蒸気機関車の町の光りと影

~五輪メダリストの瀬戸内の里~

                        

 私は大阪のあるデパート内で開いている文章教室を受け持っている。生徒の一人、岡田照子さんのエッセーに懐かしい名前が出ていた。「池田敬子」。1964年の東京オリンピックで女子体操選手として銅メダルに輝いた。岡田さんのふるさとは広島県三原市糸崎。今年80歳になる岡田さんが中学生だったころ、町は三菱重工などの工場が立地していて、大いににぎわっていた。その糸崎の真向かいに佐木島という島がうかんでいる。池田選手はここで生まれ育った。糸崎の人たちにとって池田選手の活躍は「輝ける糸崎」の象徴だ。だが東京五輪を境に糸崎は衰退に向かう。糸崎は戦後日本の一つの縮図だった   

憧れの故郷の大先輩

 まず岡田さんのエッセー「逆立ちの人」を紹介しよう。

 81歳で、今も毎日逆立ちを続けている人。その名は池田敬子さん。旧姓、田中敬子さんである。
 私はまだ覚えている。
 ローマの世界体操選手権で金メダルを獲った人、田中敬子さんの名前を。私の家から見える、あの佐木島の人である。
 それは1954年のことで、当時私は中学生だった。三原小学校の校庭に男子の体操選手たちと共に凱旋したのを見に行った記憶がある。彼女の高校の後輩である私の友人は授業を中止してラジオでその活躍を聞かされた覚えがあるそうである。
(略)
 私の家から見える、灯台のある小さな島が佐木島である。私は、遙か沖の島々や、瀬戸内海を行き交う大小の船を家に居ながら眺められた。故郷にいた時分、夜ともなれば灯台の小さな灯りの点滅と、闇の中を僅かな明かりだけで航行する船体から流れる光がまるで呼吸しているような光景を見るのが好きだった。
(略)
 私は故郷の大先輩のあっぱれな人生を今も誇りに思う。

 筆者の岡田さんは三原市糸崎の中学生だったとき父親が病死。高校進学を断念し、隣の尾道市の病院に住み込みで働いたあと、大阪の病院で看護師として定年まで勤めあげた。退職後、趣味でエッセーを書き始めた。「逆立ちの人」は5年前に書いたものだ。池田さんは現在8
5歳である。
(写真左・平均台を演じる池田敬子選手(ウィキペディアより)

五輪団体銅のローマの恋人

「逆立ちの人」には、池田さんはローマの世界選手権で金メダルとある。
 池田さんは三原高校でテニス部に入っていたが、部活の最中に遊びで鉄棒をしたところ、体操部の顧問の目に留まって体操部に移った。現在の一流選手のほとんどが3~5歳ころから体操を始めていることに比べると随分晩稲だ。日本体育大に入ってから花が大いに開き、1953年の全日本体操選手権で初優勝した。翌年、日本の女子体操選手として初めて海外遠征し、ローマで開かれた世界体操選手権に出場。平均台で日本女子体操界初の金メダルに輝いた。

 岡田さんのエッセーに出てくる金メダルはこの時のものだ。岡田さんが書いているように池田さんは当時田中姓だった。岡田さんの文中にはないが、池田さんが平均台でみせた華麗なターンがローマっ子を魅了、前年公開された映画『ローマの休日』をもじって、「ローマの恋人」とまでいわれた。
 56年のメルボルン五輪でオリンピックに初出場し、ゆか4位、個人総合14位。団体は6位だった。メルボルン大会のとき、私は小学6年生だった。男子競泳の山中毅選手が1500メートル自由形に出場したのを雑音だらけのラジオ中継で聴いた。山中選手はオーストラリアのマレー・ローズ選手と壮絶な争いを演じ、ラストスパート及ばす銀メダルに終わったことを鮮明に覚えている。ことほどさように、私が関心をもった最初のオリンピックがメルボルン大会だ。だから田中という名前にも聞き覚えがあった。

 彼女は58年に結婚し、池田姓になる。60年のローマオリンピックでは段違い平行棒で、女子選手としては初めてフルターンを決めたが5位に終わった。団体は4位。61年に長男を出産。東京五輪の前年である63年に次男が生まれた。その出産を前に「五輪を控えて子どもを産むなんて」と冷たい目で見られたが、彼女は「産みます、そして勝ちます」と言いきったという。
 東京オリンピックは64年10月10日に開幕。9日前の10月10日に東海道新幹線が開業したばかりで、まさに高度経済成長真っ盛りの中での五輪だった。体操競技は18日から23日までの日程で、東京体育館で行われた。

 女子体操ではチェコスロバキアのチャフラフスカとソ連のラチニナの華麗な争いが演じられ、多くの人たちがカラーテレビにくぎ付けになった。カラーテレビはカー、クーラーとともに「新三種の神器」と呼ばれ、60年代半ばの国民の憧れの的だった。私の家でも、オリンピックに間に合わせてカラーテレビを購入。母は「チャチャやん、憎らしい」と彼女が高得点をあげるたびにため息をついたものだ。
 女子団体はチェコスロバキアとソ連が頭抜けていて、3位を日本とドイツ(東西の連合チーム)が争う展開。日本の最初の種目は平均台。31歳になっていた池田さんが片足前方宙返りを鮮やかに決め、9・70点を獲得。この高得点が最後まで効いてドイツを1・851点上回り3位に。表彰式で銅メダルが授けられた。オリンピックの体操女子団体で初のメダルであり、この後もメダルはない。それほどの歴史的快挙だった。
 池田さんは66年のドルトムント世界選手権で個人総合3位。平行棒ではラチニナを上回って銀メダルになったが、これが最後の国際大会になった。

