしんみりと伝わってくるのです。歌いだしの「泣かした事もある、冷たくてもなお よりそう気持ちがあればいいのさ」という歌詞が気に入り、散歩中、一人口ずさんだものです。

2010年ころ、書店で『エリー――茅ケ崎の海が好き』という本が目に留まりました。著者は桑田さんの姉、岩本えり子さん。躊躇なく買い求めました。
えり子さんは桑田さんの4歳上。小さいころ、兄弟二人で自宅近くの茅ケ崎の海岸で遊び、加山雄三の家の庭にもぐり込んだりしたそうです。えり子さんはビートルスの曲を好み、弟には子守り歌のように聞かせたといいます。桑田さんの音楽センスはえり子さんによって芽生えたのです。
えり子さんはアメリカにわたりますが、1990年、帰国し茅ケ崎に戻りました。やがて、茅ケ崎の海岸に14階建て、高さ47メートルのマンション建設計画がもちあがりました。茅ケ崎付近では、海辺から約70~80メートルくらい内側を、国道が海岸に平行して通っています。国道より海側には高層建築がないので、浜辺が伸び伸びと広がり、「サザンビーチ」と親しまれています。
「大きなマンションが建つと浜辺から富士山が見えなくなる」と怒りをおぼえたえり子さん。「弟と遊んだ浜辺を壊されてなるものか」と、「茅ケ崎・浜景観づくり推進会議」(はまけい)という市民団体を立ち上げ、マンション建設反対運動をはじめました。茅ケ崎海岸から見る富士山は「関東の富士見百景」の一つとされています。茅ケ崎市民全体に運動の輪が広がり、3万もの反対署名が集まりました。桑田さんももちろん、署名した一人です。
えり子さんらの奮闘の結果、建設計画は撤回されました。ところが2008年、えり子さんはがんで亡くなりました。『いとしのエリー』には「あなたがもしもどこかの遠くへ行きうせても、今までしてくれたことを忘れずにいたいよ」という詞があります。えり子さんがずっとアメリカ暮らしをしていたこともあって、「エリーのモデルはえり子さん」と、うわさされていました。その歌詞どおり、えり子さんがほんとうに遠くにいってしまったことに、桑田さんは胸が張り裂けるおもいだったに相違ありません。
私は2010年2月、東京への出張の途中、茅ケ崎の海岸に立ち寄りました。マンション計画地には2階建ての結婚式場が建っていました。残念ながら曇っていて、富士山は見えません。反対側に視線を転じると、江の島が霞んでいます。すきではなかったはずの『勝手にシンドバッド』の曲が、私の頭の中に流れました。

結婚前の桑田さんと原由子さん(ウィキベテアより)

えり子さんが亡くなったのはサザンデビュー30周年のときでした。そして45周年の今年、神宮外苑の大木を切り、神宮外苑のシンボル、イチョウ並木のそばに神宮球場を移築するという再開発事業が大きなニュースになりました。桑田さんは、親交のあった音楽家の坂本龍一さんからその話を聞いたそうです。
桑田さんは、妻でサザンのキーボード・ボーカルの原由子さんとは青山学院大学で知り合いました。青学から東1・2キロの所に神宮外苑があり、二人にはさまざまな思い出がつまったところです。人気バンドになってからは、二人はサザンメンバーとともに神宮外苑にあるスタジオで曲づくりを行っています。外苑の森は桑田さんにとってミュージシャンとしての命の森なのです。
坂本さんは今年3月、71歳で亡くなりました。その死が桑田さんには「茅ケ崎の海岸を壊すな」といって亡くなったえり子さんと重なったのではないでしょうか。「神宮外苑を壊されてたまるか」。そんな思いをこめて歌を作ったのです。
『Relay~杜の詩』は「誰かが悲嘆(なげ)いていた」で始まります。桑田さんの嘆きの歌なのです。その嘆きは、坂本さんの嘆きであり、神宮外苑を愛するすべての人の嘆きでもあります。
神宮外苑の再開発事業にはどのような問題があるのでしょうか。本号では、編集長のコラム「びえんと」のなかで考えてみました。

びえんと《川柳人・鶴彬の反戦魂002》文・井上脩身

戦時下俳句の証言

五七五といえば一般的にはまず俳句を思い浮かべるだろう。柄井川柳の名前を知る人は少ないが、芭蕉を知らない人はまずいない。では反戦俳句を詠んだ例はあるだろうか。
『戦時下俳句の証言』(高崎隆治著、新日本新書)を開いてみた。
同書は日中戦争開始から太平洋戦争の敗戦までの間に発表された俳句の中から約150点を収録、それぞれの句を著者が注釈している。戦地編と内地編に分けて編成されていて、残忍な句が多いのは、当然のことながら戦地編だ。目に留まった句を挙げる。(カッコ内は著者の注釈から引用)

