1609(慶長14)年、薩摩藩は徳川家康の許しを得て琉球に侵攻し、沖縄全域を半植民地として支配しましたが、琉球国に属していた奄美群島は分割して直接支配しました。財政が厳しかった薩摩藩は奄美にサトウキビの単作を強制し、年貢として黒糖を取り立て、搾取を強めていきました。1830年からは黒糖を藩が買い入れる制度を作り、島民同士の売買を禁止、売買する者は死罪となったそうです。奄美で島民の唯一の食料であったサツマイモの畑もほとんどサトウキビ畑に転換され、人々は過酷な労働のもとで日常の食料にも事欠くようになり、奄美大島・徳之島・喜界島での困窮状況は「黒糖地獄」と呼ばれました。そのなかで豪農のユカリッチュ(由緒人)・一般農民のジブンチュ(自分人)・農奴身分のヤンチュ(家人)という三階層の身分分解が進みました。ユカリッチュは数人から数百人のヤンチュを抱え、自己の私有財産として売買もしました。『大奄美史』(曙夢著、1949年)は「これが即ち謂ふところの『家人』制度で、ロシヤの農奴制にも劣らない一種の奴隷制度であった」としています。明治政府は、1873(明治4)年に膝素立解放令(家人解放令)、翌年に人身売買禁止令を出しますが、解放されたのは当時1万人以上とみられる家人のなかの千人足らずだったと『大奄美史』は指摘しており、明治末年までこの制度が続いたようです。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その27《家人(やんちゅ)制度》渡辺幸重” の続きを読む
編集長が行く《コロナ禍のなかのオリンピック 下》Lapiz編集長 井上脩身
昨日からの続き
選手と同じ高さで観戦
阪神-ヤクルト戦での私たちの観戦位置からは選手を上からながめることになる。ボールを追う彼らの表情を自分の目ではとらえられない。それはやむを得ないことだが、私は甲子園球場で選手と同じ目線で試合を見る幸運に恵まれたことがある。
1999年の選抜高校野球大会であった。当時の甲子園球場のネット裏スタンド下に、アナウンス室があった。その隣が主催者席と審判団席である。グラウンドより50センチ高いだけで、いわば捕手とほぼ同じ目の高さで試合を見ることができるという、驚くほどの特等席だ。
私は主催新聞社にいたので、開会式の日に行われた沖縄尚学-比叡山戦を特等席から観戦した。七回、スクイズで沖縄尚学の三塁走者がホームをつく。キャッチャーがミットをつき出す。走者はタッチをよけようとする。アウトのタイミングだ。私の目には今も捕手のグローブが鮮明である。アンパイアがセーフの判定。これが運命の分かれ道になった。
沖縄尚学は1-0で比叡山を降すと、勢いにのって決勝戦まで進出。水戸商業に2点を先行されたが中盤に逆転、5-2で七回の攻撃を迎えた。沖縄尚学が勝てば、春夏を通じて沖縄県勢初の甲子園制覇である。その歴史的瞬間を目の当たりにしようと、私はアルプススタンドに走った。ホームランまで飛び出し、7-2と勝負は決定的に。応援席は指笛が吹き鳴らされるなど大騒ぎ。隣の男性が私の肩を抱いて「優勝や」と泣いている。おそらく大阪・大正区に住む沖縄出身者であろう。優勝が決まった瞬間、私はこの男性の手を握って祝った。
このときから、トップレベルの試合をグランドと同じ面で見たいと思うようになった。テレビで東大阪花園ラグビー場での試合を見ていて、デッドボールラインの外には高い観覧席がないことに気づいた。そこからなら選手と同じレベルで試合を見ることができるのでないか。そう考えて2015年12月、同ラグビー場で行われた大学選手権の試合を見にいった。はたしてデッドボールラインと観覧席の間には高さ70センチくらいの生け垣で仕切られているだけだ。同志社大-筑波大の試合が行われていた。
