連載コラム・日本の島できごと事典 その44《島を食う虫》渡辺幸重

かつてのホボロ島

瀬戸内海の東広島市赤碕の沖に小さな島「ホボロ島」が浮かんでいます。「美しい赤土の山肌を持っているこの島は、風雨や波に侵されて身がやせ細るばかりだったので、そこから逃げだそうとしたものの周囲の島々がじゃまをしてどこにも逃げられなかった。西方にこの島に好意を持つ藍之島があったが、その間にある島が辛く当たるので会いにも行けず、すっかり諦めて衰亡の身を横たえている」という伝説がある島です。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その44《島を食う虫》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その43《消えた国境離島》渡辺幸重

潮位観測の流れ(海上保安庁)

地図を見ると、北海道北部のオホーツク海側、宗谷郡猿払村の沖合約0.5kmに「エサンベ鼻北小島」があります。これは2014年8月に国が命名し、2016年度に国有財産台帳に記載した「領海の外縁を根拠付ける国境離島」のひとつで、1987年に行った第一管区海上保安本部による測量で、標高1.4mとされています。ところが2019年9月24日、海上保安庁は調査を行った結果「島は存在しない」と発表しました。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その43《消えた国境離島》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その42《国境離島》渡辺幸重

日本の領海と排他的経済水域EEZ(海上保安庁)

近年、日本政府や政治家が急に使い始めた言葉に「国境離島」があります。領海や排他的経済水域(EEZ)などの線引きを行う際に管轄海域の根拠となる基線は国連海洋法条約で「沿岸国が公認する海図に記載される海岸の低潮線等」と定められています。日本は島国ですからその基線となる小島や岩礁がたくさんあります。1987年(昭和62年)の海上保安庁『海上保安の現況』によると、日本にある島嶼は本州島なども含めて6,852島(周囲100m以上)です。このうち、有人60島、無人465島の計525島が「国境離島」とされます(北方四島・竹島地域を除くと484島)。これらの領土から12海里(約22.2km)以内が領海、200海里(約370.4km)以内が天然資源の開発権が認められるEEZとなります。領土問題や海底資源などへの関心が高まっていることから特に近年、「国境離島」がクローズアップされているのです。
日本政府は2010年度(平成22年度)から翌年度にかけて正式な名称が記載されていなかった49島について名称を決め、地図・海図への記載を決めました。これはEEZの外縁を根拠付ける島が対象でしたが、2014年(平成26年)8月には、領海の外縁を根拠付ける158島についても新たに島名をつけました。また、所有者が不明な273島については国有財産として登録することにし、2017年(平成29年)3月までに国有財産台帳への登載を終え、一部の島を除き不動産登記も行われました。2016年(平成28年)4月には「有人国境離島地域の保全及び特定有人国境離島地域に係る地域社会の維持に関する特別措置法(有人国境離島法)」が成立し、29地域148島が「有人国境離島地域」に指定されました。これの地域を対象に振興策と同時に「日本の国境に行こう!!」プロジェクトが展開されています。
新しく付けられた名前には「北小島」「南東小島」など方角を付けただけというものが多く、地元の漁師に聞けばもっとなじみ深いものになっただろうになんとも味気ない感じがします。ちなみに尖閣諸島をみると、久場島の周りだけでも北小島・東小島・南東小島・北西小島があり、北小島は大正島や魚釣島をはじめ全国各地にあります。
これらの一連の動きは日本国民の生活や安全保障に深い関わりがありますが、一般の関心は低いようです。「国境離島を防衛の拠点に」などという軍事強化の風潮につながることは避けなければなりません。

連載コラム・日本の島できごと事典 その41《咸臨丸》渡辺幸重

咸臨丸難航図 鈴藤勇次郎原画/【所蔵】木村家蔵・横浜開港資料館

咸臨丸(かんりんまる)はオランダで建造され、1857年(安政4年)に進水した江戸幕府の軍艦です。1860年(万延元年)に日米修好条約の批准書交換のため幕府使節がアメリカに派遣された際にアメリカ軍艦『ポーハタン』号の護衛艦として同行し、初めて太平洋を横断した日本軍艦として知られています。船には勝海舟や福沢諭吉、ジョン万次郎も乗っていました。そして、100数人の乗組員のなかには塩飽(しあく)諸島(香川県)出身の水夫(かこ)35人が乗っていました。
塩飽諸島は、戦国時代には塩飽水軍の本拠地で操船技術に長けた人々が住む島々です。咸臨丸子孫の会の調べによると、35人の出身島の内訳は広島11人、本島(ほんじま)10人、高見島4人、櫃石(ひついし)島・瀬居島各3人、牛島・佐柳島各2人となっています。うち2人がサンフランシスコで病死しましたが、帰国した塩飽諸島出身水夫のうち11人が1862年(文久2年)に小笠原諸島(父島・母島)巡視に出た咸臨丸に乗り組んでいました。このときは塩飽諸島出身の船員は総勢で42人いたそうです。この巡視は幕府が小笠原諸島の領有を宣言し、移住政策を進めるためのもので、アメリカ東インド艦隊司令官ペリーが父島に立ち寄って初代入植者でアメリカ人のナサニエル・セボレーを首長とするピール島(父島)政府を樹立するなど小笠原諸島をめぐって欧米を巻き込んだ領有権問題が勃発していました。このとき幕府は小笠原の領有を宣言し、小花作助ら6人の吏員を父島に在留させました。のちに八丈島から30余人を移住させて開拓を始めています。一行に通訳として参加していたジョン万次郎はその後、小笠原で洋式捕鯨の指導を行いました。
塩飽諸島の櫃石島や岩黒島、与島などを通る瀬戸大橋が開通した1988(昭和63)年、与島に観光型商業施設「瀬戸大橋京阪フィッシャーマンズ・ワーフ」が開業しました。そこには幕末の咸臨丸を模した観光船「咸臨丸」がありました。幕末のアメリカや小笠原諸島への咸臨丸の航海で活躍した塩飽諸島出身船員にちなんで企画されたもので、2008年(平成20年)まで就航し、塩飽諸島を周遊しました。
太平洋往復83日間の咸臨丸に乗船した広島出身の平田源次郎は帰国後、箱館戦争の榎本艦隊に参加しました。また、佐柳島出身の前田常三郎は小笠原航海にも参加、その後坂本龍馬に従い、亀山社中・海援隊で佐栁高次を名乗って活動しました。激動の維新前後の人間模様の一端がうかがわれます。

連載コラム・日本の島できごと事典 その40《保健婦初子の像 》渡辺幸重

 

「保健婦初子の像」 ブログ「 犬飼ライダーズすて~しょん」より

四国の南西部、足摺岬(あしずりみさき)の西約42kmに沖の島があります。島の斜面に数百年にわたって石を積んで作られた段々畑の風景で知られ、その島に「保健婦初子の像」が建てられています。これは、1949年(昭和24年)から20年以上ただ1人の島の保健婦として勤務し、乳幼児死亡率の減少や風土病フィラリア(象皮病)の撲滅に貢献した荒木初子を顕彰したものです。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その40《保健婦初子の像 》渡辺幸重” の続きを読む