Lapiz22夏号Vol.42 OPINIPN【日本国民は戦争で人を殺し殺されることをやるのか】渡辺幸重

~参院選後に日本は戦時体制に移行する~     「ちきゅう座」より転載

日本は今、戦前と同じように戦争への道を進んでいます。戦前と異なるのはアメリカの世界戦略の中にがっちりと組み込まれていることで、戦争忌避に向けての外交努力は戦前よりもむしろ少なく、平和を求める国の意思はどこにも感じられません。権力をチェックするべきマスコミも野党も牙を抜かれ、国民世論は軍備強化を許す傾向に流れています。7月10日実施の参議院議員選挙は自公政権の勝利が予測されており、選挙後の日本は軍備が強化され、国民は権利を剥奪され、生活と生命が脅かされる戦時体制同様の社会になるでしょう。戦争がいつ起きても不思議ではない状況になるのです。はたして日本国民は自分たちの生存に関わるこのような状況について、いつ議論し、いつ決めたのでしょうか。来たるべき選挙で「戦争反対」の意思を示さなければ声を挙げる機会は奪われてしまうでしょう。私たちは今、人を殺し、人に殺される戦争を目の前にして何をするべきか、しっかりした自覚を持たなければなりません。すべてを決めるのは日本国民なのだから。 “Lapiz22夏号Vol.42 OPINIPN【日本国民は戦争で人を殺し殺されることをやるのか】渡辺幸重” の続きを読む

22年夏号Vol.42 連載コラム・日本の島できごと事典 その65《ウグイス》渡辺幸重

ダイトウウグイス(「日本の野鳥識別図鑑」)

 ウグイスは国内にウグイス、ハシナガウグイス、リュウキュウウグイス、ダイトウウグイスの4種類の亜種が生息しています。亜種のウグイスは北海道から九州まで広く分布し、礼文島や壱岐・対馬、伊豆諸島、屋久島・種子島などでも見られます。ハシナガウグイスは小笠原諸島に分布、リュウキュウウグイスはトカラ列島以南の琉球弧(南西諸島)に生息し、ダイトウウグイスはかつて南大東島・北大東島で目撃されました。

 ダイトウウグイスは、1922(大正11)年に鳥獣標本採集家・折居彪二郎(ひょうじろう)が南大東島で初めて2羽を発見し、捕獲して世に知られるようになりましたが、その後は1984(昭和59)年に北大東島で目撃されたのを最後に記録がなく絶滅したと考えられていました。ところが2001(平成13)年に沖縄島でダイトウウグイスと思われるウグイス群が確認され、その後も奄美群島での目撃情報があったため国立科学博物館が調査したところ、奄美群島の喜界島でオス10羽、メス5羽と巣7個が発見されたのです(2008521日発表)。環境省の2006年鳥類レッドリストでも絶滅とされたダイトウウグイスが蘇ったのです。

 ハシナガウグイスは本州の亜種ウグイスより17年早く記載されているためウグイスの“基亜種”とされており、小笠原群島の父島や西島、火山列島の南硫黄島に生息しています。ちなみに、小笠原諸島は小笠原群島(聟島列島・父島列島・母島列島)、火山列島(硫黄列島)、西ノ島、南鳥島、沖ノ鳥島からなる東京都に所属する島嶼群で、小笠原群島は小笠原諸島の一部になります。ハシナガウグイスの小笠原群島の集団と火山列島の集団は遺伝子タイプが異なることが判明しており、ルーツは同じでも交わることなく別々に変化してきたといえます。

 かつては聟島列島の聟島(むこしま)や火山列島の北硫黄島にもハシナガウグイスが生息していました。西島でも一時期は定着した個体を確認できない時期がありましたが、ノヤギなど外来動物の駆除の結果、定着が確認されるまでに回復しました。外来動物の駆除が西島では間に合い、聟島では間に合わなかったということになります。ハシナガウグイスが20世紀半ばに絶滅したといわれる聟島では近年、本州・伊豆諸島のものと同じ亜種のウグイスが見られるようになりました。 越冬のためと思われますが、聟島では外来動物が駆除されているため、かつてのハシナガウグイスに代わって本州・伊豆諸島と同じ亜種のウグイスが定着する可能性があるといわれています。