同志社は22-36で敗れたが、ウイングの選手が相手ディフェンスのすき間をついてトライをしたときの表情が忘れられない。スタンドに目をやり、りりしい顔をほころばせたのだ。グラウンドから見ればスタンドは高さ2・5メートルの壁の上だ。コンクリート壁は人を阻む冷たさがにじむ。だが、その壁を感じさせないホッとさせる空気が選手とスタンドの間を流れていた。
車イス選手に称賛の拍手
2016年4月30日、鳥取市の陸上競技場で行われたリオパラリンピック代表選考を兼ねたパラ陸上競技大会に私は足を運んだ。同大会が大阪以外で開かれるのは初めてといい、「障がい者スポーツに関心をもってほしい」と手をあげた鳥取県の意気に共感し、観戦しようと思ったのだ。
義足をつけているとは信じがたいほど軽快に走る選手、走り幅跳び競技で砂を勢いよくまきあげる選手、片腕だけでヤリを遠くまで投げる選手、そして車イスを巧みに操ってゴールに駆け込む選手――私には何もかもが新鮮であった。リオ大会の代表の座を射止めた選手たちの晴れ晴れとした表情に、私まで心が晴れるおもいであった。
同県は人口が約57万人と全国で最も少ない。観覧席もメーンスタンドが使われただけで、私の目分量では観衆は2000人程度であった。しかし、選手たちは送られる拍手に、両手をあげて応えていた。なかでも私が感動をおぼえたのは女子車イスのレースに出た一人の選手だった。年齢は40歳前後であろう。100メートルであったか200メートルであったか、レースの種目は記憶がない。彼女は他の選手から大きく引き離され、えっちらほっちらという感じで車輪をまわす。そしてゴールをするとスタンドの方に目をやり、満足そうに微笑んだ。「ようやった」「えらいぞ~ぉ」。あちこちから称賛の声がとび、スタンドは明るい笑いにつつまれた。
彼女はリオパラリンピックに毛頭縁がない。だが、間違いなく、彼女と観衆との間に言い表せない心の通い合いがあった。私から見れば彼女こそこの大会の主役だったのである。
ただのメダル争奪戦か
今年4月28日、政府、大会組織委員会、東京都、国際オリンピック委員会(IOC)、国際パラリンピック委員会(IPC)の5者協議で、東京オリンピック、パラリンピックの国内観客について、6月に結論を先送りすることで合意。組織委の橋本聖子会長は記者会見で「ギリギリの判断として無観客という覚悟をもっている」と述べた。
すでに海外からの観客を受け入れないことは決定されている。5月に入っても大阪府、兵庫県では医療崩壊状態が収まっていないうえ、東京都をはじめ全国的に医療現場では逼迫しており、オリンピックを開くとしても無観客は避けられない見通しだ。では、スタンドを空にしてまで大会を開く意味はどこにあるのだろう。
白血病と闘って復活してきた池江璃花選手の水泳を見たい、と多くの人はおもう。彼女のことだからメダルをとれるのでは、と夢を膨らます人もいる。池江選手自身、次回のパリ大会で大きく花を開かせるためにも、東京オリンピックは是が非でも出場したいだろう。
だが、オリンピックは単なる競技会ではない。「平和の祭典」といわれるように、近代の人類が考え出した世界規模のお祭りなのである。岸和田だんじり祭りは、だんじり(地車)の屋根の上で繰り広げられるスリルあふれる演技が最大の見せ物だ。だが誰一人見る人がいなければ、演芸大会になり得ても、お祭りとはいえない。いうならば、食べる人がいないのに料理を作るようなものだ。料理人が腕を振るい、食べる人が「おいしい」と喜ぶことで食文化は成り立つ。スポーツもアスリートの奮闘と観客の感動があってはじめて文化として成立するのだ。そこにさまざまな味つけが施されて祭りになる。無観客では、お祭りどころか、文化的要素の欠いたメダル争奪戦でしかない。
ウソで始まりウソで終わる?
