連載コラム・日本の島できごと事典 その107《ヘゴ自生北限地帯》渡辺幸重

図版:国の天然記念物「ヘゴ自生北限地帯」の指定地

奄美や沖縄の森の写真で必ず出てくる木にヘゴがあります。熱帯・亜熱帯を思わせる風景ですが、私はこのヘゴが好きです。よく小川の周辺など湿気の多いところで長い葉を茂らせており、その幹を輪切りにして植木鉢として使っていました。
国がヘゴの北限地を天然記念物に指定していると知り、調べてみました。鹿児島県の甑島列島の下甑島に指定地を見つけましたが、さらにその北側の上甑島にも指定地があることがわかりました。北限はもっとも北側に1か所あるものとばかり思っていたので不思議に思い、さらに調べると甑島列島には3か所あり、もっと北の五島列島・福江島にも指定地がありました。結局、国は天然記念「ヘゴ自生北限地帯」として、甑島列島の3か所、福江島(長崎県)の2か所、大隅半島(鹿児島県)の2か所、八丈島(東京都)の3か所、薩摩半島(鹿児島県)と日南市(宮崎県)の各1か所を指定していました。それぞれの指定地の説明には「ヘゴ自生北限地帯のひとつ」となっています。国は複数の自生地を指定していたのです。このなかでは八丈島の自生地が最も北に位置することもわかりました。

日南市を除く国の天然物指定は1926(大正15)年10月のことで、1968(昭和43)年6月に日南市の自生地が追加指定されています。国の指定地は北緯31度から33度周辺までに分布していますが、想像するに、甑島・薩摩半島南西部から北に伸びるライン、大隅半島から宮崎県に伸びるライン、青ヶ島・八丈島など伊豆諸島のラインのそれぞれの北限を意識して代表的な自生地をまとめて指定したのではないでしょうか。指定地周辺には島山島(長崎県)、天草下島(熊本県)、長島(鹿児島県)などにも「ヘゴ自生地」があり、それぞれの県の天然記念物に指定されています。新たに発見された自生地が北限自生地が追加指定されることもあるかもしれません。地球温暖化の影響で北限が北上するかもしれず、そうなるとこの3つのラインの動向を比較するのも面白そうです。

ヘゴは恐竜が繁栄した1億5千年以上前のジュラ紀から生きている植物と言われ、4m以上の高さにもなるヘゴ科の木生シダの仲間で、葉の長さは2mを超え、空を覆います。世界には約800種のヘゴがあるそうですが、日本にあるのはヘゴ 、クサマルハチ、ヒカゲヘゴ、マルハチ、チャボヘゴ、メヘゴ、クロヘゴ(オニヘゴ)、エダウチヘゴの8種のようです。よく知られる奄美・沖縄のヘゴはヒカゲヘゴです。

連載コラム・日本の島できごと事典 その106《会津藩士の墓》渡辺幸重

利尻島にある会津藩士の墓(「利尻島観光ポータルサイト」より)

北海道の宗谷歴史公園に会津藩士の墓と岡崎古艸(こそう)作「たんぽぽや会津藩士の墓はここ」の句碑があり、毎年慰霊祭が行われています。利尻島にも3ヶ所8基の会津藩士の墓があり、焼尻島にも会津藩士の墓があります。これらの墓はどうして残っているのでしょうか。
それは本連載の「(その82)文化露寇」に続く話になります。

1806(文化3)年と翌年、ロシア帝国軍は樺太(現サハリン)や択捉島(えとろふとう)、利尻島などを襲いました(文化露寇)。危機感を募らせた江戸幕府は1807(文化4)年に津軽・南部・秋田・庄内藩に北方警備を命じました。その後、会津藩は東北諸藩に会津藩の戦力を誇示するため幕府に樺太出兵を内願したため、津軽・南部・仙台藩とともに会津藩にも出兵が命じられることとなりました。会津藩は約1,600人の藩兵が出兵して樺太・宗谷・利尻・松前を警護しました。利尻島では梶原平馬景保を隊長とした252人(320人余とも)が守りに当たっています。
ロシア帝国軍はナポレオン戦争が原因で引き上げたため会津藩士は交戦することもなく、1808(同5)年から翌年にかけて撤退しました。ところが1808年、樺太から帰る藩士を乗せた船が暴風雨に遭い、一部は天売島や焼尻島に避難しましたが、7隻のうち観勢丸が利尻島のリヤコタン(現在の沓形~種富町の海岸域)に漂着し、大破沈没するという事故が起こりました。焼尻島などにも多くの遭難者が流れ着きました。このとき51人の死者が出たということです。
宗谷・焼尻島・利尻島にある墓はそのときの犠牲者のものですが、宗谷と利尻島の墓はその地で警護しながら病気で亡くなった人のものもあり、利尻島では8人のうち4人が「樺太詰」、4人が「利尻詰」のようです。宗谷歴史公園の墓は近くの海岸に点在していた墓13基を「旧藩士の墓」としてまとめたもので、3人が会津藩士、2人が秋田藩士とわかっています。残り8人は幕府関係者とみられます。
会津藩の出兵は「会津藩の北方警備」「会津藩の樺太出兵」と呼ばれますが、全体の出兵数約3,000人のうち会津藩士が約1,600人と大半を占めるので会津藩がいかに力を入れていたかがわかります。藩主・会津松平家の初代(保科正之)が徳川幕府二代将軍・徳川秀忠の子というプライドがそうさせたのでしょうか。会津藩に対する幕府の信頼は厚く、1810(文化7)年には江戸湾の警備を命じられました。横須賀市に会津藩士墓地があるのはそのためです。

