連載コラム・日本の島できごと事典 その117《標的の島》渡辺幸重

烏帽子岩(マップル・トラベルガイドより) https://www.mapple.net/spot/14013240/

私が生まれた島の南西側の海に長い瀬がありました。子どもの頃「戦争の時にアメリカ軍があの瀬を日本軍の潜水艦と間違えて撃ってたよ」と聞きました。笑い話としてでした。島々の歴史を調べると、アメリカ軍や旧日本軍、自衛隊が射撃訓練で島や岩を標的にして撃った例がたくさん出てきます。なかには誤爆の例もありますが、軍隊の訓練は悲惨な戦争につながります。

戦争という非人道的な行為を考えると笑い話ではすまされません。
神奈川県茅ケ崎市の湘南の海に大小30あまりの岩礁群があります。岩礁中の大岩が赤子を抱く乳母の姿に似ていたことから姥島(乳母島)と呼ばれますが、最大の岩礁・烏帽子(えぼし)岩は地域のシンボルとなっており、サザンオールスターズのヒット曲『チャコの海岸物語』『HOTEL PACIFIC』にも歌われています。この岩は江戸時代には大筒(大砲)稽古のための標的とされ、第二次世界大戦後は1952(昭和27)年から2年間、対岸の辻堂海岸一帯が在日アメリカ海軍辻堂演習場となったことから射爆演習の標的とされました。烏帽子岩の先端が吹き飛ばされるほどの砲弾を浴び、いまも岩肌に着弾痕が残っています。
長崎県佐世保市の九十九島湾内(南九十九島)の帆瀬(ほぜ)も朝鮮戦争が始まった1950(同25)年頃、アメリカ軍が九州島側(現陸上自衛隊相浦駐屯地)から砲撃訓練の標的にした島です。島の岩頭が船の帆に見えることから帆瀬と名づけられましたが、樹木が繁茂していた面影が残らないほど形が変わってしまいました。同じ九十九島湾内のオジカ瀬は広い海蝕台に二本松が生えた岩体が乗り、浮上した潜水艦に見えることから第二次世界大戦中にアメリカ軍の誤射を受けたといわれています。
伊豆諸島の一つ・御蔵島(みくらじま)の南西約35㎞に浮かぶ藺難波島(いなんばじま)は第二次世界大戦後の1972(同47)年までアメリカ空軍の射爆演習場として使われ、爆撃機の機銃や爆弾が打ち込まれました。藺難波島はわずか0.0115?の岩小島ですが、水深1,600~1,800mの御蔵海盆からそびえる孤立した火山体で、海底も含めた体積は八丈島の半分ほどもあります。私たちには小さな岩ですが、隠された大きな体が怒りで震え、火山が鳴動する日が来るような気がします。

連載コラム・日本の島できごと事典 その116《鬼界カルデラ》渡辺幸重

7300年前の鬼界カルデラ噴火による火砕流と火山灰の到達域

直径1.5km以上の大型の火山性円形くぼ地をカルデラと言います。日本では阿蘇山が有名ですが、鹿児島県の薩南諸島には海底に東西約20km、南北約17kmの楕円形状をした陥没型の「鬼界カルデラ」があります。カルデラを作るような超巨大噴火が日本では過去15万年のあいだに14回起きたと言われますが、鬼界カルデラは日本で最も新しい巨大カルデラで、かつ過去1万年以内では世界最大規模のものです。鬼界カルデラでは、13万年前と9万5000年前にも超巨大噴火が起きたことが分かっており、7,300年前に起きた超巨大噴火で現在の鬼界カルデラができました。このとき、火砕流は海を越えて薩摩半島や大隅半島にまで達し、その地域の生物を飲み込み、当時の縄文文化を壊滅させました。また、噴煙は偏西風に運ばれて東北地方にまで達し、日本中に火山灰が降り積もりました。これらの地域や屋久島などではこのときの火砕流(幸屋火砕流)が見られます。