童子死ねり浅き散兵壕に寄り
(童子は中国の少年兵。15歳前後。日中戦争当初から最前線で戦った)

憎しみもなく首を打つ日寒く
(中国兵の捕虜を日本刀で切った。しかし切ったのは作者ではない)

いま兵が死にゆく暖炉すでに消え
(作者は残された衛生兵。死ぬ者のために暖炉は必要ない)

忍従の兵這ひ泥土馬を喰ふ
(泥濘の中での言語に絶する苦闘)

一本の煙草吸ひ終へず睡魔くる
(極限状態の露営の句)

戦ひの下けふも生きて凍飯(こごり)食ひにけり
(飯盒飯が凍ると箸を突き立てることもできない)

兵かなし夢にふるさと見んと言ひぬ
(妻子ある年配の応召兵の作か)

戦友を焼くことに馴れゐて寒かりき
(遺体を焼きながら自分の運命に涙する)

冬の日や灰に残れる妻の文字
(行軍が苦しく、所持品を軽くするため妻の手紙を焼いた)

蠅が吸ふ捕虜の眼二つとも撃たれ
(目が見えず捕虜となった兵の目にたかるハエ)

灯(ひとも)せば火蛾より先に来る敵機
(制空権を完全に失った南方戦線)

たたかひは蠅と屍をのこしすすむ
(兵士の糞便と死体でハエが何万倍も増える)

酷熱の野を行く骨と皮の民
(近隣諸国の人々は日本の過去を許していない)

凍死人日ごと衣をはがれゐし
(上海での1939、40年ころの凍死者は年に2万人におよんだ)

これらの句は戦争のもつ非情さ、無残さを詠んだ秀句であろう。本のタイトル通り、歴史の証言でもある。この意味で非常に価値高い作品ではあるが、読み手を圧倒する迫力では鶴彬の川柳作品にはかなわない。芭蕉から正岡子規、高浜虚子らに至る俳句の流れをみると、作品にはいずれも気品があふれている。人間を将棋のコマよりも軽く扱う戦争という残酷な現実を表すのに、俳句は本質的に向いていないのであろうか。
川柳が俳句の半分でも浸透していたら、「戦時下川柳の証言」という本が生まれたかもしれない。

「新しい戦前」のなかで

本稿は『反戦川柳人鶴彬の獄死』という新刊本の書評を引用して書きはじめた。書評氏が「『新しい戦前』とも言われる時代に何ができるか、すべきかを考えさせられる」と結んだことはすでに触れた。
鶴彬が獄死したのは1938年。敗戦の7年前に当たり、まさに戦前、反戦川柳作家として精力的にかつ果敢に活動したのである。同書の著者、佐高信氏は「1910年の大逆時代を皮切りに、鶴の生きた時代をたどれば、それはそのままファシズム激化の時代である」と述べ、「1938年の国家総動員法の年に鶴はその生涯にピリオドを打たれる」と書く。鶴の死後、戦争は拡大の一途をたどり、210万人もが命を落とす悲惨な結末を迎えた。

「新しい戦前」と呼ばれるいま、鶴が獄死したころと似た状況にあるのだろうか。
まず踏まえておかねばならないのは「戦後」とは何かである。
私は1946年11月3日の憲法発布(施行は1947年5月3日)から戦後が始まると考えている。その憲法の根本は絶対に戦争をしないという決意である。戦争によって日本国内だけでなくアジアの人たちを悲劇の渦の中に巻きこんだ戦前・戦中という暗黒時代の反省から、国民の支持を得て生まれたのが憲法なのである。
政府は2022年12月、国家安全保障戦略の中に敵基地攻撃能力の保有を明記した。岸田文雄首相は北朝鮮や中国を念頭に、「わが国周辺のミサイル能力が向上しており、相手からのさらなる武力攻撃を防ぐために敵基地攻撃能力が必要」と説明、2113億円をかけてアメリカで開発された巡航ミサイル、トマホークを配備することを決定。2027年度までに防衛費を43兆円と現行の1・57倍に増額すると表明した。

