連載コラム・日本の島できごと事典 その108《乞食行進》渡辺幸重

写真記録『人間の住んでいる島 沖縄・伊江島土地闘争の記録』(阿波根 昌鴻著、1982年私家版)の表紙

沖縄島・本部半島の西方海上に尖った山がひときわ目立つ島が浮かんでいます。伊江島です。山は標高172mの城山(ぐすくやま)で「伊江島タッチュー」とも呼ばれます。第二次世界大戦末期、1945(昭和20)年4月16日、米軍は伊江島に上陸、激しい戦闘の末5日後に島を占領しました。住民も戦闘に参加させられ、集団自決(強制集団死)も起きています。村民の3分の1にあたる約1,500人と日本兵約2,000人が犠牲となりました。戦後、残った住民は慶良間諸島の収容所に強制移動させられ、1947(同22)年2月に帰島したときには島の63%が米軍の巨大な航空基地になっていました。知らないうちに土地を奪われていたのです。
 さらに米民政府は1953(同28)年4月に土地収用令を公布し、1955(同30)年3月には約300人の武装米兵が上陸して81戸の土地を奪い、13戸の家を破壊し、射爆場を建設しました。家を焼き払い、ブルドーザーで整地し、抵抗するものは投獄するという「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる蛮行でした。伊江島の住民は危険を冒して米軍演習地内に入って耕作を続けたり、不発弾を解体して売ったりもしました。多数の逮捕者が出、米兵に射殺されたり、演習弾の直撃で即死したり、不発弾を回収していた住民が爆死したりという事件もありました。困窮した生活の中で栄養失調者も多く、餓死者も出ています。その中で伊江島の人々は激しく「土地とりあげ反対闘争」を展開したのです。

反対闘争の中の運動のひとつが「乞食行進(ムンクーチャ)」です。1955(同30)年7月から1年余をかけて、土地を奪われた伊江島の住民が那覇から糸満、国頭と沖縄島を縦断し、米軍の横暴と住民の窮乏を訴えました。報道規制のため米軍の横暴を知らなかった沖縄の人々に与えた衝撃は大きく、これが「第一次島ぐるみ闘争」と呼ばれる沖縄全体の運動へつながったと言われます。
「伊江島土地を守る会」「全沖縄土地を守る会」のリーダーとして闘争の先頭に立ったのは“沖縄のガンジー”と呼ばれる伊江島在住の阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)でした。阿波根は非暴力・非妥協の立場を貫き、闘いました。伊江島にある反戦平和資料館「ヌチドゥタカラ(命こそ宝)の家」などには「平和の最大の敵は無関心である」など阿波根の言葉が多く残されています。運動の規範を決めた『陳情規定』には、「反米的にならないこと」「怒ったり悪口をいわないこと」「人間性においては、生産者であるわれわれ農民の方が軍人に優っている自覚を堅持し、破壊者である軍人を教え導く心構えが大切であること」など、「無抵抗の抵抗」を粘り強く続ける姿勢が強くにじみ出ています。

伊江島には1972(同47)年5月の沖縄の日本復帰後も島の面積の35%を占める米軍基地(伊江島補助飛行場)が置かれ、軍用機の発着訓練やパラシュート降下訓練などが行われています。