写真:ダイトウウグイス(「日本の野鳥識別図鑑」)

https://zukan.com/jbirds/internal14899

22年夏号Vol.42 連載コラム・日本の島できごと事典 その64《豊田音頭》渡辺幸重

豊田音頭を踊る人(「地域文化遺産ポータル」動画より)

120kgもの重い石地蔵を背負って盆踊りをやるなんて、誰が考えつくでしょうか。それが佐渡島の真野(まの)地区豊田では古民謡「豊田音頭(真野音頭)」として伝わっているのです。

かつて佐渡のホテルで豊田音頭を見た「東京やなぎ句会」のメンバーはその姿に感動し、絶賛しました。小沢昭一は柳家小三治との対談で「僕の心の中の、あれを見たときのざわめき、嬉しさ、……あのナンセンス……(笑)何の意味もない中に、思えばどれだけの深い哲学を、その人その人なりに、あそこから汲み取ることができるかっていう、これぞ、深い芸術、芸能っていうものの極致です」と語り、小三治に対して「あん時にあなたが喜んでる姿を右の目で見ながら、僕もおんなしに喜んで感動していたんです」と言っています(東京やなぎ句会編著『佐渡新発見』1993年5月三一書房)。このときは踊りの輪の中を60kgの石地蔵を背負った男が右から左へただ一回だけ通り過ぎたと説明されています。

豊田音頭は、佐渡金山が隆盛を極めていた頃、その道中音頭が元となってできた盆踊り唄で、昔、若くして妻子を亡くした男が、お盆に戻ってくる妻子の身代りに大光寺境内の地蔵を背負って踊ったのが地蔵を背負う始まりと伝えられ、その後若い衆が力自慢に背負うようになったようです。石地蔵の重さは60~100kgで、なかには120kgを超えるものもあるそうです。私が見た「地域文化遺産ポータル」の動画では、音頭を踊る女性たちの輪に交じって大きな石地蔵を背負った2人の男性が同じ盆踊りを踊っていました。また、豊田音頭を継承しようと活動をしている「小波会(さざなみかい)」の動画では踊り手全員が小さな石地蔵を背中に結んでいました。豊田音頭は一時途絶えたものの1978年(昭和53年)に復活し、真野小学校の子供たちも背の2倍にもなろうという大きなハリボテ地蔵を背負って踊ります。

柳家小三治は「まいんち担いでるやつは、普通の顔になっちゃうわけ。だからあれは悲しかった。すばらしかった。で、しかも、もう担いでる自分の姿を想像して、滑稽にすら思ってる、っていう、そういう、辛い悲しい、そういうものを通り過ぎてしまった人の、……態度だね。だから、すばらしい」と言っています。小沢昭一も小三治も妻子を亡くした男の話は聞いていなかったようです。しかし、それを知っても豊田音頭に対する「あの無意味、不条理、不毛、あれは人生だなァ」(小沢昭一)という評価は変わらなかったでしょう。

連載コラム・日本の島できごと事典その63《国宝の島》渡辺幸重

源義経が奉納した鎧(国宝)https://oomishimagu.jp/national-treasure/

 本州と四国を結ぶ三つのルートのうちもっとも東にあるのが広島県と愛媛県を結ぶ「瀬戸内しまなみ海道(西瀬戸自動車道)」です。その中ほどのもっとも大きな島が「国宝の島」「神の島」と呼ばれる大三島(おおみしま)になります。大三島には海・山の守護神として尊崇される大山祇(おおやまづみ)神社があり、国宝や重要文化財を多数収蔵しています。特に、武将たちが戦勝祈願と戦勝のお礼に奉納した鎧(よろい)・兜(かぶと)・刀剣などの武具類は小物類を含めると数万点に上るといわれ、甲冑(かっちゅう)類については全国の国宝・重要文化財の約4割を有しています。