安倍晋三政権下、憲法9条を強引に拡大解釈し集団的自衛権の行使を容認する閣議決定をした。ひどい憲法違反決定であるが、それでも一応、「自衛」という名目だけは残していた。「敵基地攻撃能力」は自衛すらもかなぐり捨て、積極的に相手を攻撃しようというものである。もはや憲法はなきものと言っても過言ではない。鶴が獄死したのは日中戦争が始まって2年目である。現在、中国とは戦争状態にはないが、岸田首相は繰り返し、中国の軍事行動について「深刻な懸念」と表明しており、日中間の軍事的緊張感は強まるばかりである。

実際に戦争が起きると、「万歳とあげて行った」ものの、「手と足をもいだ丸太」になるのだ。今できることは何か。川柳をかじったことのある一人として、鶴彬の川柳を少しでも多くの人たちに紹介し、読んでもらうことだろう。

本稿を自作の川柳句で締めくくりたい。

税金が上がる軍靴の音上がる       (完)

びえんと《川柳人・鶴彬の反戦魂001》文・井上脩身

ジョン・ウェインもびっくりトランプ西部劇

私が入っていた川柳の会に投句した句である。大統領在任中のトランプ氏の人種差別的傾向を詠んだのであったが、再選を目指した大統領選で敗れたあとの醜態をみると、冒頭の句の生ぬるさに恥じ入った。滑稽洒脱を表す川柳としては悪い句ではないが、しょせんは小手先だけの言葉遊びに過ぎないと、一種の自己嫌悪に陥り、1年前に会を辞めた。その後も、川柳はどうあるべきか、自問自答を繰り返し、悶々と日々を送るなか、戦前、鶴彬(つる・あきら)という川柳人がいたことを知った。

万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た

鶴彬のこの句に私が頭をガーンとたたかれるおもいがした。鶴彬は反戦のおもいを、マグマの噴出のように激烈に作句し、29歳で獄死したのであった。

心の奥深く食い入る作品

鶴彬を知ったのは、新聞の書評欄に出ていたからである。本は佐高信著『反戦川柳人鶴彬の獄死』(集英社新書)。書評には「筋金、しかも尋常でない太さと堅さを持った筋金入りの反戦反軍国主義人の評伝」とある。(6月24日、毎日新聞)
鶴彬の短い人生を紹介するには、この書評欄の記述が要領よくまとめられており、書評記事から引用したい。

鶴彬の本名は喜多一二(かつじ)。1909年、石川県に生まれ、若くして社会主義を学んだ。1930年、陸軍に入隊。2カ月後、3月10日の「陸軍記念日」、連隊長が「軍人勅諭」を「奉読」しているさなか、「連隊長、質問があります!」と突然申し出た。鶴は左翼思想を連隊内で拡大すべく活動。軍法会議で懲役2年を言い渡され、最下級の2等兵のまま除隊。

こうした中でも川柳句を作り、戦争にまみれた国と軍国主義を痛烈に非難し続けた。前述の句など、中国戦線で最前線に立った兵士たちを詠んだ作品を通して、戦争を始めた為政者たちは戦場の最前線には行かない、行く・行かされて心身にけがをしたり命を落としたりするのは庶民、という事実を鋭く突いた。日中戦争が始まって1年後の1938年9月14日、獄死した。

軍国主義、ファシズムと闘った「民衆柳人」の生き様を知るにつけ、「新しい戦前」とも言われる時代に何ができるか、すべきかを考えさせられる。と書評氏は結んでいる。早速『反戦川柳人鶴彬の獄死』を購入した。
鶴の作品が初めて世に出たのは1924年10月25日の北国新聞夕刊。治安維持法の制定(1925年)への動きなど、政府の思想弾圧が厳しくなりだしたころだ。