コロナ禍で自粛暮らしがつづくなか、女子駅伝写真の選手たちを見ると、しおれかった心が水を得て生き返る心地がする。彼女たちは今、27~28歳であろう。マラソンや長距離走の代表選手にはなれなかったようだ。陸上は続けているのだろうか。引退してお母さんになっている人がいるかもしれない。もちろん私は彼女たちと何のつながりもない。だが、テレビ画面でしか知らないシドニーオリンピックのゴールドメダリスト、高橋尚子さんよりはるかに親近感をおぼえるのだ。
札幌で行われたテスト大会では、無観客のはずなのに、見物客で密になった所もあることが問題になっていた。これでは本番が思いやられるというのである。何とも奇妙な話だ。無観客が徹底できなかったのが問題なのではなく、無観客にしてまで開催することが問題なのではないのか。と誰も思はないのであれば、その方がさらに問題なのかもしれない。
考えてみれば、安倍晋三前首相が原発事故の後始末について「アンダーコントロール」とウソを言って誘致したことから東京五輪話は始まった。昨年3月24日、1年延期が決まったとき、安倍氏は「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証しとして完全な形で開く」と述べた。仮に開催するとなれば「打ち勝った証し」もウソになる。そもそも真夏の東京で開くこと事態が間違いと指摘された2020東京オリンピック。ウソで始まりウソで終わるのであろうか。(完)
編集長が行く《コロナ禍のなかのオリンピック 上》Lapiz編集長 井上脩身
――無観客でも開くという邪道――
私は自宅の壁に、額にいれた一枚の写真をかけている。2011年12月25日、京都で行われた全国高校駅伝競走大会での女子選手を沿道から撮った一点だ。選手の、うちからみなぎる力を感じるこの写真は私のお気に入りなのだ。オリンピックマラソンコースでテスト大会を兼ねて札幌チャレンジハーフマラソンが無観客で行われた5月5日も、いつもの朝のようにこの写真の前でテレビ体操をした。写真には観客が写っていないが、沿道は観衆の熱気に包まれていた。かりにオリンピック、パラリンピックが無観客で行われるならば、大会としての意味をなすのであろうか。そもそもオリンピックとは何なのだろう。スポーツ観戦が好きな私であるが、コロナ禍のなか、「何としてでも開催する」というIOCや政府の姿勢に素朴な疑問をおぼえた。
ケニア留学生の高校駅伝
私が住む兵庫県では1月13日に2回目の緊急事態宣言が発令され、2月28日に解除された後、一時、まん延防止等重点措置実施地域に指定、4月25日、3回目の緊急事態宣言が発令された。行動自粛が求められるなか、私に与えられた「編集長が行く」企画をどうするか、頭を悩ました。冒頭に述べた女子駅伝写真はLapizの編集長を引き受けて1カ月後に撮影したものだ。「編集長が行く」企画の写真になり得る、とひらめいた。
この駅伝大会にはいささかの思い出がある。
私は高校生の書道大会の開催事業にかかわったことがある。2002年、ケニアから陸上選手として仙台育英高校に留学していたサムエル・ワンジルさんが「国際高校生選抜書展」で大賞を受賞。その彼が同校のエースとして駅伝大会の1区に出場することになり、私は写真を撮りに行ったのだ。京都市北区の烏丸紫明付近で待ち構えていると、ワンジル選手はトップを独走、区間賞を獲得した。彼が2年後の3年生のときに3区でだした22分40秒は今なお区間最記録である。
ワンジル選手は2007年の福岡国際マラソンで優勝し、ケニア代表として2008年の北京マラソンに出場。レース用シューズをケニアに忘れ、しかたなく練習用シューズで試合に臨んだが、2時間6分32秒という五輪新記録で金メダルに輝いた。ケニアのヒーローとして脚光を浴びたが、2011年5月、ケニアの自宅バルコニーから転落して死亡。後頭部に殴打痕があることから他殺の疑いがもたれた。
私は彼の死を新聞報道で知って、烏丸紫明のカーブを、まるでNHKの取材バイクを従えるように颯爽と走る姿を思い浮かべた。沿道からは大きな歓声とためいき、そして拍手。彼は観衆が発する感動の息吹の中であればこそ、その韋駄天ぶりが光輝いたのだ。北京でも晴れやかな光芒のなかを走ったはずだ。その栄光からの暗転に思いをはせていて、1964年の東京オリンピックでの一コマが蘇った。
アベベ選手と円谷選手
1964年の東京オリンピックが開幕する1カ月近く前、友人に「陸上競技の入場券が2枚あるから」と誘われ、私は国立競技場でオリンピックを見ることができるという幸運にワクワクした。ところが約束の10月21日、いくら待っても会うはずの場所に彼はやってこない。あきらめて競技場近くをうろうろしていると、広い道路の歩道に大変な人垣ができていた。もうすぐマラソンランナーがもどってくるというのだ。
