編集長が行く 広島県竹原市・大久野島

毒ガスの島の廃虚尋ねる
~地図から消えた「もう一つの広島」~

文・写真 Lapiz編集長 井上脩身

小さな書店の片隅の壁に「大久野島の歴史展」の宣伝チラシが張られていた。「もうひとつの広島」の副題がついている。主催は「毒ガス島歴史研究所」。今年1月4日から7日まで旧日本銀行広島支店で開催とある。50年前、私が新聞社に入社して配属された支局に赴任したとき、いきなり支局長が語った言葉を思い出した。前任地の呉支局で「大久野島での毒ガス製造をスクープした」というのだ。私はたまたま今年初めに尾道に旅をする計画を立てていた。予定を変更して大久野島の「もうひとつの広島」を訪ねた。

何十万人もの殺人の蔵

大久野島は、広島市と福山市のほぼまん中、竹原市忠海町の3キロ沖合に浮かぶ、周囲わずか4キロの小さな島だ。私はJR忠海駅で降り、徒歩で約5分の同港から小型のフェリーに乗船した。大久野島に近づくと、海際のコンクリート3階建ての建物跡が見える。毒ガス製造施設の一部であろう。忠海港から約15分で大久野島の桟橋に着いた。私は大阪から青春18きっぷを使って在来線に乗ったので、すでに午後2時をすぎている。冬の日暮れは早い。急がねばならない。
フェリーを降りるとウサギの群れが迎えてくれた。器用に立ちあがってエサをねだる。耳をピンとたててすりよってくるけなげな様はたしかにかわいい。ウサギ好きにはたまらないだろう。だが私は犬以外の生き物はあまり好きでない。ウサギも「エサをくれない人」と察知して走り去った。
10分ほど歩くと幹部用防空壕の跡があった。崖の下にしつらえられていて、コンクリートで固められている。入り口は幅1メートル、高さ約2メートル。説明板には「入り口が二つあり、左右どちらからでも逃げ込めるようになっていた」とある。現在残っているのは一つだけだ。「従業員用は1メートルほど掘った穴に草木でかぶせた簡単なもの。たこつぼと呼ばれていた」という。私は松尾芭蕉の句を思い出した。
蛸壺やはかなき夢の夏の月
この島で働く人たちは、はかない思いをさせられたのでないか。ふとそんな気がした。
防空壕の少し先に、左右に翼を広げたような白亜の平べったい建物が見える。毒ガス製造研究室だ。すぐ横の四角いコンクリート製の建物は検査工室。ここで毒ガス製品の管理、機密書類の保管や毒ガスの検査が行われていた。
さらに進む。海沿いの崖に、洞窟のような二つの穴がある。いずれも幅、高さともに約3メートル。底部には、一見鉄道の枕木のような台座が二つ、平行に並んでいる。ここは毒ガス貯蔵庫跡だ。台座の上に10トンの毒ガスを貯蔵できる缶が置かれていた。
貯蔵庫跡の前は広場になっている。フランス式イペリット工場があった所だという。イペリットは、硫黄を含むマスタードガス。第一次世界大戦のイープル戦線で初めて使われたことからイペリットと呼ばれた。この工場から貯蔵庫の缶にパイプが通っていて、直接毒ガスが缶に注ぎ込まれていた。イペリット液1トンで1000個の毒ガス兵器が作られたという。10トンは1万個分に当たる。兵器1個で何十人もの人を殺傷できる。ということはこの貯蔵庫一つで何十万もの人を死に至らしめることができる恐るべき「殺人の蔵」であった。
大久野島桟橋のチケット売り場でもらった島めぐりマップによると、島の反対側に別の毒ガス貯蔵庫跡がある。残念ながら時間の関係で割愛して、毒ガス資料館に立ち寄ることにした。
資料館の脇に「陶磁器製毒ガス製造器具展示場」がある。2メートル四方の小さな展示場だが、タンク、窯、パイプなどが並べられていて、興味深い。説明板には「毒ガスは化学薬品を反応させて製造する。薬品に反応せず、熱にも強い陶磁器が使われた」と書かれている。