蒸気機関車の町・糸崎

 糸崎には青春18きっぷで向かった。大阪から5時間がかりで糸崎駅に着いた。終点の三原駅の一つ手間の駅というのに運転士が替わった。ホームの脇は機関区になっている。運転士の控室もあるのだろう。かつて特急が止まった名残なのかもしれない。

 改札を出るとき驚いた。駅員がいないのだ。自動改札になっているが、青春18きっぷなので駅員に見せなければならない。駅員がいないのだからそのまま出る。外に出てみると、駅舎はまるで昭和の初めを思わせるレトロな木造の建物だ。

 岡田さんから「墓地に上がると佐木島が見える」と聞いていた。糸崎駅から東に10分ほど歩くと、山の斜面に墓地が見えた。上がってみた。港の前に比較的大きな島がある。岡田さんの文章によると、小さな灯台がある島だという。そのような島は見えない。どうも話が違う。(後に岡田さんに確かめると、岡田家の墓地は別の所)
 墓地を出て、島々の展望がきく場所を探した。小さな畑があった。ここからなら大小さまざまな島が見える。冬とはいえ瀬戸内の陽光はまぶしい。逆光で島々がシルエットとなりぼーとかすんでいる。灯台までは確認できない。船が島と島の間をゆるゆると進んでいる。その右手に灯台とおぼしき影がうかがえた。たまたま通りかかった夫婦に「佐木島でしょうか」と尋ねたが、「私たちはここの者ではないので」と落胆する答えが返ってきた。
 もう一度墓地に戻る。三菱重工の工場やタンク、煙突が見える。墓地から工場に向かった。

 高さが50メートルはありそうなパイプ状の装置には「ホワイトセメント」とある。ここではいったい何をつくっているのだろう。  (写真・瀬戸内の島々)

 三菱重工三原製作所のHPには「1943年、蒸気機関車と空気ブレーキ専門工場として発足」とある。三菱重工は終戦の2年前、糸崎に蒸気機関車工場を建設したのだ。恐らく軍事物資や兵隊の輸送が急務だったからだろう。戦後も蒸気機関車の時代はつづいた。極限すれば、戦後復興は石炭と蒸気機関車が担った。 
 そういえば、岡田さんの故郷をテーマにしたエッセーの一つ「糸崎の花火」には「昭和20年代の我が町は、三菱重工で製造した機関車を南米チリ―へ輸出していた。昭和28、9年当時の三菱は社員数4000人くらい。社宅は3カ所もあった」とあり、やはりふるさとを書いた「柿」には「同級生には神戸あたりから来た都会っ子もいて楽しかった」というくだりがある。別の資料にはこの工場で「貴婦人」の愛称のあるC-57型蒸気機関車も造られた。池田さんがローマの世界選手権で優勝したころ、糸崎は最も輝いていた時期だったのだ。

 池田さんの初めてのオリンピックであるメルボルン大会が開かれた1956年の11月19日、東海道が米原―京都間を最後に全線が電化した。東京オリオンピックが開かれた年、鉄道電化協会はこの11月19日を「鉄道電化の日」に指定。すでに触れたようにオリンピック直前、東海道新幹線が開通している。池田さんは蒸気機関車から電気機関車、新幹線へと文字通り超特急に交通体系が移り変わるなか、日本を代表する体操選手になったのだった。 

 鉄道が電化される時代になれば、当然のことながら蒸気機関車は製造されなくなる。東京オリンピックの年が「鉄道電化の日」設定の年であるということは、この年は「蒸気機関車さようなら」の年であることを意味する。蒸気機関車の町・糸崎が衰退へと下っていく年なのだった。その年、郷里の星、池田敬子さんが大舞台で輝いたのだ。今振り返れば、糸崎の輝かしい最後の大輪だった。
 私は糸崎駅から3キロ西の三原駅まで歩き、三原発の電車で帰路についた。この三原駅に山陽新幹線が止まるようになって、糸崎の衰退に拍車がかかったのだ。糸崎駅を過ぎると車窓に瀬戸内海の島々が広がる。その光景は瀬戸内海のなかでも群を抜いている。確かに寂れた。だが、その結果、景観が守られたことも事実だ。

 1964年のオリンピックのころのような経済的な繁栄はこの糸崎には二度とないだろう。だが発想を変えれば、心を癒してくれる海の里として生き続けていくことができる。地方が東京の陰であること以上に問題なのは、東京の真似をして自然を破壊することではないか。自然破壊は人の心の荒廃につながるのだ。2020年の東京オリンピックが地方の豊かな自然を見直すきっかけになればいいのだが――。そんなふうに思いながら帰途についた。

                                (了)