20分ほど待っていると一人の黒人選手がダントツで走ってきた。エチオピアのアベベ選手だ。
アベベ選手は東京の前のローマ大会で裸足で走り、金メダルをとった。たまたまシューズが壊れ、現地で合う靴がなかったため裸足で走ったと後に伝えられが、エチオピアでは裸足で走っていたらしい。「裸足のアベベ」は彼のトレードマークになっていた。
私は彼の足に視線を向けた。白色のシューズを履いている。その白が秋の日を受けて鮮やかに私の目に映った。だれかが「靴で走ってる」と驚いた声が今も耳の奥に残る。アベベについての私の記憶はその靴だけだ。彼が何色のシャツやパンツであったかは全く覚えていない。いや、よく見ていなかったのかもしれない。
アベベからかなり遅れて円谷幸吉選手がやってきた。あごを上げ、苦しそうに体を揺らしながら必死に走っている。素人目にも限界ぎりぎり。見ている方も胸が裂かれそうな思いになる。「ガンバレ、つぶらや」。悲痛な声援を耳に受け入れる余裕はなかっただろう。彼はイギリスの選手にデッドヒートのすえ、ゴール寸前に追い抜かれた。ということは競技場の外にいた私は知らない。後で銅メダルだったと知った。当然、人は「もうちょっとで銀メダルだったのに」と残念がる。しかし、私は「死ぬ思いでゴールにたどりついたのだ」とおもった。
円谷選手はその後、持病の腰痛が悪化、脊椎版ヘルニアの手術を受けたが復調できず、1968年、自ら命を絶った。アベベ選手は3連覇を目指して次のメキシコ大会に出場したが途中棄権。半年後、アジスアベバ郊外で自動車事故を起こし半身不随に。ミュンヘン大会にはゴールドメダリストとして招かれたが、1年後、脳内出血で死亡した。
ワンジル選手、アベベ選手、そして円谷選手。私はたまたま沿道から彼らを目にしただけに、その早すぎる死にやるせない思いがつのる。なぜ彼らは死なねばならなかったのか。世界のトップランナーとは真逆の、平凡な人生をたどってきた私に解けるはずはないが、他人事ではない気がするのだ。
沿道がにぎやかな箱根駅伝
沿道での観戦といえば、箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)にまさるにぎやかな大会はないであろう。私は2017年1月2日、3区から4区につなぐ平塚中継所の近くで観戦した。
ランナーが到着する1時間以上前から、駅伝コースである国道1号の歩道はぎっしりと人でつまっていた。私は花水川にかかる橋のたもとに、人垣をかきわけて陣取った。取材ヘリがトップを行く選手の上空を飛んでいるので、選手の現在地の見当はつく。観衆は配られた主催新聞社の小旗を手に、かたずをのんで待ちかまえる。
冬とは思えないほど穏やかな日和であった。海は目の前である。マリンスポーツのメッカである相模湾のビーチから、かすかに潮の香が漂ってくる。加山雄三の「若大将シリーズ」の場面を思い描いていると、トップのランナーが姿を見せた。予想通り青山学院の選手だ。小旗が激しく振られる。青学の卒業生と思しき中年の女性が「アオガク、アオガク」と金切り声をあげている。女性は選手を追おうとしたが、歩道は満員電車なみにギューギュー詰めなので身動きできない。最終ランナーが目の前を走り抜けたころ、取材ヘリは旧東海道の名残である大磯の松並木の上空辺りを飛んでいた。
このときも私は写真を撮るのが目的だった。純粋に声援目的という意味では、2014年4月の阪神甲子園球場での観戦が懐かしい。私は根っからのタイガースファンである。趣味の川柳の仲間に誘われてヤクルト戦を、小型バットをかたどったカンフーバットなどの応援グッズを手にアルプススタンドの中段から声援。点の取り合いになり、手に汗をにった。ラッキーセブンには風船を思いきり飛ばすなど、私たちは大いに発散したものだ。(明日に続く)
神宿る。《大原神社のケヤキ》片山通夫
京都・美山町から和知町へ向かうと樫原という集落を通る。その集落にはずれに大原神社があり、道沿いにケヤキの大木が鎮座している。樹の高さはさほど高くないが、幹周りは、およそ6mほどの大木で、存在感のある古木の風格を感じる。『京都の自然200選』選定植物に指定。
大野ダムがある集落で、和知側から行けば美山町に入って最初の集落、美山町域内では由良川の最下流に位置する。
古代は「和名抄」に記されている弓削郷に属し、中世は野々村庄の地。
樫原村は、江戸期~明治22年の村。大野10ヵ村の1。園部藩領。明治4年園部県を経て京都府桑田郡、同12年北桑田郡に所属。同22年大野村の大字となる。
樫原は、明治22年~現在の大字名。はじめ大野村、昭和30年からは美山町の大字。平成18年より南丹市の大字。