北方警備(樺太出兵)は、その後の間宮林蔵らの北方探検にも大きな影響を与えたできごとでした。

Lapiz2023夏号

Lapiz2023夏号はこれで掲載を終わります。ご購読ありがとうございました。
次号は2023年9月1日から秋号を掲載予定です。
なおカテゴリー2023夏号Vol.46で全記事を読むことができます。

連載コラム・日本の島できごと事典 その105《風の子学園事件》渡辺幸重

コンテナ解体を前に手を合わせる作業員(毎日新聞より)

広島県三原港の南東約4kmに浮かぶ小佐木島(こさぎしま)は周囲4kmほどの小さな島です。昭和30年代には人口140人を数えたものの最近はわずか5人(2020年国勢調査)と過疎化が進んでいます。1991(平成3)年7月末、この島にあった民間の情緒障害児更生施設「風の子学園」で14歳の少年と16歳の少女がコンテナに監禁されて“熱射病(現在は熱中症)”で死亡するという事件が起きました。事件から32年経った今年(2023年)6月、地権者と連絡が付かなかったためにとり残されていたコンテナが住民の要望によりやっと撤去されました。この報道に接した人は、いまでもときどき報じられる子供に対する虐待や放置の問題を考えさせられたのではないでしょうか。

風の子学園は、島外の人が学園長となって1989(昭和64)年に小佐木島に開設されました。不登校や問題行動をする児童・生徒の更生を目的とする宿泊型施設で、親元を離れ、自然に囲まれた環境のなかで座禅をしたり、馬などの動物を飼育する体験活動を行っていたということです。事件は、喫煙した少年少女が懲罰として手錠をかけられ、鉄製の貨物コンテナ内に監禁されて起きました。コンテナは窓もなく、内部は炎天下に40度以上の高温に達していたのです。少年少女はその中に44時間監禁され、脱水状態に陥って亡くなりました。事件後、学園は閉鎖されましたが、学園長の男性(当時67歳)は監禁致死罪で起訴され、懲役5年の有罪判決が下されました。
学園長は以前にも東能美島(旧・広島県佐伯郡大柿町)でカッター訓練などによって青少年を更生させる施設を経営したことがあり、そこでも暴力行為が行われていたと言われます。
被害者の少年は姫路市の中学3年生で、非行グループに属していたことから学校の生徒指導教諭や市教育委員会の指導主事が両親を説得して入園させたそうです。学園は少年に対して指導・教育を行うことはなく、脱走を図ったり、喫煙したりするので懲罰と脱走防止のために繰り返しコンテナや飼料小屋に監禁していました。少年の遺族は学園長と姫路市を相手に損害賠償を求める民事訴訟を起こしました。その結果、施設の実態を調べずに紹介した姫路市教育委員会にも法的責任があるとして姫路市にも損害賠償を命じる判決が確定しました。

風の子学園事件の前後には、戸塚ヨットスクール事件(1982年、愛知県)、不動塾事件(1987年、埼玉県)、恩寵園事件(1995年、千葉県)、丹波ナチュラルスクール暴力・虐待事件(2008年、京都府)、北九州児童養護施設虐待事件(2018年前後、福岡県)などの児童・青少年に対する虐待・暴行事件が起きています。

連載童話《のん太とコイナ[天の川]#1~#10》文・画 いのしゅうじ

1)ここはアカダ川のていぼう。男の子が寝そべっています。
男の子はのん太、小学四年生。ほんとうの名前は則夫。
のん太は学校でいやなことがあると、通学路のアカダ川の橋からていぼうに下り、あおむけになってぼおっと空をながめます。そうしてると、学校でのことを忘れられるのです。
のん太を見て、だれかが「のんびりのん太」とからかいました。それからは、友だちだけでなく、お父さんまで「のん太」とあだ名で呼ぶようになりました。
その父さんのお気に入りはアカダ高校のタイコえんそう。「高校生ばなれのうで」といいます。
こどもの日、アカダ川では毎年「こいのぼりフェスタ」が開かれます。
フェスタの一番の呼びものはアカダ高校のタイコえんそう。
なので、お父さん、お母さん、妹の一家四人で、河原でお弁当を広げるのが、のん太の家のこども日のならわしです。
今年も、家族でフェスタに行きました。千びきのこいのぼりが、気もちよさそうに泳いでいます。 “連載童話《のん太とコイナ[天の川]#1~#10》文・画 いのしゅうじ” の続きを読む