 国宝は8件あり、内訳は鎧4件・大太刀2件・太刀拵1件・禽獣葡萄鏡(きんじゅうぶどうきょう)1件で、「工芸品」として指定されています。鎧には、瀬戸内の合戦で勝利した源義経奉納の「赤絲威鎧(あかいとおどしよろい)」、源頼朝が奉納した「紫綾威鎧」、日本の大鎧としては最古の「沢瀉(おもだか)威鎧」などがあります。義経の鎧は別名「八艘飛びの鎧」とも呼ばれ、平家物語絵巻にも登場します。また、禽獣葡萄鏡は斉明天皇の奉納と伝えられます。大三島には、国指定の文化財が国宝・重要文化財・天然記念物合わせて85件あります。重要文化財は、大山祇神社の本殿と拝殿が「建造物」として、1543年の大三島の戦いで討死(自害)したとされる大祝安用(おおほうりやすもち)の息女・鶴姫の「紺糸素懸威(こんいとすがけおどし)」や木曽義仲の鎧「熏紫韋威胴丸(あいかわおどしかたこししろどうまる)」など68点が「工芸品」として指定されています。また、「大山祇神社のクスノキ群」の1件が国指定天然記念物になっています。

 大三島の文化財の数は資料によって異なるので混乱しますが、今治市教育委員会生涯学習課に確認したのが上記のデータになります。たとえば、「武具では全国の国宝・重要文化財の約8割を収蔵」という数値を複数の資料で見ましたが、今治市教委によると、その根拠は「1919年(大正8年)113日の東京国民新聞に『帝国第一の古物館』と題して寄稿した志賀重昻が『特に兵器類の国宝に至っては日本全国の国宝の八割強を占め云々』と紹介した」ことだそうで、その後1950年(昭和25年)の文化財保護法改正で国宝の区分けが国宝と重要文化財に変更されて再指定があったことや指定文化財の数が増加したため、今では「甲冑類について全国の国宝・重要文化財の約4割を有している」が正しい表記ということでした。国の重要文化財の数も「132件」「76件」「469点」などがありました。それぞれ何らかの根拠があるのかも知れませんが、数字を孫引きするときには十分な注意が必要です。

<沖縄の日本復帰50周年>《「平和で豊かな沖縄の実現に向けた新たな建議書」の意味》渡辺 幸重

今年の5月15日で沖縄は日本復帰50周年を迎えました。この日を前に玉城デニー・沖縄県知事は5月10日、日米両政府に対して「平和で豊かな沖縄の実現に向けた新たな建議書」を手渡しました。内容は、復帰前に沖縄県民が望んだ「沖縄を平和の島とする」ことが実現されていないことから、あらためて「基地のない平和な島」が沖縄県と日本政府の共通の目標であることを確認し、米軍普天間飛行場の速やかな運用停止や名護市辺野古の新基地建設断念、日米地位協定の改定などを求めるものです。では、なぜこれが「新たな建議書」なのでしょうか。実は、50年前にも沖縄から日本政府と国会に向けて建議書が出されているからです。 “<沖縄の日本復帰50周年>《「平和で豊かな沖縄の実現に向けた新たな建議書」の意味》渡辺 幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典その62《青ヶ島還住》渡辺幸重

名主・佐々木次郎太夫の碑(観光情報「観るなび」)https://www.nihon-kankou.or.jp/tokyo/134023/detail/13402af2172051936

 「人はなぜ島に住むのか」は永遠のテーマです。人は災害や疫病、経済的理由などで島を離れても生まれ育った故郷に帰ろうとします。それはなぜでしょうか。それを考えさせる出来事の一つが、伊豆諸島・青ヶ島の〝還住〟の歴史です。

 青ヶ島は八丈島の南約64kmにあります。気象庁が火山活動度ランクCの活火山に指定する二重式カルデラ火山の島で、古くからたびたび噴火(山焼け)を起こしてきました。1785(天明5)年の大噴火では全家屋63戸を焼失し、事前に島を出ていた者を含めて202(他に流人1人)が救出されましたが、救助船に乗れなかった130人余りが島に取り残されて犠牲になりました。