秘匿された毒ガス製造

毒ガス資料館はレンガ造りに似せて造られた平屋建ての建物。展示室と研修室の2部屋からなっている。入り口でもらった三つ折りのパンフレットの裏表紙に「この歴史を忘れないために」として、次のように認められている。以下はその概略である。
日本が毒ガスを使用したことは秘匿され、旧軍関係者以外の日本人はほとんど知らされなかった。1984年に日本の化学戦実施に関する資料が報道され、日本の毒ガス兵器の研究開発は旧陸軍科学研究所(東京)、大量製造したのは大久野島、充填は曽根(北九州)、化学戦の運用と訓練は旧陸軍習志野学校と、日本の化学兵器の構造が明らかになった。大久野島で、往時を偲ばせるものはわずかに発電場、毒ガス貯蔵庫など数少ないが、この島での毒ガス製造過程で多くの犠牲者を出したことはまことに痛ましい。
以上の記述とともに、パンフレットには防毒マスクを装着したマネキン写真を中央に、左側に毒ガスの基本的な事項を、右側には毒ガス製造装置など数点の写真が掲載されている。そのポイントは次の通り。
【大久野島毒ガス工場の歩み】
日本陸軍の毒ガス工場として1929年、東京第二陸軍造幣廠忠海製造所が大久野島に設置され、終戦後の1945年、米軍によって破壊された。この工場では各種の毒ガスや信号筒、風船爆弾が製造されたが、イペリットの生産に重点が置かれた。
【毒ガスの種類】
ドイツ式イペリット、フランス式イペリット、ドイツ式不凍イペリット、ルイサイト(いずれもびらん性毒剤。皮膚に付着すると、2~3時間後に強度の疼痛を覚え、水疱が発生。強い浸透力があり、呼吸器を通って体全体に大きな傷害を引き起こす)
ヂ・フェニールシアンアルシン(刺激性のくしゃみ剤。吸入すると血液中の酸素吸入機能が麻痺する)
青酸(中毒性剤)
塩化アセト・フェノン(肺組織をおかし、肺水腫状態となって死に至る。撒布されると緑色のガスになり、くぼ地やほら穴に音もなく流れ込む)
【製造工員の防具】
以上の毒ガスは1935年までには製造できるようになっていた。製造工員の体は 防毒マスク、衣服、手袋、長靴などで完全に覆われていたが、イペリットガスはその隙間から浸透、皮膚、目、のどなどを冒し、結膜炎、肋膜炎、肺炎、気管支炎などを引き起こした。有効な治療薬がなく、呼吸器疾患については栄養のあるものを与える以外に治療法はなかった。
イペリット製造部門で被害者が多く出たので、被害工員は催涙ガス製造部門に移されたが、ここでも塩酸ガスによって目を冒されるケースが多かった。
パンフレットによって毒ガスについて学んだ後、展示室に入る。「毒ガス工場開設から毒ガス製造期」「一般人の動員から終戦まで」「大久野島の毒ガス被害」「毒ガスと戦争」「毒ガスの戦後処理から現代の毒ガス問題」の五つのテーマに分けて、遺品や写真パネルが展示されている。なかでも目をそむけたくなるほどむごたらしいのは、毒ガスに冒されて皮膚がただれた工員の背中の写真。慢性気管支炎になった工員の治療風景の写真にも息をのんだ。