九州島と屋久島の間の海域には硫黄島(薩摩硫黄島)、竹島、黒島が浮かんでいます。これらを上三島(かみさんとう)または口三島と呼び、鹿児島県鹿児島郡三島(みしま)村を形成していますが、硫黄島と竹島は鬼界カルデラの北縁部にあたる外輪山で、硫黄島では今でも主峰の硫黄岳から噴煙が上がっています。鬼界カルデラの地下には流紋岩質マグマと玄武岩質・安山岩質マグマの二層構造マグマだまりがあり、次の大噴火に向けてマグマが少しずつ増え続けている可能性が指摘されています。神戸大学とJAMSTEC(海洋開発研究機構)はさまざまな方法を駆使した総合調査によって海底下100km程度までの地下構造を描き出し、フィリピン海プレート付近でマグマがつくられ上昇するまでの全体像を明らかにしようとしています。

硫黄島は火山噴火予知連絡会によって火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要がある火山に選定されており、24時間体制で常時監視・観測されています。また、三島村の全陸域と海底カルデラは2015(平成27)年9月に「三島村・鬼界カルデラジオパーク」として日本ジオパークに認定されています。

図:7300年前の鬼界カルデラ噴火による火砕流と火山灰の到達域
※「海と地球の情報サイトJAMSTEC BASE」より
https://www.jamstec.go.jp/j/pr/topics/20220428/

連載コラム・日本の島できごと事典 その115《五島の悪制》渡辺幸重

幕末に完成した福江城(石田城)の大手門

江戸時代の五島列島(長崎県)には福江藩(五島藩)が置かれ、五島氏が治めていました。江戸時代初めは中国の船が多く出入りする自由貿易港で栄えたものの江戸幕府の方針によって閉鎖され、その後盛んになった捕鯨業が江戸時代後期に衰退し、風水害による飢饉も重なって藩財政が極度に逼迫するようになりました。そこで藩は領民から搾取を強める政策を取りますがその中で“藩政史上最大の悪制”と言われるのが「三年奉公制」です。それはどのようなものだったでしょうか。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その115《五島の悪制》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その114《夢洲(ゆめしま)》渡辺幸重

夢洲全景(ウイキペディアより)

 大阪・関西万博は2025(令和7)年4月開幕予定ですが、「建設費が計画の1,850億円から2,300億円程度に増える」「海外パビリオンの建設が間に合わない」などの不安が広まっています。大前研一氏は『週刊ポスト』10月6・13日号で「大阪・関西万博は大失敗して税金の無駄遣いに終わる」とまで言い切っています。円安による資材高騰や人手不足、建設予定地の土壌汚染問題や軟弱地盤問題など課題は山積しており、東京オリンピックに続いて天井知らずの費用はどこまで増えるのでしょうか。

 大阪・関西万博の予定地は大阪湾に浮かぶ人工島・夢洲です。ここはどんなところなのでしょうか。

東京湾や大阪湾には人工島が多く、そのほとんどがゴミの処分場だったところです。夢洲は北東側の舞洲(まいしま)、南東側の咲洲(さきしま)とともに1970年代から埋め立てられました。夢洲・舞洲・咲洲という名称は1991(平成3)年に一般公募によって決まった愛称です。

大阪市が1988(同元)年に策定した「テクノポート大阪」計画では、夢洲は6万人が居住する新都心になる予定でした。しかし、バブル崩壊によって計画は頓挫し、2008(同20)年には正式に計画が白紙撤回されました。1990年代に出てきたのが2008年夏季オリンピックを舞洲に誘致するという案で、夢洲には選手村を整備するはずでしたが2001(同13)年のIOC総会で大阪は北京に敗れ、夢と散りました。オリンピックに代わって2014(同26)年には「1970年大阪万博(日本万国博覧会)の夢よもう一度」と大阪市による国際博覧会誘致構想が浮上、2016(同28)年に会場候補地が夢洲に一本化され、2018(同30)年11月の博覧会国際事務局(BIE)総会で大阪開催が決まりました。

一方、2014(同26)年には当時の橋下徹大阪市長が夢洲を候補地としてカジノを含む統合型リゾート (IR) 誘致活動を推進すると発表しました。大阪IRの開業は新型コロナウイルスの流行や国の手続きの遅れなどから大幅に遅れ、当初計画の2025年から2020年代後半(目標)と伸びていますが、大阪市は2021(令和3)年9月にIR事業者選定を発表しています。夢洲では万博とカジノという2つの大型プロジェクトが併行して進んでおり、大阪市は夢洲を新たな国際観光拠点にするとしています。