暴風と海との恋を見ましたか

早熟な才能が認められ、1925年、16歳のころから雑誌に寄稿し、川柳文壇に踏み出す。

出征の門標があってがらんどうの小店

屍のゐないニュース映画で勇ましい

鶴は師範学校進学を養父に認められず、養父が経営する機械工場で働き、劣悪な女子工員の労働実態を目にする。

もう綿くずを吸へない肺でクビになる

吸いにゆく?―姉を殺した綿くずを

18歳のとき東京へ出て井上剣花坊に師事。金融恐慌で倒産が相次いでいた。

目かくしをされて阿片を与えられ

釈尊の手をマルクスはかけめぐり

高く積む資本に迫る蟻となれ

都会から帰る女工と見れば病む

19歳のとき、高松プロレタリア川柳研究会の中心メンバーとなる。

人見ずや奴隷のミイラ舌なきを

鶴に対する官憲の目が厳しくなり、剣花坊の庇護を受けて作句。

屍みなパンをくれよと手をひろげ

プロレタリア生む陣痛に気が狂ひ

監獄を叩きつづけて遂に破り

1933年、金沢の第七連隊に入る。抵抗をつづけ、大半を監獄で過ごした。

出征のあとに食えない老夫婦

ざん壕で読む妹を売る手紙

暁をいだいて闇にゐる蕾

タマ除けを産めよ殖やせよ勲章やろう

鶴は800点以上の作品をかいた。すでに触れた「万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た」にみられるように、弾圧され、おそらく拷問されてもひるまずに作った句の激しい表現に読み手は圧倒される。
その最後の作品。

手と足をもいだ丸太にしてかえし

「人々の心の奥深く食い入る反戦平和の作品」と評価の高い傑作である。

(明日に続く)

 

 

Lapiz2023秋号《巻頭言》Lapiz編集長 井上脩身

主要7カ国首脳会議(G7)が5月19日から21日まで広島で行われました。首脳は原爆資料館を見学した後、そろって原爆死没者慰霊碑に献花しました。慰霊碑の向こう建つ原爆ドームを目にして、何を考えたのでしょう。私は実況されているテレビ映像を見て、俳優、吉永小百合さんが朗読した原爆詩「慟哭」を思い浮かべました。子どもを失った母親の悲しみを切々とつづったこの詩のことを首脳たちは知らないにしても、原爆がいかに残忍なものであるかを学んだはずです。ならば核廃絶を目指すのが世界のリーダーであるG7首脳の役割と自覚すべきでしょう。しかし、「核廃絶」という言葉はついに発せられませんでした。 “Lapiz2023秋号《巻頭言》Lapiz編集長 井上脩身” の続きを読む

びえんと《押し付けを否定した内閣憲法調査会》Lapiz編集長 井上脩身

――改憲にカジを切らなかったナゾに迫る――

矢部貞治・内閣憲法調査会副会長

日本の憲法について自民党は「アメリカに押し付けられた」として憲法改変を党是としてきた。保守合同で結党された翌年の1956年、「我が国の主体的憲法に変える」ために安倍晋三元首相の祖父・岸信介首相(当時)らによって、「内閣憲法調査会」が設置された。当時の社会党が「改憲のための調査会」と位置づけたとおり、改憲志向の議員や学者を中心に調査会は構成され、「憲法を変えるべきである」との報告がなされると予想された。7年間の審議を経て1964年に最終報告書がまとめあげられたが、「改正の可否」については両論併記にとどまり、保守派のもくろみは外れた。その理由が私にはナゾであったが、改憲論者であった矢部貞治副会長が「改正反対」に意見を変えたことが少なからず影響していたことを最近、新聞記事で知った。もし矢部副会長が当初の意見を維持していれば、わが国は早い段階で改憲へと大きくカーブをきっていたかもしれない。

マッカーサー・幣原会談

矢部副会長は政治学者で、1939年5月から1945年12月まで東大教授。近衛文麿内閣の有力ブレーンとなり、拓殖大学の総長も務めた。内閣憲法調査会最終報告書の実質的な起草者だったと言われている。
憲法調査会は自民党が、改憲発議に必要な3分の2議席を確保できなかったことから、改憲の方向を確固たるものにするために提案され、岸内閣のときに発足。定員は50人だが、社会党が不参加だったこともあって欠員が多く、国会議員20人、学識経験者19人でスタートした。委員のなかには蝋山正道(政治学)、正木亮(法学)各氏や笠信太郎・朝日新聞論説主幹ら著名な学者、ジャーナリストも入っていたが、冒頭に述べたように全体として自民党衆院議員の中曾根康弘、船田中、小坂善太郎、清瀬一郎各氏ら改憲論者で占められていた。