当然ながらこの大ケヤキは大原神社のご神木。大原神社のご祭神は伊弉冉尊。古伝によると孝徳天皇の御代(西暦六四五年)に創立され、霊験顕著にして、その崇敬の範囲は丹波全地域は勿ろん広く近畿圏に渉り大原詣と称して、参詣者は常に跡を断つことなかりしと伝えられている。 参考
しかし筆者が神社を訪れた時は人っ子一人いなかった。まあそんなものだと納得。神社の境内などにある古木はすべからく「ご神木」。当たり前のことだが寺院の古木はそうではない。ただ神仏混合の名残でしめ縄の張られた古木もある。
そこに見える不思議な姿をした大樹は当社ご神木の大欅(京都の自然200選)。本来はこの辺りから当社の境内であったという。わずか30戸ばかりの集落にしては立派な社である。
社伝によると、創祀は孝徳天皇の時代で、丹波六社の一と称するが沿革などは不詳。天田郡大原神社(現三和町)は本社の分霊を勧請したと伝える。祭神は伊奘冉尊。旧郷社。
怒りを込めて振り返れ《中国、日本の台湾ワクチン支援構想に不快感》一之瀬 明
⇒しかしつい最近「台湾パイン」禁輸で台湾を困らせたけど、日本をはじめ各国からのパイン輸入増で事なきを得た台湾相手に、今度は「人の命がかかっている」コロナワクチンでいじわるするという中国。そりゃ誰も聞かんわな。
びえんと《コロナ禍の医療崩壊》Lapiz編集長 井上脩身
~命の危機にさらされる国民~
憲法記念日の5月3日、新聞に意見広告が掲載された。市民の意見30の会・東京による全面広告で「武力で暮らしは守れない!」の大見出しがつけられている。意見は4項目あり、そのうちの「生存権を脅かすな」のなかの「感染症病床が1998年9060床から2020年1869床へと激減」との記述に目が留まった。この意見広告が出たとき、我が国は新型コロナウイルス第4波の渦中にあり、東京都、大阪府、京都府、兵庫県で緊急事態宣言が発令中であった。なかでも大阪府では重症患者が重症病棟のある病院に収容されないという医療崩壊が始まっていた。兵庫県でも入院待ちの感染者が自宅で死亡するなど深刻な事態に陥り、東京都でも医療逼迫が差し迫っていた。欧米に比べ感染者が桁違いに少ない日本での医療後発国現象である。その原因が、意見広告がいうように感染所病床の減少であるならば、病床削減政策をとった政治責任は重大である。 “びえんと《コロナ禍の医療崩壊》Lapiz編集長 井上脩身” の続きを読む
Lapizからのお知らせ。
読者の皆様へ。
Lapizは609sutudioのサイトで記事の紹介をさせていただき、より多くの方々に読んでいただけるようにリンクをはって紹介いたします。ご了承ください。
徒然の章《花見三昧》中務敦行
コロナ2年の春は駆け足でやってきた。私は日頃頼まれている写真クラブや教室の撮影会も例会、写真展もほとんど中止、昨年以上のようだ。月に半分以上あった予定はほとんどがキャンセル。予定表に残ったのは病院の予約だけという有様。同窓会などの飲み会も平均月一回はあるのだが、これもゼロ。
今年は花も早く咲き、三月からサクラの満開の名所がいっぱい。この春はいっぱい花見をしてやろうとあちこち駆け回った。最近は早咲きで有名な伊豆の名花「河津ザクラ」も2月の終わり頃から咲き始め、京都競馬場近くの川沿いには並木が見事に生長して3月7日には満開だった。
奈良・東吉野村にある高見の郷は山林の杉やヒノキを切り出したあとに、しだれ桜千本を植えたもので、今は見事な花の名所になっている。オーナーが林業に見切りをつけ、植樹した木が大きく育ち桜の名所になったのだ。
日本中、桜の名所だらけだがこれらはほんの一部。コロナの年ならではの人出の少ない花見を楽しんだ。サクラのあともシャクナゲ、ツツジ、カキツバタ・・と楽しんでいる。
怒りを込めて振り返れ《追加質問はお控えください》一之瀬 明
質問の答えに対する再質問など、当たり前のことだった。安倍前政権がこの当たり前を壊した。いや、もっと以前からあったかもしれないが、「馬鹿な男には答えられない事情」がある。どんな事情かって? 質問の意味も分からんからルビを振った原稿を読むだけ・・・。記者まで「忖度の文化」に染まってる。まさか記者まで???
予告」怒りを込めて振り返れ:一之瀬 明
プチコラム「怒りを込めて振りかえれ」始めます。
オズボーンの戯曲「怒りの込めて振り返れ」は「Look Back in Anger」の日本語訳。
⇒大学を卒業した後に駄菓子屋を営む主人公。社会に対する激しい不満を描き、1950年代の英国文学における「怒れる若者たち」と呼ばれるムーブメントのきっかけとなった作品。
こんな言葉があるのかどうかはわからないが、プチコラムを今号から始めます。軽くそして時には強く主張してゆきたい。