連載コラム・日本の島できごと事典 その113《姥捨伝説・金鶏伝説》渡辺幸重

四十小島と鶏小島の位置

本州島と四国島は3つのルート(連絡橋)で結ばれており、最も西側には本州・尾道側と四国・今治側を島伝いに結ぶ「西瀬戸自動車道(しまなみ海道)」があります。しまなみ海道が通る伯方島とその南東の鵜島の間が海の難所と恐れられてきた船折瀬戸です。船も折れると言われるほどの潮流が川のように流れる瀬戸の北東側には赤い灯台(舟折岩灯標)が、南西側には白亜の灯台(鶏小島灯台)が建っています。赤い灯台があるのが四十小島(ししこじま)、白い灯台があるのが鶏小島(にわとりこじま)です。この2つの小さな無人島には灯台だけでなく対比される伝説が残っています。四十小島の姥捨(うばすて)伝説と鶏小島の金鶏伝説です。

働けなくなった老人を口減らしのために山などに遺棄するという伝説は全国各地に残されており、深沢七郎の小説『楢山節考』(1957 年)やその映画化(1958年など)、テレビドラマ化(1960年)でも知られます。老人が捨てられるのは山がほとんどですが伊豆諸島の八丈島では「人捨穴」と呼ばれる洞窟です。四十小島の場合、詳しいことはわかりませんが、無人のこの島に老人を残し、老人たちはこの島で死んでいったということのようです。
姥捨伝説は荘園制度が発達しつつあった中世期に生まれ、天災や飢饉などで村落全体が疲弊した非常時に老人を犠牲にしたことがあったと言われますが、実際に“老人の遺棄”があったかどうか確認されていないとのことです。大島健彦は「姥捨山」型昔話として全国に分布する 568 話の例を挙げていますが、遺棄を後悔して連れ帰るという話もたくさんあります。多くの場合、姥捨山は墓場であって“姥捨て”は極めて限定的な事象であったのではないかという説もあるのです。八丈島の洞窟は風葬跡の遺跡という説が有力だといわれており、四十小島も実は“墓場の島”だったのかもしれません。いずれにしても姥捨伝説からは、飢饉や貧困の悲惨さと同時に肉親の絆と葛藤が伝わってきます。

一方、金鶏伝説は神功皇后の東征伝承と深い繋がりがあります。神功皇后が新羅(しらぎ)遠征の帰途、持ち帰った金鶏が伯方島・有津の浜で休憩したときに逃げて鶏小島に棲みついたというのです。元旦朝に「トーテンコー(東天紅)」の鳴き声を聞くと幸運に恵まれるとされます。
金鶏伝説も全国各地に伝えられていますが、長者が財宝を埋めた跡から鶏の鳴き声がするという類型が多く、特に藤原秀衡 (ひでひら) が漆1万杯と黄金1万両とともに黄金の雌雄の鶏を金鶏山に埋めた話が有名です。
ちなみに江戸時代の鶏の鳴き声は「トーテンコー」という擬音で表したとか。今でも高知県原産の東天紅鶏は「トーテンコー」と鳴くそうですが、私はまだ聞いたことがありません。