『日本国憲法30年』の表紙

『日本国憲法30年』(伊藤満著、朝日新聞社)によると第1委員会「司法と基本的人権」、第2委員会「国会・財政・内閣・地方自治体」、第3委員会「天皇・最高法規・戦争放棄」の3委員会で編成。会長に高柳賢三東大名誉教授(法学)、副会長に矢部氏と山崎巌・自民党衆院議員が就任した。
1956年8月、第1回総会が開かれ、岸首相は「憲法制定の事情と、その後の10年にわたる実施の経験とにかんがみ、わが国情に照らし種々検討すべき点がある」とあいさつ。ストレートに改憲とは述べなかったものの、その思いを強くにじませていた。押し付け論者の岸氏の提案による委員会だから、当然といえば当然であったが、調査・研究のための中立的な委員会という外形をとりながら、改憲への理由づくりのための委員会であることは明らかだった。
だが、首相の思惑通りには進まなかった。高柳会長が「憲法を一定方向に向けて改定することを前提とする政府機関でなく、全国民のための検討を加える場」と明言。その一環として、1958年秋、高柳会長を団長とする調査団をアメリカに派遣した。その調査で、1946年1月11日マッカーサー元帥宛ての、国務、陸軍、海軍3省調整委員会指令第228号という、アメリカの対日政策の基本方針を示した文書に接した。文書は「日本の統治体制の改革」と名づけられ、天皇制、内閣、司法、立法など多岐にわたって民主的な方針を示している。問題の「戦力不保持」については「日本における軍部支配の復活を防止するために行う政治的改革の効果は、この計画の全体を日本国民が受諾するか否かによって、大きく左右される」と記されており、日本国民の意思を重視していたことが判明した。
高柳会長は調査を終えて帰国し、羽田空港で調査結果を談話の形で語った。その中で、9条について「自衛のための戦力を保持することを認めるものであるかどうかに幾多の議論があったが、マッカーサー元帥は、他国の侵略に対し自国の安全を守るために必要な措置を続けることは当然で、第9条はなんらこれを妨げるものではないと当初から考えていた。しかし、同時に第9条は幣原元首相の高邁なステーツマンシップを表示するもので、世界の模範となるべき永久の記念碑」と述べた。第9条はアメリカの押し付けでなく幣原喜重郎元首相の理想をうたいこんだ、との認識を示したのである。

日米合作憲法論

幣原喜重郎・元首相

前項でふれた幣原元首相のステーツマンシップとは何であろうか。
マッカーサー連合軍最高司令官は1946年2月3日、戦争放棄などの3原則を示したが、その直前の1月24日、幣原首相がマッカーサーと会談。幣原は「世界中が戦力を持たないという理想論を(いだき)はじめ、戦争を世界中がしなくなるようになるには、戦争を放棄するということ以外にないと考える」と語りだすと、マッカーサーは急に立ち上がって両手で幣原の手を握り、涙を目にいっぱいためて「その通りだ」と言ったという。(古関彰一『平和憲法の深層』ちくま新書)
高柳会長はアメリカで、マッカーサー・幣原会談の内容を記した資料を目にしたのであろう。戦争放棄を最初に言い出したのは幣原氏と知ったのだと思われる。
調査会では9条について 1)現行のままでよいか 2)改正を考える場合には、その基本方向は何か――にしぼって審議された。
「自衛権のない国家は考えられない。だれにも分かるようにはっきりした文章に改めるべきだ」(法曹代表・弁護士)▽「自衛隊の保持は明記すべきだ」(中小企業代表)▽「永久平和を願う9条の理想そのものが日本の自衛権を表しており、憲法を変える必要はない」(婦人代表)▽「敗戦という異常な時代にあって、自らの力に寄らず作ったものなので、改正の必要がある」(青年代表)▽「9条は戦争の惨苦を受けた全国民の願いを表現したもの。平和主義で行くべきだ」(労働代表)▽「9条の建前を守り、全世界に戦争の放棄を呼びかけるべきだ」(中小企業代表)などの意見が出た。
以上は『日本国憲法30年』から引用したものだが、意外に9条維持の意見が多い。国会議員は発言しなかったのか、同書が取り上げなかったのかは定かでないが、高柳談話が審議に影響を及ぼした可能性が高い。
こうした審議を経て、報告書のまとめに入った段階での総会で、高柳会長が意見陳述を行った。そのなかで9条について「現行憲法は占領下でつくられた関係もあって、マッカーサー元帥を中心とする米国に押し付けられたものであるという説がかつては有力であったが、憲法調査会が行った事実調査の結果、これは誤りで、日本側の自主性も相当加味されており、正確には日米合作とみるべきだ」と述べ、押し付け憲法論を否定した。
最終報告書は池田内閣に提出されたが、池田勇人首相はこの報告書を政治的争点にすることを避けた。高柳会長の発言にみられるように、自民党の望むような明確に改憲を志向する結果にならなかったうえ、安保改定をめぐって国民の間に高まった「戦争に巻き込まれる」という反戦意識を警戒したためと思われる(田中伸尚『憲法九条の戦後史』岩波新書)。

