神宿る。《八幡宮・京都府綾部市002》片山通夫

応神天皇

さてその応神天皇をお祭りしている八幡神社は1335年に元八幡から遷座されたと伝えられている。また一の鳥居は旧若狭街道に面して建てられている大鳥居で親柱を礎石の上にたて前後を控えの柱で支える珍しい形式である。

 

 

最後に。この神社は、失礼な話だが、はっきり言って「とても田舎」にある。しかし由緒正しいのはこの立派な鳥居をくぐって境内に入ると感じられる。神の住みかだと・・・。

神宿る。《八幡宮・京都府綾部市001》片山通夫

八幡神社(京都府綾部)

綾部市にはざっと見たところでも4社の八幡宮がある。八津合町の神社の鳥居が立派だったので車を止めて参拝した。由緒によると主祭神は応神天皇である。ウイキペディアによると、応神天皇は仲哀天皇の第四皇子。母は気長足姫尊(神功皇后)。神功皇后の三韓征伐の帰途に筑紫の宇瀰(神功皇后紀。うみ:福岡県糟屋郡宇美町)、または蚊田(応神天皇紀。かだ:筑後国御井郡賀駄郷あるいは筑前国怡土郡長野村蚊田)で仲哀天皇9年(若井敏明によると西暦367年)に生まれたとされるが、これは仲哀が崩御して十月十日後であるため、仲哀天皇の実子ではないことを示唆しているとする異説もある。応神天皇は胎中天皇とされ、異母兄たちはこれに抵抗して叛乱を起こしたが気長足姫尊によって鎮圧され排除された。摂政となった母により、神功皇后摂政3年に立太子。母が崩御した翌年に即位。即位2年、仲姫命を皇后として大鷦鷯尊(仁徳天皇)らを得た。他にも多くの妃や皇子女がいた。即位6年、近江へ行幸。『古事記』によればこのとき宮主矢河枝比売を娶り菟道稚郎子と八田皇女を得たと言う。在位中には様々な渡来人の来朝があった。韓人には池を作らせたほか蝦夷や海人を平定して山海の部民を定めた。名のある渡来人には弓月君、阿直岐、王仁、阿知使主といった人物がおり、阿知使主は東漢氏の、弓月君は秦氏の祖である。『古事記』によると和邇吉師(王仁)によって論語と千字文、すなわち儒教と漢字が伝わったという。また即位37年、阿知使主と子の都加使主は縫製の女工を求めるため呉(東晋あるいは南朝宋)に派遣されたという。即位40年、大鷦鷯尊と大山守皇子に相談の上で菟道稚郎子を立太子。即位41年に111歳で崩御。『古事記』では130歳、甲午年9月9日に崩御したとされる。

ざっとこのように非常に細かく詳しい。それだけに「嘘くさい」話である。4世紀と言うと我が国はいわゆる「空白の4世紀」に当たる。この時代の中国や朝鮮の歴史書に“倭”に関する記録が乏しい。考古学上の遺物、例えば古墳とその埋葬品、稲田、住居跡、土師器をはじめとする道具などはたくさん出土見つかっている。つまり、人々はこの時代も生活をしていた。ところが今述べたように中国や朝鮮の歴史書には記載が極端にすくない。その時代の主祭神・応神天皇がここに祀られている。(明日に続く)

神宿る。《三島神社(大阪・門真市)の薫蓋樟(くんがいしょう)》:片山通夫

三島神社

 

大阪一の巨樹で、国の天然記念物に指定されている楠。薫蓋樟は「大阪みどりの100選」にも選ばれており、100選を選ぶ時の投票でも一番投票数が多かった。

樹齢 1000年越え  高さ 30メートル程度
幹回り 13m程度

大阪きってのパワースポットとして有名。

 

神宿る。《義経神社の栗の木》片山通夫

北海道では栗の木は石狩、日高地域に自生しているらしい。この写真の栗の木は、奥州衣川で敗れた源義経が、奥州から逃れ日高の地平取の神社に居を構えた時に植えたものと伝えられ、ここ義経神社のご神木として住民に親しまれている。
※平取:平取町(びらとりちょう)は、北海道の日高振興局管内にある町。

神宿る。《京阪電鉄萱島駅の楠》片山通夫

1972(昭和47)年、京阪電鉄は高架複々線工事に着手、萱島神社のあった場所にホームが移動することになった。クスノキは伐採される予定だったが、住民運動が起きて保存されることになった。この際も、「ご神木を切れば災いが起きるかもしれない」などとの噂が立った。

京阪電鉄は、近隣住民の意を汲んでかホームをぶち抜いた形で件の楠を残した。樹齢700年と推察される楠は写真のようにガラスにおおわれてホームを貫いている。「御霊信仰(ごりょうしんこう)」という信仰がある。御霊信仰とは、人々を脅かすような天災や疫病の発生を、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする日本の土着の信仰のことである。
この楠に対しての信仰がそうなのかはわからないが、少なくとも萱島駅周辺の人々は「切ると祟りがある(かも知れない)」と残すよう動いた。

ホームの下には萱島神社がある。一帯は過去には開拓新田だったが、その鎮守として1787年に萱島開拓の祖神を祀ることとなり、宗源の宣旨により豊受大神・菅原道真が勧請・合祀された。明治時代には村社に列格し、「神名社」という社名であったことが1879年)¥(明治12年)の記録にあるが、1907年(明治40年)に一旦廃社となった。京阪電鉄の複々線化で伐採されることになったが、保存の声が高まり、京阪電鉄が神殿を造営・寄進し、1980年7月、「萱島神社」として再興された。

*菅原道真;忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで上り詰めた。しかし謀反を計画したとして(昌泰の変)、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後怨霊と化したと考えられ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神、受験の神として親しまれる。太宰府天満宮の御墓所の上に本殿が造営されている。(ウイキペディアより)