夢洲の埋め立て途中にできた池や湿地、砂礫地には現在は多くの野鳥や昆虫が生息しています。野鳥では、ホシハジロやツクシガモ、セイタカシギ、コアジサシ、シロチドリなどが見られ、大阪府レッドデータリストで「絶滅」とされた水草のカワツルモが再発見されました。これらのことから夢洲は咲洲の南港野鳥園とともに「生物多様性ホットスポット(Aランク)」に選定されています。 人間の欲望や思惑に翻弄されている夢洲ですが、もっと大きな心で野生動物や地球環境の立場で開発を見直してもいいのではないでしょうか。大阪・関西万博のテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」です。

連載コラム・日本の島できごと事典 その113《姥捨伝説・金鶏伝説》渡辺幸重

四十小島と鶏小島の位置

本州島と四国島は3つのルート(連絡橋)で結ばれており、最も西側には本州・尾道側と四国・今治側を島伝いに結ぶ「西瀬戸自動車道(しまなみ海道)」があります。しまなみ海道が通る伯方島とその南東の鵜島の間が海の難所と恐れられてきた船折瀬戸です。船も折れると言われるほどの潮流が川のように流れる瀬戸の北東側には赤い灯台(舟折岩灯標)が、南西側には白亜の灯台(鶏小島灯台)が建っています。赤い灯台があるのが四十小島(ししこじま)、白い灯台があるのが鶏小島(にわとりこじま)です。この2つの小さな無人島には灯台だけでなく対比される伝説が残っています。四十小島の姥捨(うばすて)伝説と鶏小島の金鶏伝説です。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その113《姥捨伝説・金鶏伝説》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その112《売春島》渡辺幸重

単行本『売春島』の表紙

5年前のある日、私が東京・お茶の水の三省堂書店本店に入ると『売春島(ばいしゅんじま)』と目立つ赤字で書いた本が目に飛び込んできました。何列にもわたって平積みにされていたのです。おどろどろしい小説かと思いきや表紙には「『最後の桃源郷』渡鹿野島ルポ 」とあり、実際にある島のことだとわかりました。表紙の帯には「売春島の実態と人身売買タブーに迫る」とあります。私はいたたまれなくなり、その場を去りました。
私は島の話題となると島に住む人間の側に立ってしまいます。その本の内容が本当か嘘かはともかく、東京のど真ん中で大々的に自分の島が「売春島」として宣伝されたら、と思うと心が痛みました。この本は9万部も売れてベストセラーになったそうで、中央紙の一面の書籍広告でも見ました。こんな言葉を堂々と島名と一緒に広めるのかと驚き、暗い気持ちになりました。

渡鹿野島(わたかのじま)は三重県の志摩諸島に属する有人島で、古くは伊勢神宮・内宮の別宮として格式が高く、「オノコロジマ」とも呼ばれる神の島でした。江戸時代の帆船交通の時代には風待ち港・避難港として栄え、船宿や遊郭があって「女護ヶ島」という別名も付きました。船乗り相手の「把針兼(はしりがね)」と呼ばれる遊女が集まり、女性の比率が極端に高かったようです。明治時代になると船舶の動力化・大型化から入港船の数は少なくなりましたが、1957(昭和32)年4月に売春防止法が施行されて一掃されるまで遊郭は残り、その後も売春を斡旋する置屋文化が続いたようです。1970年代半ばから1990(平成2)年頃までの最盛期には客で溢れかえり、ホテルや置屋のほかパチンコ店や居酒屋、ヌードスタジオ、裏カジノなどまであり、欲望むき出しの男たちの“桃源郷”になりました。法律から逃れるために自由恋愛を装い、女性の部屋で売春する建前があったようです。女性の中には台湾人やフィリピン人、タイ人もいました。『売春島』の著者・高木瑞穂が島で取材を始めた2009(平成21)年頃は寂れていて置屋は3軒、売春婦は20人だったということです。
1971(昭和46)年に内偵捜査のために島に潜入した三重県警警部補が売春婦の女性と内縁関係となって島でスナック経営者兼売春斡旋者となり、1977(同52)年10月に逮捕される事件もありました。元警部補は出所後、島の観光産業の発展に尽力したそうです。
2016(平成28)年5月、渡鹿野島と同じ志摩市に属する賢島を会場に先進国首脳会議「伊勢志摩サミット」が開かれました。その数年前から警察の取り締まりが厳しくなり、性風俗に携わる女性らは逮捕されたり島を離れたりして、渡鹿野島の“桃源郷”も幕を閉じたようです。

