2023夏号Vol.46《巻頭言》Lapiz編集長 井上脩身

菊池由貴子さん

新聞業界はいま危機を迎えています。スマホの普及にともない、中・高年層までが新聞をとらなくなったのです。そんななか、東日本大震災の被災地で一人の女性が新聞の発行を始め、「知りたい情報が載っている」と避難者らから信頼されたと知りました。女性は、取材から編集、広告取りまで1人でやり抜いたそうです。ネットなどを通じてさまざまな情報を知ることができる便利な世の中になりましたが、暮らしに必要な身の回りの情報を得るのはそうたやすいことではありません。大手新聞、タウン紙、広報紙のいずれでもない「ひとり新聞」。その身軽さのゆえに読者のニーズに応えることができたのだと思います。

 この女性は岩手県大槌町の菊池由貴子さん。菊池さんが毎日新聞に「一般社団法人・大槌新聞社代表理事」の肩書で投稿(3月2日「発言」欄)、そのなかの、「震災翌年に大槌新聞を創刊、大槌町の復興や地方自治を取材している」との記述に目を留めました。菊池さんは創刊から10年間の活動を『私は「ひとり新聞社」――岩手県大槌町で生き、考え、伝える』(亜紀書房)と題して刊行しました。同書を読んで、菊池さんの奮闘ぶりに共感しました。

 大槌町は製鉄のまち、釜石市の北隣。大槌湾にはNHKで放映された『ひょっこりひょうたん島』のモデルとなった蓬莱島が浮かんでいる、という書きだしから始まります。この人形劇の原作者の一人である作家、脚本家の井上ひさしに、『吉里吉里人』という小説があります。私は20年くらい前に読みました。あまりにも面白くて、腹をかかえて笑い転げたものです。大震災の3年後に大槌町を訪ねたとき、「吉里吉里」という地名があるのを知り、えっ! と驚きました。海沿いの吉里吉里地区は住宅がことごとく流され、プレハブのコンビニが一軒、ぽつんと建っていました。喜劇の舞台が悲劇の舞台と化した町に菊池さんは生まれ育ったのです。

菊池さんが著わした『私は「ひとり新聞社」――岩手県大槌町で生き、考え、伝える』の表紙

 菊池さんは大学生のときに潰瘍性大腸炎を患い、一時は危篤状態に。大学を中退し、医療事務の資格を取得。その資格を生かそうと釜石市のハローワークを訪ねたとき、大地震が発生しました。大槌に戻る途中、高台に逃げ、津波からのがれました。吉里吉里港で22メートルの津浪を観測、同町の死者・行方不明者は1288人(7・7%)、建物被害は約7割の4375棟にのぼったことを後に知ります。

 地域紙「岩手東海新聞」は、釜石の本社が被災したため廃刊され、町民は情報不足に陥りました。人々は疑心暗鬼にかられ「外国人が人を刺した」という関東大震災時のようなデマまで飛び交うありさま。菊池さんには、大手紙は東京の視点で、岩手県紙は盛岡の視点で記事が書かれているとしか思えません。「大槌の情報だけを読みたい」との欲求が日に日に高まり、「大槌の新聞をつくりたい」との思いが募るようになりました。

 パソコンやカメラなどを買い求めて準備を進めているとき、眼底出血をおこし、右目はほとんど見えなくなりました。それでもへこたれず、創刊号づくりのためにパソコンに収めていた「パーソナル編集長」という新聞作成ソフトを開きました。

 私個人のことですが、書道団体の事務方を務めはじめた21年前、書家たちに書道ニュースを送ろうと考え、「パーソナル編集長」を利用するようになりました。見出しをつけたり、囲み記事をつくったり、写真を挿入するのには実に便利な編集用ソフトです。8年近くにわたって毎月数回A4判のニュースを作りました。ということもあって、菊池さんの取り組みに親近感をおぼえました。 

創刊号

 菊池さんがはじめた当初の大槌新聞はA3判2ページ。「これだけは知ってほしい」という情報に絞り、です・ます調の記事にしました。被災者の心を和らげようと「なつかしい大槌」などのコーナーも設け、2012年6月30日、創刊号が完成。1面には「盛土→町方で大槌小校庭の高さまで」「仮設住宅→1年延長で3年間入居」という見出しが躍り、「地域復興まちづくり懇談会」の開催日時などのお知らせ記事や、県立大槌病院にCTが入ったという短信も掲載しました。2面(裏面)は手書き。同ソフトでの2ページ目の作り方が分からなかったからです。復興支援団体「おらが大槌夢広場」の資料館のコピー機で数十部を印刷、資料館に置くとともに希望者に配りました。

 同年9月からは、大槌町を訪れた人たちからの支援金を基に、業者に印刷を委託し3000部を発行。仮設住宅2000戸に配布しました。2013年4月からはタブロイド判4ページにし広告枠を増設。配布も業者に委託し、町内5100戸の全戸に配布できるようになりました。

 菊池さんは大槌新聞の記者として町長の記者会見にも参加、「行政や議会の役割」「住民主体のまちづくり」などについて質問し、自ら取材もしました。こうした菊池さんの取り組みがマスコミ界からも注目されるようになり、2014年、第3回東日本大震災復興支援坂田記念ジャーナリズム賞を受賞しました。優れたジャーナリズムを顕彰するこの賞の選考事務に、私は2012、13年にかかわりました。1年のちであれば授賞式で菊池さんにお目にかかれたでしょう。残念です。

 大槌新聞は2021年3月に定期発行を終えました。死に至る危険性のある不整脈を患っていて、「今度こそ死ぬのでは」との不安をかかえながら頑張ってきた菊池さんですが、自分だけが頼りの「ひとり新聞」には限界があったようです。しかし、病身の自らを振るい立たせてきた菊池さんには心から敬服します。先に述べたように私は「パーソナル編集長」で書道ニュースを220号まで発行しましたが、しょせんは身内向けのミニミニ新聞。菊池さんには足もとにも及びません。

 東日本大震災にかかわる新聞といえば、大槌新聞がタブロイド判になった2013年、東京新聞の記者が作曲家の坂本龍一さんと脱原発をテーマに討論会を開きました。本号では「原発を考える」シリーズのなかで、坂本さんの原発に対する思いを通して、使用済み核燃料の再処理問題などを考えました。