■新刊のお報せ《新版 日本の島事典 》編集室

*『新版 日本の島事典』* 上下卷計1,600頁 ¥77,000(税込)
監修・編著:長嶋俊介・渡辺幸重 三交社刊
2022年12月6日刊行予定
27年ぶりの改訂新版で国土地理院地図情報をベースに日本の島嶼(島・岩礁)を
精査し、新定義「周囲0.1㎞以上及び0.1㎞未満の名称付き自然島」による我が国
の島嶼数を初めて1万5,712とした。本書は、これを基に有人島など歴史的に重要
な約2,000の島の「沿革」を著し、都道府県別に無人島・人工島などを含む島嶼の「現在」を示した歴史的大著である。上製本、ケース入り、分売不可。
◎内容
・はじめに 基礎データ(島数概要)
・第1部 日本の島々(解説編)
・第2部 島々の歴史(年表編)・第3部 島嶼県別集計(データ編)
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連載コラム・日本の島できごと事典 その83《尾崎放哉》渡辺幸重

「咳をしても一人」

尾崎放哉の句碑(「名歌鑑賞」より)

 最も短い俳句といわれるこの句は尾崎放哉(ほうさい)が瀬戸内海の小豆島で詠んだものです。「いれものがない両手でうける」という句も代表作の一つです。放哉は種田山頭火と並び称される自由律俳句を詠む放浪の俳人で、山頭火は“動”の俳人、放哉は“静”の俳人と言われます。放哉は晩年を小豆島で過ごし、1926(大正15)年に41歳で亡くなりました。島内には句碑や墓、尾崎放哉記念館などがあります。

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連載コラム・日本の島できごと事典 その82《文化露寇》渡辺幸重

日本側が記録したレザノフの船と部下(Wikipedia)

 元寇や倭寇のように「外から侵入して害を加える賊」を“寇”と言いますが、「文化露寇(ぶんかろこう)」をご存知ですか。ロシア帝国軍が文化31806)年に樺太(現サハリン)を、翌年に択捉島(えとろふとう)などを攻撃した事件のことです。日本列島周辺に欧米列強の船が現れるようになり、国内に緊張が高まる時代にロシアとの間で何があったのでしょうか。この事件はロシア側では「フヴォストフ事件」と呼ばれています。

 文化露寇すなわち「文化年間のロシアの侵攻」を和暦で推移を見てみます。まず、文化3年9月(180610月)、樺太南部の久春古丹(くしゅんこたん)にロシア兵20数人が上陸し、アイヌの子供など数人を拉致し略奪や焼き討ちを行いました。久春古丹は江戸時代、松前藩の穴陣屋や運上屋(会所)があったところで、北前船も寄港する交易の拠点でした。江戸時代後期から幕末にかけてたびたびロシア人の襲撃を受けたところのようです。

 次に文化4年4月(1807年5月)、ロシア海軍士官らが択捉島、礼文島、樺太(留多加)などを襲撃しました。択捉島にはロシア船二隻が現れ、盛岡藩の番屋を襲撃、番人5人を捕え、米や塩などを略奪しました。圧倒的な火力の差に幕府側は撤退を余儀なくされ、敗戦の責任をとって指揮官が自害しています。ロシア船が5月3日に択捉島を去るまでロシア兵はたびたび上陸し、略奪や破壊・放火を繰り返しました。

 文化露寇はロシア帝国が日本に派遣した外交使節、ニコライ・レザノフが部下に命じたものでした。実は事件に先立つ1792(寛政4)年、ロシア最初の遣日使節、アダム・ラクスマンが根室に来航して日本との通商を要求した際、江戸幕府は交渉に応じなかったもののラクスマンに長崎への入港許可証(信牌)を交付しました。レザノフはこれを持って1804(文化元)年、長崎に半年間ほど滞在して通商を求めましたが、拒絶されたあげく病気になり、療養中にも幽囚同様の扱いを受けたといいます。レザノフは武力によって開国を迫るしかないと思うようになり文化露寇に至りますが、報復の意思もあったようです。これらの軍事行動はロシア皇帝の許可を得ておらず、ロシア皇帝は1808(文化5)年に全軍撤退を命令、1813(文化10)年にはイルクーツク県知事、オホーツク長官から謝罪の釈明書が松前奉行に提出され、事件は解決しました。

 文化露寇の際のロシア側の戦利品がいまでもサンクトペテルブルクの人類学・民俗学博物館に収蔵されており、キリシタン大名・大友宗麟の印章付きのフランキ砲などがあるそうです。

連載コラム・日本の島できごと事典 その81《九十九島》渡辺幸重

九十九島の島数の数え方(「九十九島パールシーリゾート」サイトより)

 瀬戸内海や松島湾などは多島海と呼ばれ、多くの島々が美しい光景を作っています。九州島・北松浦半島西岸のリアス海岸沿いにも多島海が広がり、北の江迎湾から南の佐世保湾口まで約25kmにわたって大小の島嶼群が美しい姿を競って浮かんでいます。この多島美は約4,000万年前~約1,500万年前の第三紀層の丘陵地が沈水してできたものといわれ、「九十九島(くじゅうくしま)」と呼ばれて観光地となっています。かつては九十九島湾内の南九十九島のみを指し、「つくもじま」と呼んだようですが、名称は島の数が99だったからというわけではないようです。第二次世界大戦後になって北部の北九十九島を含めて九十九島と総称するようになりました。では、島の数は何島になったのでしょうか。

