宿場町・大和街道 上柘植(かみつげ)宿《芭蕉の生まれ故郷説を探る 01》文・写真 井上脩身

芭蕉

 松尾芭蕉の生地は三重県伊賀市上野といわれ、かつて芭蕉ゆかりの地を訪ねたことがある。ところが上野の約12キロ東に位置する同市の上柘植が生地という説があることを最近知った。調べてみると、そこは大和街道上柘植宿があったところだ。大和街道は東海道関宿から奈良に至る道である。芭蕉は何度も伊勢神宮を参拝した後、古里に帰り、さらに大坂方面に向かっている。その際、大和街道を使ったに違いなく、上柘植宿は芭蕉にとって思い出深い宿場であったはずだ。あるいは芭蕉の息吹が感じられるのではないか。秋が深まるなか、上柘植宿を訪ねた。

母想う野ざらし紀行の一句

芭蕉講座 紀行文篇

 上柘植を訪ねる前、『芭蕉講座 紀行文篇』(三省堂)で下調べをした。目次の『甲子吟行』に「長月のはじめ故郷に歸て」という項がある。『甲子吟行』とは初めて知る紀行文だ。ページを繰ると別名『野ざらし紀行』とある。それならば私でも知っている。どういうわけであろう。別名の方が一般的だ。ここでは『野ざらし紀行』を使いたい。

 同書によると、『野ざらし紀行』は芭蕉が41歳の貞享元(1684)年の8月から翌年4月まで旅をした折の紀行文で、江戸に帰ったあと、貞享4年に『鹿島詣』(別名『かしま紀行』)を書きあげる以前に成立したと推定されている。

 旅の同行者は門人の千里(ちり)。大和の国まで同行した。東海道を西に向かい伊勢参宮のあと9月初めに伊賀に帰り、大和に入って千里宅に逗留。ここから一人吉野に向かい、山城、近江、美濃、尾張を回り、再び伊賀に戻る。翌年2月、郷里を出て奈良・京都・大津を訪ねたあと、尾張から木曽路をとって江戸に帰った。この旅では芭蕉が郷里での滞在に重きを置いたことがうかがえる。

 さて「長月のはじめ故郷に歸て」である。芭蕉は次のようにつづっている。

 長月のはじめ故郷に歸て、北堂の萱草も霜がれ果て、跡だになし。何事もむかしにかはりて、はらからの鬚白く、眉皺よりて、只命有てとのみいひてことの葉もなきに、兄の守袋をほどきて、母の白髪おがめよ、浦島が子の玉手箱、汝が眉もやゝ老いたりと、しばらく泣て、

  手にとらば消えん涙ぞあつき秋の霜

  注釈によると、北堂は母の居所。口語訳はおおむね以下のとおりである。

母は既にこの世になく、今はその面影をみることも出来ない。兄(半左衛門)は眉のあたりの皺をよらせ「どうにか命だけあって」とだけ言って、互いに言葉もない。兄は守り袋をほどいて「お母さんの白髪の遺髪を拝みなさい。浦島の玉手箱のように開けてみると、郷里は幾久しい年月がたち、年老いた感も深いだろうよ。お前の顔も大分ふけたな」と言った。

句意は、「母のかたみの白髪を拝すると、悲しみの涙はとめどもなく流れ落ちる。もしその白髪を手に取るならば、自分の熱い涙のために、秋の霜にも比すべき白髪は消え失せるだろう」である。

この句について、同書は「流浪の身には故山の思いはひとしお深いにちがいない。わけても亡き父母の思い出は腸を断つものがあったろう。一種言うことのできない悲痛の感がこの句に込められている」と評している。(明日に続く)