連載コラム・日本の島できごと事典 その66《のがれの島》渡辺幸重

「のがれの島」の碑(奥武島)

1927(昭和2)年、青木恵哉(けいさい)は熊本・回春病院から派遣されて沖縄にやってきました。キリスト教を伝道しながらハンセン病患者救済のための療養所開設を目指したのです。青木徳島出身のキリスト教宣教師で、みずからもハンセン病を患っていました。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その66《のがれの島》渡辺幸重” の続きを読む

22年夏号Vol.42 連載コラム・日本の島できごと事典 その65《ウグイス》渡辺幸重

ダイトウウグイス(「日本の野鳥識別図鑑」)

 ウグイスは国内にウグイス、ハシナガウグイス、リュウキュウウグイス、ダイトウウグイスの4種類の亜種が生息しています。亜種のウグイスは北海道から九州まで広く分布し、礼文島や壱岐・対馬、伊豆諸島、屋久島・種子島などでも見られます。ハシナガウグイスは小笠原諸島に分布、リュウキュウウグイスはトカラ列島以南の琉球弧(南西諸島)に生息し、ダイトウウグイスはかつて南大東島・北大東島で目撃されました。

 ダイトウウグイスは、1922(大正11)年に鳥獣標本採集家・折居彪二郎(ひょうじろう)が南大東島で初めて2羽を発見し、捕獲して世に知られるようになりましたが、その後は1984(昭和59)年に北大東島で目撃されたのを最後に記録がなく絶滅したと考えられていました。ところが2001(平成13)年に沖縄島でダイトウウグイスと思われるウグイス群が確認され、その後も奄美群島での目撃情報があったため国立科学博物館が調査したところ、奄美群島の喜界島でオス10羽、メス5羽と巣7個が発見されたのです(2008521日発表)。環境省の2006年鳥類レッドリストでも絶滅とされたダイトウウグイスが蘇ったのです。

 ハシナガウグイスは本州の亜種ウグイスより17年早く記載されているためウグイスの“基亜種”とされており、小笠原群島の父島や西島、火山列島の南硫黄島に生息しています。ちなみに、小笠原諸島は小笠原群島(聟島列島・父島列島・母島列島)、火山列島(硫黄列島)、西ノ島、南鳥島、沖ノ鳥島からなる東京都に所属する島嶼群で、小笠原群島は小笠原諸島の一部になります。ハシナガウグイスの小笠原群島の集団と火山列島の集団は遺伝子タイプが異なることが判明しており、ルーツは同じでも交わることなく別々に変化してきたといえます。

 かつては聟島列島の聟島(むこしま)や火山列島の北硫黄島にもハシナガウグイスが生息していました。西島でも一時期は定着した個体を確認できない時期がありましたが、ノヤギなど外来動物の駆除の結果、定着が確認されるまでに回復しました。外来動物の駆除が西島では間に合い、聟島では間に合わなかったということになります。ハシナガウグイスが20世紀半ばに絶滅したといわれる聟島では近年、本州・伊豆諸島のものと同じ亜種のウグイスが見られるようになりました。 越冬のためと思われますが、聟島では外来動物が駆除されているため、かつてのハシナガウグイスに代わって本州・伊豆諸島と同じ亜種のウグイスが定着する可能性があるといわれています。

写真:ダイトウウグイス(「日本の野鳥識別図鑑」)

https://zukan.com/jbirds/internal14899

22年夏号Vol.42 連載コラム・日本の島できごと事典 その64《豊田音頭》渡辺幸重

豊田音頭を踊る人(「地域文化遺産ポータル」動画より)

120kgもの重い石地蔵を背負って盆踊りをやるなんて、誰が考えつくでしょうか。それが佐渡島の真野(まの)地区豊田では古民謡「豊田音頭(真野音頭)」として伝わっているのです。