連載童話《のん太とコイナ[天の川]#10》文・画 いのしゅうじ

嵐は、夜明け前にはすっかりおさまりました。
かわって空一面に星がきらめいています。
「見てごらん、天の川だよ」
のん太がおばあさんの指さす方に目を向けると、白っぽい帯がくねりながら、天空をつらぬいています。
たなばたの日、織姫と彦星が天の川をはさんで会う、とのん太は聞いたことがあります。
「ぼく、ほんものを見るのはじめて」
「人間はバカだよ。電気であかあかと夜を照らして、天の川を見えなくしたんだから」
日がのぼると天の川は見えなくなります。
おばあさんは、
「のん太くんをつれて帰るのは今のうちだよ」
とコイナをうながしました。
コイナはのん太をおなかに乗せて、天の川をわたるようにすすんでいきます。
「わかった。コイナちゃんは川は川でも天の川を泳ぐんだ」
コイナはこっくりとうなずきました。(おしまい)

連載童話《のん太とコイナ[天の川]♯9》文・画 いのしゅうじ

 のん太が焼きイワナをかじっていると、おばあさんが、
「吹き流しがさわぎだした」

とつぶやきました。
小屋の裏に吹き流しがかけられています。のん太が外に出てみると、そのしっぽがゆらゆらしています。
「あんなのにのって見たいなあ」
とぽつんと言ったので、コイナがのせてくれました。
しばらくすると、吹き流しがはげしくゆれだしました。
コイナは小屋の屋根にあがって、板屋根がふきとばされないよう、カナヅチでたたいています。
おばあさんは尾ヒレを足のようにして歩いています。外にあったジャガイモを小屋の中にしまいこむため、まっすぐ立って、口の上にひともりのジャガイモをのせていました。
こいのぼりが歩くなんてビックリです。でものん太はふるえ上がって何も見ていません。
激しく雨がふってきたからです。嵐がやってくるきざしでした。

連載童話《のん太とコイナ[天の川]#8》文・画 いのしゅうじ

雪をかぶった山々をこえると、コイナは、
「あそこよ」
と言って、ぐんぐん高度を下げました。
丸太で組んだ小屋の前で、だれかが手をふっています。
「おばあちゃんよ」
コイナが着陸。おばあさんは「よく来たね」と、のん太を小屋の中に招き入れてくれました。
電気はないらしく、窓からの光だけが明かりのようです。
部屋のまん中にいろりがあり、炭火が小さな炎をあげています。そのまわりにイワナがくし刺しされています。
「食べごろだよ」
おばあさんがおなかのヒレで焼き上がったイワナをきようにつかみ、のん太に「さあ、お食べ」とさしだしました。
おどろいたようにおなかのヒレを見つめるのん太。おばさんはわらいました。
「人間の手のように動かせるの。わたしたちは何千年もかけてくんれんしてきたんだよ」

連載童話《のん太とコイナ[天の川]#7》文・画 いのしゅうじ

 ジェットコースターから転落しかかったのん太。コイナがおなかのヒレを使って助けたのはいうまでもありません。

コイナはおばあさんが待つ里の山にむかいます。

途中、高い山がそびえています。雪がたっぷり残っていて、若者たちが春スキーを楽しんでいます。

コイナはスキー場でのん太をおろしました。

のん太はスキーははじめてです。

「初心者コースに行かなきゃ」

とコイナが言ったのに、のん太が、

「せっかく雪山に来たんだ。山らしいところに行きたい」

というので、ベテランむけのコースにつれていきました。

のん太が雪の斜面に降りたったちょうどその時、頂上の近くでグワーッと大きな地響きがおこりました。

雪のかたまりが渦を巻き、雪けむりをあげて、猛スピードで真上からおそってきます。

コイナは万一にそなえていました。あわやというところで、のん太はなだれからのがれることができました。

連載童話《のん太とコイナ[天の川]#6》文・画 いのしゅうじ

「一つ聞いていい?」
「答えられることなら。なんなの?」
「ヨットは風を受けてすすむんだよね。でもコイナちゃんは風がなくてもすすんでる。どうして」
「やだ、わたし泳いでるのよ、空を」
「ぼくには飛んでるとしか思えない、プロペラもないのに」
「うーん、どう説明したらいのかしら」
コイナが頭をかかえながらすすんでいくと、遊園地が見えてきました。ジェットコースターのゴーッという大きな音がひびいてきます。
「そうだ、あれよ」
ジェットコースターは高い位置まで引き上げられて、急坂を下るいきおいにのって走り、回転していきます。
「その原理と同じよ、たぶん」
「ぼくジェットコースターに乗ったことない」
コイナはのん太を、あいてる席にすわらせました。安全ベルトをしていません。コースターが宙がえりしました。
真っさかさまに落ちるのん太……。