 海上保安庁は「最高潮位面における海岸線が0.1km以上」の海に囲まれた陸地を地図上で数えて日本には北海道島・本州島・四国島・九州島・沖縄島を含めて6,852(北方4島を除く)の島があるとしていますが、これは一つの基準で、島の定義ではありません。佐世保市は「九十九島は208の島で構成される」としていますが、これは島の基準を<「満潮時に陸地が海面から出ている」かつ「陸の植物が生えている」>として「九十九島の数調査研究会」が現地調査を行い、2001(平成13)年に発表した数になります。しかし、その4年後に「九十九島シーカヤッククラブ」が調査したところ島は212あったといいます。さらに、2015年にカヤック歴20年以上の澤恵二さん(佐世保市在住)が調べたところ、新たに12の島を発見し、植物が枯れるなどして条件を満たさなくなった島を4つ確認したとして自費出版の『西海国立公園九十九島全島図鑑』で島の数を216島と発表しました。

 佐世保市によると、九十九島周辺は干満の差が大きいので大潮の満潮時には島の一部が水没して二つに分かれることがあるということです。また、鳥や風によって種子が運ばれて植物がないとされた島に植物が新たに育つこともあるので、調査の時期によって数は変動する可能性があるといいます。島の定義がはっきりしないなかで島の数を特定するのはけっこう難しいことなのです。

 なお、同じ長崎県に島原湾に浮かぶ「九十九島(つくもじま)」があります。ここでは波の浸食によって島の数はかつての59島から16島に減少しました。

連載コラム・日本の島できごと事典 その80《神功皇后》渡辺幸重

対馬にある神功皇后の腹冷やし石(ブログ「対馬びっくり箱」より)

2世紀後半から3世紀にかけて仲哀(ちゅうあい)天皇とその后である神功(じんぐう)皇后がいたそうです。仲哀天皇は有名な日本武尊(やまとたけるのみこと)の子にあたりますが、ここでは天皇の死後に国を治めたという神功皇后の話をします。

 『古事記』『日本書紀』によると、神功皇后は新羅(しらぎ)征討の託宣が出たため、自ら兵を率いて朝鮮半島を攻め、新羅の国を降伏させました。これを「新羅征討」「新羅討伐」「神功皇后の外征」などといいます。新羅のほか『古事記』では百済(くだら)、『日本書紀』では百済・高句麗(こうくり)も朝貢を約したといい、朝鮮半島の広い地域(三韓)を服属下においたので「三韓征伐」とも呼ばれます。ただし、その範囲は高句麗を除く朝鮮半島南部(馬韓・弁韓・辰韓)に留まるという説もあります。
神功皇后の朝鮮半島出兵にまつわる伝承は西日本各地に伝わっており、神功皇后に関連する神社や地名などは山口・福岡・佐賀・長崎・大分・宮崎の6県だけでも3,000カ所に及ぶといわれます。神功皇后が福岡から壱岐・対馬を経て朝鮮半島を攻めたとき妊娠していたといい、出産を遅らせるためにお腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、お腹を冷やしました。現在の博多駅の南東に当たる宇美町(うみまち)は帰国後の皇后がのちの応神天皇を産んだところ、志免町(しめまち)は“おしめ”を換えたところといわれています。

 壱岐・対馬には神功皇后ゆかりの地名や行事、施設がたくさんあります。対馬には、皇后が休んだ腰掛石や腹冷やし石といわれる高さ約1mの「白石」があり、朝鮮半島からの帰途、天神地祇(天つ神・国つ神)を祀った厳原八幡宮神社もあります。地名では、雷浦は皇后一行が雷雨に遭ったところ、綱掛崎はそのとき船を岸につないだところです。鶏が鳴いて皇后に集落があることを知らせたという「鶏知(けち)」という地名もあります。

 壱岐島には、八幡神社に鎮懐石が、爾自(にじ)神社に追い風祈願の折りに石が割れて東風が吹き始めたという東風石(こちいし)があり、そのときの行宮(あんぐう)が起源とされる聖母宮(しょうもぐう)や凱旋の際に住吉三神を祀った住吉神社があります。「勝本(かつもと)」という地名は、行きにはいい風が吹いたので「風本」としたものを帰りに勝利を祝して改めたと伝えられます。また、島内の湯ノ本温泉では応神天皇を出産した際に産湯を使ったとされています。

 第二次世界大戦後、神功皇后の話は神話の世界で皇后は実在しなかったという説が主流になりました。しかし、伝承の多さから実在したとみる研究者もいます。応神天皇の出産地も宇美、壱岐のほかに天草下島の南東に位置する無人島「産島(うぶしま)」があり、産島八幡宮の池の水を産湯としたと伝えられます。佐賀県唐津市の加唐島には着帯式(帯祝い)を挙げた「オビヤの浦」という地名があり、神集島(かしわじま)は神功皇后が神々を集めて軍議を行った地とされます。長崎市の神楽島(かぐらじま)では神功皇后が朝鮮半島からの帰りに神楽を奉納したそうです。皇后が実在したかどうかはともかく、ゆかりの地は現実に広く存在しています。