かつて佐渡のホテルで豊田音頭を見た「東京やなぎ句会」のメンバーはその姿に感動し、絶賛しました。小沢昭一は柳家小三治との対談で「僕の心の中の、あれを見たときのざわめき、嬉しさ、……あのナンセンス……(笑)何の意味もない中に、思えばどれだけの深い哲学を、その人その人なりに、あそこから汲み取ることができるかっていう、これぞ、深い芸術、芸能っていうものの極致です」と語り、小三治に対して「あん時にあなたが喜んでる姿を右の目で見ながら、僕もおんなしに喜んで感動していたんです」と言っています(東京やなぎ句会編著『佐渡新発見』1993年5月三一書房)。このときは踊りの輪の中を60kgの石地蔵を背負った男が右から左へただ一回だけ通り過ぎたと説明されています。

豊田音頭は、佐渡金山が隆盛を極めていた頃、その道中音頭が元となってできた盆踊り唄で、昔、若くして妻子を亡くした男が、お盆に戻ってくる妻子の身代りに大光寺境内の地蔵を背負って踊ったのが地蔵を背負う始まりと伝えられ、その後若い衆が力自慢に背負うようになったようです。石地蔵の重さは60~100kgで、なかには120kgを超えるものもあるそうです。私が見た「地域文化遺産ポータル」の動画では、音頭を踊る女性たちの輪に交じって大きな石地蔵を背負った2人の男性が同じ盆踊りを踊っていました。また、豊田音頭を継承しようと活動をしている「小波会(さざなみかい)」の動画では踊り手全員が小さな石地蔵を背中に結んでいました。豊田音頭は一時途絶えたものの1978年(昭和53年)に復活し、真野小学校の子供たちも背の2倍にもなろうという大きなハリボテ地蔵を背負って踊ります。

柳家小三治は「まいんち担いでるやつは、普通の顔になっちゃうわけ。だからあれは悲しかった。すばらしかった。で、しかも、もう担いでる自分の姿を想像して、滑稽にすら思ってる、っていう、そういう、辛い悲しい、そういうものを通り過ぎてしまった人の、……態度だね。だから、すばらしい」と言っています。小沢昭一も小三治も妻子を亡くした男の話は聞いていなかったようです。しかし、それを知っても豊田音頭に対する「あの無意味、不条理、不毛、あれは人生だなァ」(小沢昭一)という評価は変わらなかったでしょう。

連載コラム・日本の島できごと事典その63《国宝の島》渡辺幸重

源義経が奉納した鎧(国宝)https://oomishimagu.jp/national-treasure/

 本州と四国を結ぶ三つのルートのうちもっとも東にあるのが広島県と愛媛県を結ぶ「瀬戸内しまなみ海道(西瀬戸自動車道)」です。その中ほどのもっとも大きな島が「国宝の島」「神の島」と呼ばれる大三島(おおみしま)になります。大三島には海・山の守護神として尊崇される大山祇(おおやまづみ)神社があり、国宝や重要文化財を多数収蔵しています。特に、武将たちが戦勝祈願と戦勝のお礼に奉納した鎧(よろい)・兜(かぶと)・刀剣などの武具類は小物類を含めると数万点に上るといわれ、甲冑(かっちゅう)類については全国の国宝・重要文化財の約4割を有しています。

 国宝は8件あり、内訳は鎧4件・大太刀2件・太刀拵1件・禽獣葡萄鏡(きんじゅうぶどうきょう)1件で、「工芸品」として指定されています。鎧には、瀬戸内の合戦で勝利した源義経奉納の「赤絲威鎧(あかいとおどしよろい)」、源頼朝が奉納した「紫綾威鎧」、日本の大鎧としては最古の「沢瀉(おもだか)威鎧」などがあります。義経の鎧は別名「八艘飛びの鎧」とも呼ばれ、平家物語絵巻にも登場します。また、禽獣葡萄鏡は斉明天皇の奉納と伝えられます。大三島には、国指定の文化財が国宝・重要文化財・天然記念物合わせて85件あります。重要文化財は、大山祇神社の本殿と拝殿が「建造物」として、1543年の大三島の戦いで討死(自害)したとされる大祝安用(おおほうりやすもち)の息女・鶴姫の「紺糸素懸威(こんいとすがけおどし)」や木曽義仲の鎧「熏紫韋威胴丸(あいかわおどしかたこししろどうまる)」など68点が「工芸品」として指定されています。また、「大山祇神社のクスノキ群」の1件が国指定天然記念物になっています。