一方、島の負のイメージを払しょくし、家族で安心して訪れることができる観光の島にしようという取り組みが続いています。2003(平成15)年には三重県が人工海水浴場・わたかのパールビーチを設置。また、島民と大学生が体験メニュー開発などを行ったり、地域おこし協力隊による地域活性化などの活動もあります。2021(令和3)年には初めて修学旅行の誘致に成功しました。島の形から「ハートアイランド」と呼んで展開されているこれらの活動が実ることを祈っています。

連載コラム・日本の島できごと事典 その111《アッツ島玉砕》渡辺幸重

アッツ島の位置(読売新聞より)
藤田嗣治「アッツ島玉砕」

太平洋の最北に位置するアリーシャン列島のアッツ島は第二次世界大戦で最も悲惨な戦いを強いられた島の一つです。当時アッツ島は日本軍が占領していました。アメリカ領なので「日本の島」とは言えませんが、初めての“玉砕の島”であり、その後の太平洋の島々や硫黄島の戦い、沖縄戦に続く重要な史実を持つ忘れてはならない島です。
アメリカ軍は1943(昭和18)年5月 12日、日本軍がミッドウェー作戦の陽動作戦として前年6月以降占領し、熱田(あつた)島と呼んでいたアッツ島を奪回しようと攻撃を開始し、上陸しました。日本軍の2500人余の守備隊に対してアメリカ第七歩兵師団の兵力は約1万2千人。弾薬も食糧も不足する日本軍に対してアメリカ軍は戦艦や巡洋艦、護衛航空母艦、駆逐艦などが援護するので日本軍はひとたまりもありません。島外からの日本軍の支援もなく、5月29日に守備隊は全滅しました。
日本軍は降伏して捕虜になることを禁じていたため、兵士は銃剣や手りゅう弾を手に夜間突撃を繰り返し、負傷兵士には自決が命じられました。最後に残った100人ほどの兵士は5月29日、最後の突撃を敢行。意識を失うなどして捕虜になった兵士27人(29人とも)以外は全員戦火に散りました。アメリカ軍の戦死者は561人でした(兵士の数や戦死者数などは資料により異なります)。
実は日本軍は一時、援軍を派遣する予定でしたが、大本営はアメリカ軍に島の周囲を制圧されており「戦力を消耗しては大変」と派遣を諦め、アッツ島守備隊を見殺しにしました。ちなみに隣のキスカ島(鳴神島)の日本軍守備隊は深い霧に紛れて脱出しています。
大本営はアッツ島の戦いを初めて“玉砕”と呼び、皇軍(日本軍)の神髄を発揮したとして新聞やラジオで大々的に発表、国葬や慰霊祭まで行って一般市民にも死ぬまで戦うための宣伝材料に使いました。画家・藤田嗣治は『アッツ島玉砕』を描き、1953昭和28)年の「国民総力決戦美術展」に出展しています。
戦争でいつも大きな犠牲を強いられるのは戦場を生活の場としていた住民です。日本軍が占領したときアッツ島には42人のアレウト族と2人の白人が暮らしていました。アレウト族40人は日本軍の方針によって北海道小樽市に抑留され、戦後まで生き残っていた25人がアメリカ軍によってアリューシャン列島の別の島に移送されました。戦争は住民ら故郷での平穏な生活を奪ってしまったのです。
戦後、日本は1953(昭和28)年と1978(同53)年に遺骨収集を行いましたが、遺骨は320人分しか戻っていません。

連載コラム・日本の島できごと事典 その110《来訪神》渡辺幸重

甑島のトシドン
宮古島のパーントゥ

2018(平成30)年11月、「男鹿のナマハゲ(秋田県)」など日本の来訪神行事10件が「来訪神:仮面・仮装の神々」としてユネスコ無形文化遺産に登録されました。このときテレビで来訪神が出現する各地の祭りの映像が流されましたが、私がもっとも驚いたのが沖縄県の「宮古島のパーントゥ」でした。蔓(かずら)を巻き付けた体の上にどっぷりと泥を塗りたくった仮面のパーントゥが出現し、住民のみならず観光客まで追い回し、泥を塗りたくるのです。人間だけでなく車などの物にも泥を塗りつけるということでした。パーントゥは人間社会に豊饒や幸福をもたらすために現れ、泥を塗ることは穢れを落とし、悪魔祓いをすることにつながります。日本列島に限らず世界各地の祭りで現れる異形の仮面・仮装の神々は現代アートにも見え、それぞれ独特の面白さがあります。