意見を変えた副会長

前掲の『日本国憲法30年』には憲法調査会委員の改憲派、非改憲派の色分けが記されていて、実に興味深い。色分けは次の通り。

改憲不要論=高柳賢三、蝋山正道、正木亮、中川善之助ら7人
全面改憲論=愛知揆一、山崎巌、木村篤太郎ら19人
戦闘的改憲論=大石義雄ら3人
慎重改憲論=古井喜美ら2人
時期尚早論=井出一太郎
部分改憲論=矢部貞治
最後の矢部貞治が本稿の主人公である。

矢部副会長が意見を変えたことについては、4月15日付毎日新聞の「井上寿一の近代 史の扉」というコラム欄で取り上げられた。
同コラムによると、矢部副会長は戦前、東大で政治学を担当、戦時中新体制運動の理論を構築したことで知られているが、東大を辞したあと「浪人生活」を送るという異色の学者。改憲論者でもあった。
調査会の発足から5年後、矢部副会長は調査の実績を踏まえて「この憲法に抱いていた考えが、大きく変わってきたことを告白せざるをえない」と発言。「占領軍が日本を骨抜きにする目的で、押し付けたというのは正しくない」として、押し付け憲法論が間違いであったと認めた。矢部氏は、日本国憲法は、極東委員会(連合国の対日最高政策決定機関)の天皇制廃止の主張に先手を打って、天皇制を救うためだったと考えたという。

調査会では、9条の下でも自衛隊違憲ではないとするのがほぼ全員の見解だった。意見が対立したのは、「防衛体制の現実に合わせる方向」に9条を改正するか、「現実の防衛体制をできるかぎり9条に合致させるべきか」だった。矢部副会長は高柳会長とともに「現行憲法の規定の欠陥を指摘し、解釈の統一を期するために条文を改正すべきであるとする見解には賛成しえない」との立場をとった。

こうした矢部副会長の認識は最終報告書の「日本国憲法の制定経過」に反映された。報告書は制定過程を敗戦時における「きわめて異常」なものとしながらも、「当時のわが国をめぐる微妙な、しかも峻厳な国際情勢の中で行われたこと」と指摘。そのうえで「憲法は押し付け」なのか「日本国民の自由な意思に基づくもの」だったかについては、「事情はけっして単純ではない」と結論づけた。
矢部副会長は最終報告書が提出される直前の講演で「改憲勢力が国会で3分の2を占めたとしても、憲法改正などということはなかなかできるものではないと思います」と述べた。そして「国民のなかから盛り上がる要求があって、初めて改正というものができる」と付言した。
改憲派、非改憲派の色分けでは高柳会長が改憲不要論なのに対し、矢部副会長は部分改憲論。手元の資料では、矢部副会長がどの規定を変えるべきだと考えているのかわからないが、9条については変えるべきでないと考えたことは明白だ。

安倍晋三元首相は憲法9条について「自衛隊を明記すべきだ」との考えを示し、9条改変の方向づけをした。これに対し、九条の会は「占領時代につくられたとの相も変らぬ押し付け憲法論」と強く反発している。
岸田文雄首相は安倍政治を基本的に継承、1月26日の衆参院本会議で憲法の改変について「総裁選などで『任期中に実現したい』と言ってきた。先送りできない課題」と、改憲への強い姿勢を示した。内閣憲法調査会の高柳会長は「9条は幣原元首相の高邁なステーツマンシップを表示するもの」と述べた。その理想を岸田首相は投げ捨てるというのである。

理想だけでは敵国の侵略から守れないとの論がある。ウクライナ戦争、台湾海峡の緊張、北朝鮮のミサイル威嚇など、わが国を取り巻く環境は近年厳しさが増していることは確かだ。問題は矢部副会長が言うような「国民のなかから盛り上がる要求」があるかどうかである。世論調査などでは憲法改変を是とする国民が「変えるべきでない」をわずかに上回っているが、軍拡増税には国民の多くが反対している現状をみると、「盛り上がる要求」とまではとてもいえまい。
9条を変えることは、「平和主義国家」というわが国の心柱を抜いてしまうことである。国の屋台骨がくずれると、それこそ敵国からの侵略という暴風に耐えられなくなる。内閣憲法調査会の調査結果はそれを教えてくれているのである。

