Lapiz2022冬号を掲載します!

Lapiz(ラピス)はスペイン語で鉛筆の意味
地球上には、一本の鉛筆すら手にすることができない子どもが大勢いる。
貧困、紛争や戦乱、迫害などによって学ぶ機会を奪われた子どもたち。
鉛筆を持てば、宝物のように大事にし、字を覚え、絵をかくだろう。
世界中の子どたちに笑顔を。
Lapizにはそんな思いが込められている。
Lapiz編集長 井上脩身

連載コラム・日本の島できごと事典 その82《文化露寇》渡辺幸重

日本側が記録したレザノフの船と部下(Wikipedia)

 元寇や倭寇のように「外から侵入して害を加える賊」を“寇”と言いますが、「文化露寇(ぶんかろこう)」をご存知ですか。ロシア帝国軍が文化31806)年に樺太(現サハリン)を、翌年に択捉島(えとろふとう)などを攻撃した事件のことです。日本列島周辺に欧米列強の船が現れるようになり、国内に緊張が高まる時代にロシアとの間で何があったのでしょうか。この事件はロシア側では「フヴォストフ事件」と呼ばれています。

 文化露寇すなわち「文化年間のロシアの侵攻」を和暦で推移を見てみます。まず、文化3年9月(180610月)、樺太南部の久春古丹(くしゅんこたん)にロシア兵20数人が上陸し、アイヌの子供など数人を拉致し略奪や焼き討ちを行いました。久春古丹は江戸時代、松前藩の穴陣屋や運上屋(会所)があったところで、北前船も寄港する交易の拠点でした。江戸時代後期から幕末にかけてたびたびロシア人の襲撃を受けたところのようです。

 次に文化4年4月(1807年5月)、ロシア海軍士官らが択捉島、礼文島、樺太(留多加)などを襲撃しました。択捉島にはロシア船二隻が現れ、盛岡藩の番屋を襲撃、番人5人を捕え、米や塩などを略奪しました。圧倒的な火力の差に幕府側は撤退を余儀なくされ、敗戦の責任をとって指揮官が自害しています。ロシア船が5月3日に択捉島を去るまでロシア兵はたびたび上陸し、略奪や破壊・放火を繰り返しました。

 文化露寇はロシア帝国が日本に派遣した外交使節、ニコライ・レザノフが部下に命じたものでした。実は事件に先立つ1792(寛政4)年、ロシア最初の遣日使節、アダム・ラクスマンが根室に来航して日本との通商を要求した際、江戸幕府は交渉に応じなかったもののラクスマンに長崎への入港許可証(信牌)を交付しました。レザノフはこれを持って1804(文化元)年、長崎に半年間ほど滞在して通商を求めましたが、拒絶されたあげく病気になり、療養中にも幽囚同様の扱いを受けたといいます。レザノフは武力によって開国を迫るしかないと思うようになり文化露寇に至りますが、報復の意思もあったようです。これらの軍事行動はロシア皇帝の許可を得ておらず、ロシア皇帝は1808(文化5)年に全軍撤退を命令、1813(文化10)年にはイルクーツク県知事、オホーツク長官から謝罪の釈明書が松前奉行に提出され、事件は解決しました。

 文化露寇の際のロシア側の戦利品がいまでもサンクトペテルブルクの人類学・民俗学博物館に収蔵されており、キリシタン大名・大友宗麟の印章付きのフランキ砲などがあるそうです。

連載コラム・日本の島できごと事典 その81《九十九島》渡辺幸重

九十九島の島数の数え方(「九十九島パールシーリゾート」サイトより)

 瀬戸内海や松島湾などは多島海と呼ばれ、多くの島々が美しい光景を作っています。九州島・北松浦半島西岸のリアス海岸沿いにも多島海が広がり、北の江迎湾から南の佐世保湾口まで約25kmにわたって大小の島嶼群が美しい姿を競って浮かんでいます。この多島美は約4,000万年前~約1,500万年前の第三紀層の丘陵地が沈水してできたものといわれ、「九十九島(くじゅうくしま)」と呼ばれて観光地となっています。かつては九十九島湾内の南九十九島のみを指し、「つくもじま」と呼んだようですが、名称は島の数が99だったからというわけではないようです。第二次世界大戦後になって北部の北九十九島を含めて九十九島と総称するようになりました。では、島の数は何島になったのでしょうか。

 海上保安庁は「最高潮位面における海岸線が0.1km以上」の海に囲まれた陸地を地図上で数えて日本には北海道島・本州島・四国島・九州島・沖縄島を含めて6,852(北方4島を除く)の島があるとしていますが、これは一つの基準で、島の定義ではありません。佐世保市は「九十九島は208の島で構成される」としていますが、これは島の基準を<「満潮時に陸地が海面から出ている」かつ「陸の植物が生えている」>として「九十九島の数調査研究会」が現地調査を行い、2001(平成13)年に発表した数になります。しかし、その4年後に「九十九島シーカヤッククラブ」が調査したところ島は212あったといいます。さらに、2015年にカヤック歴20年以上の澤恵二さん(佐世保市在住)が調べたところ、新たに12の島を発見し、植物が枯れるなどして条件を満たさなくなった島を4つ確認したとして自費出版の『西海国立公園九十九島全島図鑑』で島の数を216島と発表しました。

 佐世保市によると、九十九島周辺は干満の差が大きいので大潮の満潮時には島の一部が水没して二つに分かれることがあるということです。また、鳥や風によって種子が運ばれて植物がないとされた島に植物が新たに育つこともあるので、調査の時期によって数は変動する可能性があるといいます。島の定義がはっきりしないなかで島の数を特定するのはけっこう難しいことなのです。

 なお、同じ長崎県に島原湾に浮かぶ「九十九島(つくもじま)」があります。ここでは波の浸食によって島の数はかつての59島から16島に減少しました。

Lapiz2022冬号は12月1日から発行予定です。

Lapiz(ラピス)はスペイン語で鉛筆の意味
地球上には、一本の鉛筆すら手にすることができない子どもが大勢いる。
貧困、紛争や戦乱、迫害などによって学ぶ機会を奪われた子どもたち。
鉛筆を持てば、宝物のように大事にし、字を覚え、絵をかくだろう。
世界中の子どたちに笑顔を。
Lapizにはそんな思いが込められている。
Lapiz編集長 井上脩身

 

 

連載コラム・日本の島できごと事典 その79《犬田布騒動》渡辺幸重

島人の決起を描いた画(「犬田布騒動150周年シンポ」資料)

 1604(慶長14)年の薩摩藩による琉球侵攻以降、奄美群島(鹿児島県)は薩摩藩の直轄支配を受け、黒砂糖の専売制度(砂糖総買入制)が敷かれて過酷な搾取を受けました。藩はサトウキビの作付を強制して黒糖の保有や売買を禁じ、私的売買(密売)は死罪という思い罪を科しました。そのなかで1864(元治元)年、徳之島の犬田布(いんたぶ)村で農民一揆が起きました。これを犬田布騒動または犬田布義戦(ぎせん)と呼びます。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その79《犬田布騒動》渡辺幸重” の続きを読む