来訪神は新年や小正月、豊年祭、節祭など一年の区切りに人間の世界に現れ、家々や村々に豊穣や幸福をもたらす神です。民俗学者の折口信夫(しのぶ)は「まれびと」と呼びました。多くは仮面などで仮装した妖怪のような姿で、人々と交歓したあと何処ともなく去っていきます。
ナマハゲが「泣ぐ子(ご)は居ねがー」などと寄声を発しながら子供を戒める光景は有名ですが、「甑島のトシドン(鹿児島県)」も3~8歳の子供のいる家を訪問し、怖い声で子供たちがした悪戯などを指摘し、懲らしめます。そのあと子供のいいところを褒め、最後に年餅を与えて去りますが、この年餅はお年玉の起源ともいわれます。
「薩摩硫黄島のメンドン(鹿児島県)」は八朔踊の最中に乱入し、踊り手の邪魔をしたり、スッベン木とよばれる柴で観客を叩いて悪霊を祓います。
「悪石島のボゼ(鹿児島県)」は観客を追いまわしてマラという長い杖で赤い泥を塗りつけます。泥は邪気を祓い、特に女性は子宝に恵まれると伝えられます。

実は、来訪神行事のユネスコ無形文化遺産は2009(平成21)年の「甑島のトシドン」単独登録が最初で、2018年に改めて10件となって登録されました。前記以外の行事には「吉浜のスネカ(岩手県)」「米川の水かぶり(宮城県)」「遊佐の小正月行事(山形県)」「能登のアマメハギ(石川県)」「見島のカセドリ(佐賀県)」があります。いずれも重要無形民俗文化財に指定されています。

他にも来訪神行事は全国にたくさんあり、観光の対象になっているものもありますが、名前は知られていながら謎に包まれているのが沖縄県八重山諸島(石垣島・西表島・小浜島・上地島)の「アカマタ・クロマタ」です。旧暦六月の稲穂祭りに来訪神アカマタ・クロマタが出現しますが参加は村の関係者に限定され、写真撮影や録音などの記録が一切許されていないのです。だから何の文化財にも指定されていません。

甑島のトシドン(「ニッポンドットコム」サイトより)
https://www.nippon.com/ja/guide-to-japan/gu900074/
宮古島のパーントゥ(「宮古島BBcom」サイトより)

https://miyakojima-bb.com/2022/10/06/blog-20221006/

連載コラム・日本の島できごと事典 その109《ニーバンガズィマール》渡辺幸重

 

台風で倒れたニーバンガズィマール(NHKより)

前回は沖縄・伊江島のできごとを取り上げましたが、緊急事態が起きたために伊江島を続けます。

倒れる前のニーバンガズィマール

今年(2023年)8月3日、伊江島の宮城家が管理する樹齢100年以上とも約250年とも言われるガジュマルの大木「ニーバンガズィマール」が根こそぎ倒れているのが発見されました。台風6号が8月2日頃沖縄島の南方を過ぎ、東シナ海でUターンして沖縄島の北方を通過して6日頃まで沖縄地方に大きな影響を与えました。ニーバンガズィマールはこの台風による強風によって倒されたようです。地元ではテレビや新聞で大きく報道され、多くの人に衝撃を与えました。それはなぜでしょうか。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その109《ニーバンガズィマール》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その108《乞食行進》渡辺幸重

写真記録『人間の住んでいる島 沖縄・伊江島土地闘争の記録』(阿波根 昌鴻著、1982年私家版)の表紙

沖縄島・本部半島の西方海上に尖った山がひときわ目立つ島が浮かんでいます。伊江島です。山は標高172mの城山(ぐすくやま)で「伊江島タッチュー」とも呼ばれます。第二次世界大戦末期、1945(昭和20)年4月16日、米軍は伊江島に上陸、激しい戦闘の末5日後に島を占領しました。住民も戦闘に参加させられ、集団自決(強制集団死)も起きています。村民の3分の1にあたる約1,500人と日本兵約2,000人が犠牲となりました。戦後、残った住民は慶良間諸島の収容所に強制移動させられ、1947(同22)年2月に帰島したときには島の63%が米軍の巨大な航空基地になっていました。知らないうちに土地を奪われていたのです。
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