連載コラム・日本の島できごと事典 その115《五島の悪制》渡辺幸重

幕末に完成した福江城(石田城)の大手門

江戸時代の五島列島(長崎県)には福江藩(五島藩)が置かれ、五島氏が治めていました。江戸時代初めは中国の船が多く出入りする自由貿易港で栄えたものの江戸幕府の方針によって閉鎖され、その後盛んになった捕鯨業が江戸時代後期に衰退し、風水害による飢饉も重なって藩財政が極度に逼迫するようになりました。そこで藩は領民から搾取を強める政策を取りますがその中で“藩政史上最大の悪制”と言われるのが「三年奉公制」です。それはどのようなものだったでしょうか。
福江藩は藩財政が悪化すると増税をくり返し、負担が重くなった農漁村はそのたびに疲弊の度を増し、藩の収入もさらに減るという悪循環に陥ってしまいました。生活が行き詰った農漁村では重すぎる税を納めるために家族を奉公に出してその給金に頼らざるを得なくなり、多くの人が村を離れました。藩は長崎や地元の商人から多額の借金をせざるを得ませんでしたが、地元商人に献銀に応じて島の漁業権を与えたことから自立していた漁民が「日雇い」に没落するという現象まで起きました。こうして多くの農漁民が身分を変えて転落していき、五島列島は「奉公人だらけの島」になっていったのです。藩は再開墾を奨励するとともに奉公に出るのを12歳までに限定するなどの対策を打ちますが効果はほとんどありませんでした。
ここで言う“奉公人”とは武家や商家に仕える年季奉公人のことで、下人(げにん)とも呼ばれます。特にひどいのが譜代奉公人(譜代下人)で、永代・世襲的に労役を提供する終身奴隷のような身分でした。五島では譜代奉公人に身分を落とした人が多かったそうです。第6代藩主・五島盛佳(もりよし)は1721(享保6)年に世帯の家族数・年齢・世帯主との続柄・出自・身分を細かく人付帳に記載する「人付け改め」政策を始め、人単位で課税する制度を確立しました。領民の個人情報を管理し、村に縛り付けるとともに移動しても追いかけて収奪しようというものです。譜代奉公人からも未納の税や夫銀(夫役の代わりの金銭)を徴発したといいます。
さらに第7代藩主・盛道は1761(宝暦11)年、領民の長女を除く娘が16歳になると福江の武家などに3年間無給で奉公させる「三年奉公制」を始めました。奉公から帰っても離婚すると再び3年間奉公に出されたようです。無給での過酷な労働を強いる奴隷制に近いひどい制度で、抱え主の愛妾とされるケースも多かったと言います。なお、この制度の目的を「娘たちが得るわずかな給金を実家に送付させて農漁民の収入を増やすこと」とする記述も見られるので多少の給金はあったのかもしれません。人付け改めと三年奉公制は幕末まで続けられました。
さて、この五島の悪制を昔のことだと片付けられるでしょうか。現代日本の軍事増税やマイナンバーカードなどの政策を考えるとあまり変わらないような気もしてきます。