 大三島の文化財の数は資料によって異なるので混乱しますが、今治市教育委員会生涯学習課に確認したのが上記のデータになります。たとえば、「武具では全国の国宝・重要文化財の約8割を収蔵」という数値を複数の資料で見ましたが、今治市教委によると、その根拠は「1919年(大正8年)113日の東京国民新聞に『帝国第一の古物館』と題して寄稿した志賀重昻が『特に兵器類の国宝に至っては日本全国の国宝の八割強を占め云々』と紹介した」ことだそうで、その後1950年(昭和25年)の文化財保護法改正で国宝の区分けが国宝と重要文化財に変更されて再指定があったことや指定文化財の数が増加したため、今では「甲冑類について全国の国宝・重要文化財の約4割を有している」が正しい表記ということでした。国の重要文化財の数も「132件」「76件」「469点」などがありました。それぞれ何らかの根拠があるのかも知れませんが、数字を孫引きするときには十分な注意が必要です。

連載コラム・日本の島できごと事典その62《青ヶ島還住》渡辺幸重

名主・佐々木次郎太夫の碑(観光情報「観るなび」)https://www.nihon-kankou.or.jp/tokyo/134023/detail/13402af2172051936

 「人はなぜ島に住むのか」は永遠のテーマです。人は災害や疫病、経済的理由などで島を離れても生まれ育った故郷に帰ろうとします。それはなぜでしょうか。それを考えさせる出来事の一つが、伊豆諸島・青ヶ島の〝還住〟の歴史です。

 青ヶ島は八丈島の南約64kmにあります。気象庁が火山活動度ランクCの活火山に指定する二重式カルデラ火山の島で、古くからたびたび噴火(山焼け)を起こしてきました。1785(天明5)年の大噴火では全家屋63戸を焼失し、事前に島を出ていた者を含めて202(他に流人1人)が救出されましたが、救助船に乗れなかった130人余りが島に取り残されて犠牲になりました。

 八丈島に逃れた青ヶ島島民は島の「復興(起し返し)計画」を立て、実行に移しました。まず1793(寛政5)年に強健な男性12人を青ヶ島に送り込むことに成功し、復興事業に取りかかりました。しかし、島では大繁殖したネズミによる被害を受けるなどの苦難が続いた上に八丈島からの支援も思うようにできませんでした。1794(同6)年には3回八丈島から物資を送ろうとしたものの1回しか成功せず、その船も帰路途中で遭難し、乗組員全員死亡という犠牲が出ています。1797(同9)年には名主・三九郎らを乗せた船が暴風にあって紀州(和歌山県)に漂着。乗船者14人のうち名主を含む11人が死亡しました。1799(11)年には三九郎の遺志を継いで穀類を積んで出航した船がまた暴風にあって紀州に漂泊しました。このときは乗組員のうち32人が八丈島に戻っています。結局1795(7)4月に1回成功したあとは八丈島から青ヶ島に渡った船は1艘もなく、青ヶ島で復興にあたっていた7人は1801(享和元)年に八丈島に戻ったのでした。1817(文化14)年、名主になった佐々木次郎太夫が綿密な帰島・復興計画を立ててからは順調に進むようになり、その結果、1824(文政7)年に多くの島民が帰島し、1834(天保5)年には島民全員が故郷の青ヶ島に帰り着くことができました。翌年に検地が実施され、青ヶ島は1785(天明5)年の大惨事から約50年の歳月を経て復興を成し遂げたのです。

 この経緯は近藤富蔵の『八丈実記』に記され、民俗学者・柳田國男は『青ヶ島還住記』として著し、名主・次郎太夫を「青ヶ島のモーゼ」と讃えています。さて、たとえ〝不毛の地〟と言われようとも故郷の島に帰ろうとする心情を私たちは理解できるでしょうか。

写真:名主・佐々木次郎太夫の碑(観光情報「観るなび」)