2023夏号Vol.46《巻頭言》Lapiz編集長 井上脩身

菊池由貴子さん

新聞業界はいま危機を迎えています。スマホの普及にともない、中・高年層までが新聞をとらなくなったのです。そんななか、東日本大震災の被災地で一人の女性が新聞の発行を始め、「知りたい情報が載っている」と避難者らから信頼されたと知りました。女性は、取材から編集、広告取りまで1人でやり抜いたそうです。ネットなどを通じてさまざまな情報を知ることができる便利な世の中になりましたが、暮らしに必要な身の回りの情報を得るのはそうたやすいことではありません。大手新聞、タウン紙、広報紙のいずれでもない「ひとり新聞」。その身軽さのゆえに読者のニーズに応えることができたのだと思います。 “2023夏号Vol.46《巻頭言》Lapiz編集長 井上脩身” の続きを読む

びえんと《鮮明になった松川事件でのアメリカの謀略 #3》文・Lapiz編集長 井上脩身

写真特集 びえんと《鮮明になった松川事件でのアメリカの謀略

びえんと《鮮明になった松川事件でのアメリカの謀略 #2》文・Lapiz編集長 井上脩身

暗躍するアメリカ防諜部

検察がえがいた共産党の犯行というストーリーは雲散霧消と化したが、しかし事件そのものは現に発生し、3人が犠牲になった。では真犯人はだれか。

松本清張は『日本の黒い霧』(写真左)所収の「推理・松川事件」で、アメリカ軍政部が福島市に陣取っていたこと、福島CICが共産党対策に熱中していたこと、CIAが破壊活動班を鉄道補給路の鉄橋を爆破させた例があることなどを挙げて、GHQに疑惑の目を向ける。

吉原公一郎氏は諏訪メモのなかの以下の記述に注目する(『松川事件の真犯人』祥伝社文庫)。

6・30赤旗事件トカチ合ウ 11日カラ10名位
地警→警備係長→応援者 根拠地→原
民政部→労務課(野地通訳)
CIC→tel 1360→加藤通訳
連絡者→<松川デス 頼ミマス>20分
労政課→野地課長 or 高原
C・Cor
 30名地警カラ来ルノハ最大限

吉原氏は次のように解釈できるという。

「国家警察福島本部への連絡は、警備課長(あるいは次席)にすること。11日からはそこから10名の応援が来ている。福島地区警察への連絡は警備係長にすること。根拠地とあるのは、ここに連絡すれば、東芝労組弾圧にすぐにも乗り出せる警備配置ができているということであろう」。メモをこのように捉えたうえで、吉原氏は「驚くべきことに、アメリカ民政部労政課やCIC(防諜部)などとも密接な連絡体制ができていた」といい、<松川デス 頼ミマス>は「すべてが了解され動きだせることになっていることを意味する」とみる。

 CICはアメリカ陸軍情報部下の諜報機関だ。このメモは、東芝松川工場の労働組合対策のため、CICと警察が密接に連絡を取り合っていたことを示しているのである。

 松川事件の捜査の指揮をしていたのは福島県警察本部の玉川正捜査課次席(警視)。吉原氏は事故発生から30分余りしかたっていない3時40~50分ごろ現場に到着したと推測。玉川警視は捜査員より早く現場に到着し、次席自ら現場検証をしたことになり、捜査の通例からみて明らかに異常。福島CICから東芝松川工場まで20分で行けることなどから、吉原氏は玉川警視が福島CICと一緒に現場に向かったとみる。

  福島CICはどのような組織であったのか。大野達三氏の著書『松川事件の犯人を追って』(新日本出版)によると、1949年時点では福島CICはアンドリュース少佐を隊長に約30人で編成。東という姓の兄弟の準尉やジム・藤田という日系人のほか、ジョセフ・マッサーロという飯坂温泉に住んでいた者がいた。諏訪メモに記されている「加藤通訳」はジョージ・加藤と思われる。

 大野氏は「軍政部の労組対策は、GHQの方針に従い労働組合から共産党などの勢力を一掃することにあり、国鉄、東芝などの共産党員のリストづくりから始められた」と分析、「CICの労働組合係は軍政部の労組対策と歩調を合わせていた」という。諏訪メモはこれを明白に裏付けている。

 ところで、事件の夜、呉服店の蔵破りを試みて失敗した二人の男性が、事件現場近くで9人の男とすれちがっている。この9人はいずれも背が高く、実行犯である可能性が高い。そのうちの一人が「イイザカ温泉はどの方向か」などと話していたと公判で証言しており、飯坂温泉のジョセフ・マッサーロのところに向かったとみるのが自然だろう。