中国人8万人を殺傷

野外の工場遺跡や資料館のパンフレット、展示資料などによって、大久野島での毒ガス製造について、断片的に知ることができた。だが全体像がもう一つつかめない。いらいらしていると、資料館の係りの男性が一つの冊子を持ってきてくれた。『おおくのしま平和学習ガイドブック』(以下ガイドブック)とある。「大久野島から平和と環境を考える会」が2012年に編んだもので、サブタイトルは「その被害と加害から学ぶ――大久野島の毒ガスの歴史を学習するために」。子どもたちに平和学習を施すための教材だ。
ガイドブックは「大久野島の戦争の歴史と戦争遺跡」「大久野島の毒ガスと戦争加害」「毒ガス製造に関わった日本人の被害と戦後処理」「大久野島平和学習の教材化のために」「毒ガス被害と日中友好交流」の五つ章で構成されている。
ガイドブックにそって、大久野島の毒ガスの歴史と問題点を整理しておきたい。
1919年、東京に設置された陸軍科学研究所で毒ガスの研究、開発が進められたが、23年に関東大震災が発生、毒ガス製造工場を地方につくることになった。大久野島が選ばれたのは①島であるため毒ガス製造の秘密を守りやすい②事故が起きても周りへの影響は少ない③本土に近いので作業する人が通勤できる――などによるとみられる。
すでに触れたように1929年から毒ガスの製造が始まり、24時間体制で生産された。生産量は1936年までは年間30トンだったが、37年には300トンに増え、ピーク時の41年には1600トンにのぼった。44年7月に中止されるまでに製造された毒ガスはイペリット3000トン、ジフェニールシンアルシン(くしゃみ性ガス)1800トンなど、総計6616トンにおよんだ。何億人も殺戮できる量だという。
戦争中、同島の毒ガスに関係した日本人は6700人。1943年に学徒動員されてから、中学生や女学校の生徒も動員され、毒ガス缶運びをさせられた。ほとんどの人は工場に入所してから毒ガス製造工場と知ったが、秘密の厳守が命じられ、自由に工場をやめることもできなかった。
秘密を守るため1938年の地図からは大久野島が消された。このため、後に「地図にない島」と呼ばれることになった。
日本軍が初めて毒ガスを使用したのは1930年の霧社事件。日本が植民地支配していた台湾の山岳民族が蜂起、渓谷に逃げこんで抵抗したため、陸軍省は催涙ガスの使用を認可。派遣軍は独自の判断で青酸ガスの投下弾を使用したとみられている。
1932年の上海事変でも催涙ガスを使用。1937年、日中の全面戦争が始まると、日本軍は本格的に毒ガスを使った。1938年5月の徐州会戦でくしゃみ性ガスを使用。39年にはイペリット、ルイサイトなどのびらん性ガスも使用するようになり、1940年8月以降、味方が不利になると本格的に使うようになった。
1942年に中国河北省北坦村を攻撃した際には、村民が隠れていた地下道に毒ガスを投げ入れて1000人以上を殺害するなど、戦後の調査で2000回以上毒ガスを使用し、8万人以上の中国人を殺傷した。
毒ガスは1899年のハーグ条約で使用禁止され、1919年のベルサイユ平和条約締結時に使用禁止が再確認された。1925年のジュネーブ議定書でも毒ガス兵器と細菌兵器の使用は禁止された。こうした国際条約違反の毒ガス使用だったため、敗戦とともに証拠の隠蔽工作が行われた。従業員が所持していた書類を焼却させ、機器類は解体、海に投棄された。
GHQは1945年9月ごろ、大久野島で毒ガスの調査を開始。1946年6月ごろからその処理をはじめ、帝人三原工場が作業を請け負った。同社の記録によると、海没したものは毒液1845トン、毒液缶7447缶、くしゃみ剤9901缶、催涙剤131缶、60キロガス弾1万3272個、10キロガス弾3036個。焼却は毒物56トン、催涙棒2820箱、催涙筒1980箱。埋没は、くしゃみ剤(大赤筒)6万5933個、同(中赤筒)12万3990個、同(小赤筒)4万4650個、発射筒42万1980個。
残存した毒ガスがこれだけの膨大な量にのぼっていたことからみて、実際に使用した毒ガスは無限大に近い。だが、この戦争犯罪が極東軍事裁判(東京裁判)にかけられることはなかった。自らも毒ガスを使用していたアメリカの政策によるもので、日本軍の毒ガス加害事実は明るみに出なかった。日本政府も戦後、毒ガス使用を公にせず、責任回避の態度を取り続けた。