 八丈島に逃れた青ヶ島島民は島の「復興(起し返し)計画」を立て、実行に移しました。まず1793(寛政5)年に強健な男性12人を青ヶ島に送り込むことに成功し、復興事業に取りかかりました。しかし、島では大繁殖したネズミによる被害を受けるなどの苦難が続いた上に八丈島からの支援も思うようにできませんでした。1794(同6)年には3回八丈島から物資を送ろうとしたものの1回しか成功せず、その船も帰路途中で遭難し、乗組員全員死亡という犠牲が出ています。1797(同9)年には名主・三九郎らを乗せた船が暴風にあって紀州(和歌山県)に漂着。乗船者14人のうち名主を含む11人が死亡しました。1799(11)年には三九郎の遺志を継いで穀類を積んで出航した船がまた暴風にあって紀州に漂泊しました。このときは乗組員のうち32人が八丈島に戻っています。結局1795(7)4月に1回成功したあとは八丈島から青ヶ島に渡った船は1艘もなく、青ヶ島で復興にあたっていた7人は1801(享和元)年に八丈島に戻ったのでした。1817(文化14)年、名主になった佐々木次郎太夫が綿密な帰島・復興計画を立ててからは順調に進むようになり、その結果、1824(文政7)年に多くの島民が帰島し、1834(天保5)年には島民全員が故郷の青ヶ島に帰り着くことができました。翌年に検地が実施され、青ヶ島は1785(天明5)年の大惨事から約50年の歳月を経て復興を成し遂げたのです。

 この経緯は近藤富蔵の『八丈実記』に記され、民俗学者・柳田國男は『青ヶ島還住記』として著し、名主・次郎太夫を「青ヶ島のモーゼ」と讃えています。さて、たとえ〝不毛の地〟と言われようとも故郷の島に帰ろうとする心情を私たちは理解できるでしょうか。

写真:名主・佐々木次郎太夫の碑(観光情報「観るなび」)

 

連載コラム・日本の島できごと事典その61《北海道二級町村制》渡辺幸重

1888年建設の北海道庁旧本庁舎(赤れんが庁舎)=2014年9月撮影

 明治の近代化が進み、全国的には1888年(明治21年)に(普通)市制・(普通)町村制が定められ、翌年に施行されましたが、北海道・樺太と沖縄県の全域および伊豆諸島・小笠原諸島、隠岐、対馬、奄美群島・トカラ列島には適用されませんでした。北海道の場合、井上馨内務大臣が自治財政を負担できる町村とできない町村に分けるべきと主張、1897年(明治30年)に勅令によって北海道区制・北海道一級町村制・北海道二級町村制が制定され、1899年(同32年)101日に施行されました。すなわち、この年に札幌・函館・小樽に北海道区制が、翌年には106村に北海道一級町村制が、1902年(同35年)には62町村に北海道二級町村制が実施されたのです。1922年(大正11年)には札幌・函館・小樽・旭川・室蘭・釧路の6区で区制から市制に変わり、1943年(昭和18)年には北海道一級町村・二級町村制が廃止されました。しかし、二級町村はほとんど内容が同じ内務大臣の「指定町村」に変わっただけで、それが第二次世界大戦後の1946年(同21年)まで続きました。人口や資力、将来発展の予測などが町村制の基準になっており、当初は二級町村にも至らないということで旧制度の戸長役場のままのところもあったようです。

 北海道一級町村制・北海道二級町村制は普通町村制に準ずるとされ、一級町村制の指定を受けた町村では町村長・助役を町村会を選挙で選ぶ(北海道庁長官が認可)ことができますが、二級町村制の町村は、町村長は北海道庁長官の任命制で、住民は選ぶことができず、国政選挙に参加する公民権も与えられませんでした。議会も一級町村は条例制定ができますが二級町村の議会はできませんでした。

 ちなみに奥尻島の経過をみると、1869年(明治2年)8月15日に奥尻島全体が「後志国奥尻郡」となり、1879年(明治12年)7月15日に戸長役場が置かれ、1906年(明治39年)4月1日に北海道二級町村制が施行されて戸長役場を奥尻村役場と改称、1943年(昭和18年)に指定町村になったあと、1966年(昭和41年)に現在の「奥尻町」になっています。

