Lapiz2021夏号 Vol.38《巻頭言》Lapiz編集長 井上脩身

浦島充佳著『新型コロナ データで迫るその姿』(化学同人)の表紙

感染症や疫学が専門の医師、浦島充佳さんの近著、『新型コロナ データで迫るその姿』(化学同人)を読んでいて、懐かしい言葉に出合いました。「ネアンデルタール人」。中学生のころ、旧人類の一つとして習ったように記憶しています。現在は旧人に分類されているそうです。そのネアンデルタール人のもつ遺伝子が新型コロナの重症化と強い相関があると浦島さんはいいます。ネアンデルタール人は3、4万年前に絶滅したとされています。ところがその遺伝子が21世紀の感染症と大いに関係ある、と語るのがほかならぬ浦島という名字の研究者ですから不思議な因縁をおぼえます。コロナ問題は人類が古代から抱えていたのかもしれません。 “Lapiz2021夏号 Vol.38《巻頭言》Lapiz編集長 井上脩身” の続きを読む

Lapizとは

パレスチナの少女

Lapizはスペイン語で鉛筆の意味
(ラピス)
地球上には、一本の鉛筆すら手にすることができない子どもが大勢いる。
貧困、紛争や戦乱、迫害などによって学ぶ機会を奪われた子どもたち。
鉛筆を持てば、宝物のように大事にし、字を覚え、絵をかくだろう。
世界中の子どたちに笑顔を。
Lapizにはそんな思いが込められている。

連載コラム・日本の島できごと事典 その26《猫神様》渡辺幸重

猫神社・宮城県石巻市

私が子どもの頃見た時代劇映画にはよく“猫の妖怪”が登場し、猫が美女に化けて屋敷に入り込み、夜な夜な行灯の油をなめるシーンがありました。猫には魔力があると教えられ、行灯に映る猫の影に怯えたものです。現代ではペットとして人間を癒やすために貢献しているようで、私の中でもすっかりイメージが変わりました。
“家猫(飼い猫)”“野良猫”“地域猫”という区別をご存知でしょうか。ある地域の住人が餌をやり、共同で面倒をみる猫を地域猫といいます。東京の谷中は有名ですが、日本には地域猫が多く住む“猫の島”がたくさんあります。ちょっと挙げるだけで、牡鹿諸島の田代島(たしろじま)、湘南の江の島、琵琶湖の沖島、瀬戸内海の真鍋島・青島・佐柳島(さなぎしま)・祝島、玄海諸島の加唐島、天草諸島の湯島、と次々に出てきます。猫好きな方は近くの島を調べてみてください。
その代表が宮城県石巻市の田代島です。なんといってもここには猫神社があり、祭神として猫神様(美與利大明神)が祀られています。猫の天敵である犬は飼ってはいけないといわれるほど徹底しているのです。
田代島ではかつて養蚕が行われ、カイコの天敵であるネズミを駆除してくれる猫が大事に飼われていたようです。そのうち、大型定置網(大謀網)によるマグロ漁が盛んになり、島内の番屋に寝泊まりする漁師と餌を求めて集まる猫が仲良くなりました。漁師は猫の動作から天候や漁模様を予測したそうです。“持ちつ持たれつ”のいい関係ですね。ある日、網を設置するための重しの岩が崩れて猫が死ぬ事故がありました。網元がねんごろに猫を葬ったところ、大漁が続き、海難事故もなくなりました。そこでその猫を猫神様として祀ったそうです。田代島には別の伝説もあって、いたずら好きの山猫が魚を盗んだり人間に危害を加えたり化かしたので、それを鎮めるために猫を祀ったともいいます。こちらの方は“猫の妖怪”のイメージに近く、祟りを恐れて祀る形になります。
東日本大震災のあと「田代島にゃんこ・ザ・プロジェクト」の取り組みが起き、全国の多くの愛猫家からカキ養殖再生のための募金が寄せられ、オリジナル猫グッズなどが謝礼として贈られました。また、ドイツの獣医師・クレス聖美さんは被災後の猫を心配して2ヶ月おきに来島し、ボランティア診療を続けました。震災後の動きは猫神様が島の守り神であることを証明しました。島の平和はこれからも長く続きそうです。

連載コラム・日本の島できごと事典 その25《日本人初の世界一周》渡辺幸重

日本人で初めて世界一周をしたのは絶景の松島湾に浮かぶ宮戸島の儀兵衛、多十郎(太十郎)、寒風沢島(さぶさわじま)の津太夫と佐平の4人で、200年以上前の江戸時代のことです。彼らは、北はベーリング海、南は南極近くまで旅をし、ユーラシア大陸を横断し、大西洋と太平洋を渡りました。11年かかりました。この歴史を知っている人は少ないと思うので、紹介します。
4人は仙台藩の船・若宮丸の乗組員で、儀兵衛は賄い、他の3人は水主(かこ)でした。彼らを含む16人が乗り込んだ若宮丸は1793年(寛政5年)11月、米と材木を積んで石巻から江戸に向かう途中、暴風雨に遭い、北太平洋のアリューシャン列島の小島に漂着しました。一行はシベリアのイルクーツクに移され、そこで7年間暮らしたあと漂流10年後にロシアの首都サンクトペテルブルクで死亡や病気以外の10人が皇帝に謁見し、帰国を希望した4人がロシア初の世界周航船・ナジェージュダ号でクロンシュタット港から日本に向かいました。それから1年2カ月かけて地球を回り、1804年(文化元年)9月に長崎港伊王崎に到着しました。1804年というのはナポレオンが国民投票で皇帝になり、ナポレオン1世が誕生した年です。4人が乗った船はコペンハーゲン、イギリス、スペイン領アフリカ、ブラジル、南太平洋・マルケサス諸島、カムチャッカ半島に寄港しています。鎖国中の日本に帰国した4人は3カ月以上幽閉されたあと仙台藩に渡され、故郷に帰ることができました。途中、江戸で受けた藩の取り調べをまとめたのが蘭学者・大槻玄沢の『環海異聞』です。これにより私たちは、北海で英仏戦争中の英国船から砲撃を受け、南アメリカ最南端のホーン岬で強風に遇って南極近くまで流され、マルケサスで全身に入れ墨をした現地人と遭遇した、などの4人の体験を知ることができます。いまでも宮戸島には多十郎の墓碑、儀兵衛・多十郎オロシヤ漂流記念碑、儀兵衛の供養碑があり、島の東松島縄文村歴史資料館では多十郎がロシア皇帝から下賜されたという上着などを見ることができます。
ロシアが4人を送り届けた目的は日本との交易にありました。ところが、幕府の対応が礼を欠くものであったため日露が緊張関係になり、お互いの拿捕合戦につながったそうです。ロシアに残った乗組員の一人、善六はキセリョフ善六の名前で通訳や日本語教師を務め、露日辞書を作りました。1813年(文化10年)に函館で行われたゴローニン事件解決のための日露交渉の場にロシア側通訳として出席しています。江戸時代にはロシアに留まった日本人漂流民が何人もいたそうです。鎖国しても海は世界を結ぶということを知りました。