被害者の叫び聴き取る

前項でみた通り、日本軍が主に中国で毒ガスを使った結果、大久野島は加害の島になった。当然被害者がいる。ガイドブックにはその悲痛な叫びも収録されている。大久野島から平和と環境を考える会の人たちが現地を訪ね、直接聴き取ったものだ。
北坦村で被害に遭った李慶祥さんの証言。
1942年5月27日に忘れられない出来事が起こった。日本軍の銃声が聞こえたので、私は母と二人の妹と一緒に地下道に逃げた。日本軍はその入り口を次々に見つけ、毒ガスを投入しはじめた。毒ガスは焼いたトウガラシのような臭いがして、涙がでてきた。毒ガスが次々に流れ込んで濃度が高くなり、一人の妹は「我慢できない」と言って倒れ、そのまま息を引き取った。私は出口を探した。出口が一つ見つかり、外をうかがったことから日本兵がその出口を発見し、出口のところの芝を燃やしだした。私と母は別の出口を探し、まだ赤ん坊だった妹を抱えて、親類の家に逃げることができた。
私の家族は8人。姉、二人の弟、それに妹の4人が毒ガスで亡くなった。次の日も惨禍は続き、東隣の李三宝さん一家は全滅、西隣 は家族6人のうち5人が殺された。南隣は息子が毒ガスの犠牲に遭い、北隣は5人中3人が死んだ。
村全体では、大勢の人が地下道で亡くなり、地下道から逃げた人たちも、毒ガス中毒でのどが渇き、井戸に集まったところで殺された。殺されなかった人ものどの渇きに苦しんだ。
李洛敏さんの家に比較的中毒の軽い人が100人以上集まったが、その夜、11人が死亡。生き残った人も機関銃で射殺された。度胸試しで銃殺された人もいた。結局助かったのは一人だけ。地面に伏していると、体の上に銃殺された死体が折り重なり、命拾いをしたのだ。
1946年春、「血の井戸」と呼ばれた井戸から遺骨を掘り出し、霊園をつくった。この村で確認された遺体は1000人を超えていた。
国龍江省チチハルで残留毒ガス被害に遭った李国強さんの証言。
1949年、農民の子として生まれ、チチハル医学学院で学んだ医師。化学成分による病気や放射線被害の患者を主に治療していた。
1987年10月16日、チチハル市のガス会社の庭で、ガス貯蔵庫の基礎工事を行うためにシャベルで土を掘っていたところ、鉄製の缶が発見された。同市の公安当局から「放射性物質の可能性があると大変だから調べてくれ」といわれて現場に急行。缶は直径50センチ、高さ90センチ、重さ100キロで、二重蓋になっていた。放射線反応がないので蓋を開けると緑っぽい煙が出た。缶を傾けると、醤油のような液体が出てきたので、ガラス瓶に移し替えた。持って帰るとき、ニンニクのような臭いがした。
18日に実験室で検査をしてもらったが、液体が何であるのかわからなかった。その間、私の目が赤くはれ、手に水疱ができた。この液体を新聞紙に染み込ませて燃やすと、煙が出て、呼吸ができなくなった。その場にいた7、8人も同じように呼吸が困難になった。
19日に人民解放軍防化部隊で調べてもらい、日本軍が遺棄した毒ガスと判明。缶の発見場所から北に3キロのところに関東軍の526部隊があり、毒ガスの訓練をしていたとのことだった。
33日間入院して治療を受けたが、退院後も呼吸困難や咳の症状は残り、免疫力も低下。階段を上るのがきつくなった。医師としての仕事はできず、50歳で仕事を辞めた。年金は定年まで勤めた人の3分の1。毒ガスによる中毒は、工場が出した毒ではないという理由で、労働災害と認められなかった。教師だった妻も、私の面倒をみるため、定年前に退職した。