レール切り取り実験
 2010年8月30日に開かれた交通政策審議会陸上交通分科会鉄道部会中央新幹線小委員会の会合で、井口雅一・東大名誉教授(機械工学)が「鉄道の弱みは脱線」と2004年に起きた中越地震による新幹線の脱線などのスライドを映して事例報告をし、「カーブでなければ慣性の法則によって列車は基本的にまっすぐ走るので少しのことでは転覆まではいかない」と述べた。このあと井口氏は注目すべき発言をした。「アメリカ軍が戦時中の鉄道破壊工作の実験をした記録の動画がある」というのである。
動画をネットで検索したが、見られないよう手を加えられていた。井口氏の解説で想像するしかない。井口氏によると、その実験はレールの一部を切り取ってしまうという荒っぽいもので、「約1メートル程度欠損した状態では機関車の先頭の車輪は脱線しているが、他は無事。車輪一つ破損した程度ではいきなり脱線しないという印象」という。
分科会の名称からも分かる通り、井口氏は松川事件の解明のために語ったわけではもうとうないが、大いに参考になる発言である。事件現場はカーブであった。カーブでなければ簡単に脱線、まして転覆までいかないことは実験で証明済みだったのである。長さ25メートルのレール1本がまるまる外されていたのは、実験で得たデータに基づいたためとみることができであろう。GHQの謀略とみる立場からは有力な傍証であることはいうまでもない。

線路破壊事件といえば、その多くが爆破によるものである。

1928年6月4日、中国の軍閥の指導者・張作霖が乗る特別列車が奉天近郊の立体交差点にさしかかったところ、南満州鉄道(満鉄)の橋脚に仕掛けられた火薬が爆発、列車は大破、張作霖は死亡した。関東軍は国民革命軍の仕業に見せかけ、これを口実に南満州に侵攻。関東軍が行った暗殺事件とわかり、「張作霖爆殺事件」とよばれる。1931年、やはり奉天近郊の柳条湖付近で関東軍が満鉄の線路を爆破、中国軍の犯行と発表した。柳条湖事件と呼ばれるこの鉄道爆破事件が満州事変の発端となり、15年戦争につながった。日本の中国・満州侵略は鉄道爆破によって始まったといっても過言ではない。

2022年2月に始まったウクライナ戦争で、10月24日、ベラルーシとの国境に近いロシア西部ブリャンスク州で線路が爆発した。英国防相はロシア国内の反戦団体が犯行を表明したと述べた。

西部劇でもダイナマイトで爆破するシーンが少なくない。スペイン内戦を描いたヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』もクライマックスは鉄橋爆破だ。鉄道破壊には爆破が手っ取り早いのである。

このようにみると、線路を外すという手の込んだ犯行は、実験を重ねたアメリカ軍の得意分野と言えるだろう。では事件はGHQの自作自演であったのだろうか。

松川事件3カ月前の1949年5月9日午前4時23分、愛媛県北条町の国鉄予讃線、浅海―北条間で、高松桟橋発宇和島行き準急列車が脱線、機関助手ら3人が即死した。現場はカーブで、継ぎ目板が2カ所で4枚はずされ、レールが75ミリ、海側にずれた形で外されていた。「予讃線事件」と呼ばれ、警察は「共産党員」と称する21歳の男性を逮捕。男性は共犯者3人の名前を挙げて犯行を自供したが、共犯者のアリバイが証明され、男性もシロと判明、迷宮入りとなった。
予讃線事件は列車脱線の態様、その後の捜査状況ともに松川事件とうりふたつである。アリバイが証明されなかったら、松川事件にならぶ冤罪事件になったに相違ない。それはともかく、レールを外すという手口から、米軍の鉄道破壊実験を想起しないわけにはいかない。予讃線事件と松川事件をセットにして解明の努力がなされていたら、その裏に潜む共通の組織体が浮かび出たかもしれない。

99歳で亡くなった阿部市次さんは松川事件の20人の元被告のうち、最後の生存者だった。福島県の地方紙『福島民友』の電子版によると、無罪が確定したあと、阿部さんは冤罪のない社会の実現に向けて語り部活動を行い、取り調べや裁判での経験を語りつづけたという。阿部さんは事件の裏でうごめく米軍の影をどう感じていたのだろう。

不条理にも「脱線転覆殺人犯」の汚名を着せられて被告席に立たされた20人の無辜の人たち。全員が帰らぬ人となった今なお、事件の真相は深い闇の底に沈んだままである。(明日に続く)