連載コラム・日本の島できごと事典 その106《会津藩士の墓》渡辺幸重

利尻島にある会津藩士の墓(「利尻島観光ポータルサイト」より)

北海道の宗谷歴史公園に会津藩士の墓と岡崎古艸(こそう)作「たんぽぽや会津藩士の墓はここ」の句碑があり、毎年慰霊祭が行われています。利尻島にも3ヶ所8基の会津藩士の墓があり、焼尻島にも会津藩士の墓があります。これらの墓はどうして残っているのでしょうか。
それは本連載の「(その82)文化露寇」に続く話になります。

1806(文化3)年と翌年、ロシア帝国軍は樺太(現サハリン)や択捉島(えとろふとう)、利尻島などを襲いました(文化露寇)。危機感を募らせた江戸幕府は1807(文化4)年に津軽・南部・秋田・庄内藩に北方警備を命じました。その後、会津藩は東北諸藩に会津藩の戦力を誇示するため幕府に樺太出兵を内願したため、津軽・南部・仙台藩とともに会津藩にも出兵が命じられることとなりました。会津藩は約1,600人の藩兵が出兵して樺太・宗谷・利尻・松前を警護しました。利尻島では梶原平馬景保を隊長とした252人(320人余とも)が守りに当たっています。
ロシア帝国軍はナポレオン戦争が原因で引き上げたため会津藩士は交戦することもなく、1808(同5)年から翌年にかけて撤退しました。ところが1808年、樺太から帰る藩士を乗せた船が暴風雨に遭い、一部は天売島や焼尻島に避難しましたが、7隻のうち観勢丸が利尻島のリヤコタン(現在の沓形~種富町の海岸域)に漂着し、大破沈没するという事故が起こりました。焼尻島などにも多くの遭難者が流れ着きました。このとき51人の死者が出たということです。
宗谷・焼尻島・利尻島にある墓はそのときの犠牲者のものですが、宗谷と利尻島の墓はその地で警護しながら病気で亡くなった人のものもあり、利尻島では8人のうち4人が「樺太詰」、4人が「利尻詰」のようです。宗谷歴史公園の墓は近くの海岸に点在していた墓13基を「旧藩士の墓」としてまとめたもので、3人が会津藩士、2人が秋田藩士とわかっています。残り8人は幕府関係者とみられます。
会津藩の出兵は「会津藩の北方警備」「会津藩の樺太出兵」と呼ばれますが、全体の出兵数約3,000人のうち会津藩士が約1,600人と大半を占めるので会津藩がいかに力を入れていたかがわかります。藩主・会津松平家の初代(保科正之)が徳川幕府二代将軍・徳川秀忠の子というプライドがそうさせたのでしょうか。会津藩に対する幕府の信頼は厚く、1810(文化7)年には江戸湾の警備を命じられました。横須賀市に会津藩士墓地があるのはそのためです。

北方警備(樺太出兵)は、その後の間宮林蔵らの北方探検にも大きな影響を与えたできごとでした。