司法に見放された毒ガス被害者

私はガイドブックのなかの「敗戦後、大久野島の近海で漁師の網に毒ガスのボンベがかかった」という記述が気になった。もう一度、毒ガス貯蔵庫跡のそばの海岸に足を運んだ。瀬戸内の島々が、静かな海の上でのどかに横たわっている。この海に毒ガスが放りこまれたとはとても信じられないほどおだやかな光景だ。
海岸のそば、というより毒ガス貯蔵庫の隣に白色の細長い建物がたっている「休暇村大久野島」とある。1963年、大久野島が国民休暇村になったことにともなう宿泊施設だ。この前で子ウサギがひょこひょこと遊びながら、時折、親ウサギに甘えている。
この島にいるウサギは現在900頭だという。毒ガスの実験のために200頭のウサギが飼われていたといわれ、その生き残りが増殖したのか、と思ったがそうではなかった。国民休暇村としての観光をアピールするために飼いはじめたのだという。ウサギは戦時中、毒ガス製造のためにひと役買い、今は観光のためにひと役買っているのだ。
竹原市のまとめでは2017年の観光客は36万2336人(うち外国人1万8167人)。年々増加傾向にあり、今年は40万人を超えるかもしれない。
こうなってくるとウサギの人気は侮れない。忠海港の売店の看板にも、同港に係留中の観光船にも「うさぎの島」と書かれていて、お土産グッズもウサギをデザインしたものばかりだ。
竹原市の観光ガイドブックにも表紙はウサギがあしらわれている。だが大久野島については「地図から消された大久野島」、「うさぎの島大久野島」とそれぞれ2ページ見開きで掲載。「地図から消された大久野島」では発電所跡、ガス貯蔵庫跡などを写真入りで紹介しており、ウサギ見物にやってきた観光客にも毒ガス製造遺跡を訪ねるよう促している。すでに触れたように、「休暇村大久野島」の隣は毒ガス貯蔵庫跡であり、毒ガス資料館も目と鼻の先だ。ウサギ目あての観光客も、いやでも毒ガス遺跡は目にふれるのだ。平和を保つためには、戦争はありとあらゆる方法で人を殺すものである、ということを一人でも多くの人に知ってもらわねばならない。ウサギ人気にあやかって観光客を引き入れることもよしとすべきだろう。
と考えながら元の桟橋に向かって歩いていると、いくつもの千羽鶴の束が吊るされているのが目に留まった。一昨年の夏、原爆ドームの周囲で見た千羽鶴が頭をよぎり、近づいた。屋根だけの小さな小屋がしつらえられていて、その屋根から約20束の千羽鶴が吊り下がっている。小学校の名札がついている。小学校の平和学習でこの島にやってきたようだ。
千羽鶴の脇に石碑が建っている。広島大医学部長の揮毫によって「大久野島毒ガス障害死没者慰霊碑」と刻まれている。その隣に、竹原市長名による「宣言」の碑。「死没者は千人を超えたが、その多くは毒ガス障害の解明のために身を捧げ、国からの救済道を開くべく、その礎になった」とある。
宣言の期日は昭和60(1985)年5月12日。それから35年がたった。国は一体どれだけの救済をしたのだろう。
1954年、「ガス障害者救済のための特別措置要綱」が大蔵省から通達され、軍人、軍属については救済の道を開いた。2001年、格差是正が図られ、動員学徒や女子挺身隊員らも救済されるようになった。では、李慶祥さんや李国強さんのように実際に毒ガスにさらされた外国人はどう救済されているのだろう。
1974年10月、黒龍江省佳木斯市で浚渫中に毒ガス弾を巻きあげ、毒ガス被害を受けた李臣さんらが1996年、日本政府を提訴。2003年、東京地裁は原告の訴えを認めたが、2007年、東京高裁は国に軍配を上げ、2009年、最高裁は上告を棄却。李臣さんの敗訴が確定した。日本の司法は外国人の毒ガス被害に目をつぶったのだ。
広島市立大学広島平和研究所の副所長を務めた水本和実氏の研究によると、2017年6月現在、南京、石家荘、武漢などで発掘、回収した旧日本軍の遺棄化学兵器は約4万6000発。中国に残された旧日本軍の遺棄化学兵器数について、中国政府は「200万発」と主張。日本政府は2005年、化学兵器禁止機関に「推定30~40万発」と申告した。仮に日本政府の主張通りだとしても、まだ膨大な化学兵器が隠れたままだ。化学兵器の実質は毒ガスとみてよい。まだまだ残存毒ガスによる被害者が出るおそれがあるのだ。
李国強さんは、大久野島から平和と環境を考える会の人たちに「戦争が終わって平和な時代に被害をもたらしたことに憤りを感じる。日本政府は責任を認め、謝罪をしてほしい」と訴えた。
大久野島は原爆を投下された広島市から直線距離で約80キロのところにある。広島は「被害の地」であるのに対し、大久野島は「加害の地」だ。ここまでみてきた通り、先の戦争ではこの島でつくった毒ガスでアジアの人たちを加害したのである。帰りのフェリーから遠ざかる島を見つめながら、70年前の悲惨な歴史を改めて胸に刻んだ。(了)