 第二次世界大戦前の日本の自治体制度をみると、全国でばらばらに進んでいますが、なぜでしょうか。歴史にはすべて原因があり、経過があります。私たちは歴史を「結果」の羅列として受けとめがちですが、原因まで考えることが現在にも繋がる問題を解決することにつながります。北海道二級町村制にしても、政府は徴兵と納税を目的として制度を整備したのでしょうが、住民の側からみると選挙制度や自治制度などに差別と格差が生じています。いまだに差別や格差が残っていないか歴史から学ぶ気持ちを持ちたいと思います。

連載コラム・日本の島できごと事典その60《島嶼町村制》渡辺幸重

当初、普通町村制が適用されなかった地域

明治維新後、日本政府は急速に近代的な行政組織を整備します。1871年(明治4年)の廃藩置県は有名ですが、市町村レベルでは1878年(明治11年)に郡区町村編制法(地方三新法のひとつ)が制定され、そして現在につながる地方行政改革が1888年(明治21年)の市制・町村制、1890年(明治23年)の府県制・郡制の制定によって行われました。市制・町村制は1889年(明治22年)に施行され、同年中に北海道・香川県・沖縄県を除く44府県(東京は東京府)で、翌年2月には香川県で施行されました。しかし、北海道・沖縄県の全域と東京府・鳥取県・島根県・香川県・長崎県・熊本県・鹿児島県の一部島嶼地域には長い間、この普通市制・普通町村制は適用されませんでした。
隠岐諸島では1904年(明治37年)5月1日に施行された「島根県隠岐国ニ於ケル町村ノ制度ニ関スル件」(明治37年勅令第63号)により町村制に準ずる町村が発足しました。さらに、1908年(同41年)4月1日に「沖縄県及島嶼町村制」(明治40年勅令第46号)が施行され、青ヶ島・八丈小島を除く伊豆諸島、小笠原諸島、対馬、トカラ列島、奄美群島および沖縄県全域が対象とされました。実際に施行された時期は地域の事情によって異なり、伊豆諸島の大島、対馬、上三島・トカラ列島(旧十島村(じゅっとうそん))、奄美群島、沖縄県全域では1908年(同41年)4月1日に施行、同年のうちに伊豆諸島の八丈島で、1923年(大正12年)10月1日に伊豆諸島の利島・新島・神津島・三宅島・御蔵島での施行となりました。1921年(同10年)5月20日になって沖縄県全域が普通町村制に移行して「沖縄県及島嶼町村制」から離脱。その前年に勅令により制度の名称が「島嶼町村制」に変わっています。
島嶼町村制施行により、各地域には普通町村制よりも権限が小さい町村が生まれることになりました。奄美大島には名瀬村・笠利村・龍郷村・大和村(やまとそん)・住用村(すみようそん)・焼内村(やきうちそん)・東方村(ひがしかたそん)・鎮西村(ちんぜいそん)の8村が成立しました。それが現在は奄美市・龍郷町・瀬戸内町・大和村・宇検村(うけんそん)の1市2町2村体制になっています。上三島・トカラ列島は十島村になりましたが、このとき徴兵制は実施されたものの国会議員の選挙権や県議の選挙権・被選挙権などは認められませんでした。
普通町村制への移行は、対馬が1919年(大正8年)4月1日 、奄美群島、上三島・トカラ列島が沖縄県全域と同じ1921年(同10年)5月20日、伊豆諸島は1940年(昭和15年)4月1日に実施されました。ただし、伊豆諸島の青ヶ島、小笠原諸島の父島・母島・硫黄島は島嶼町村制の適用がないまま、伊豆諸島の他の島と同時に普通町村制が施行されました。八丈小島だけは島嶼町村制も普通町村制の適用もなく、第二次世界大戦後の1947年(同22年)10月の地方自治法施行によって宇津木村・鳥打村(とりうちむら)の2村が生まれるまで名主制が続きました。

連載コラム・日本の島できごと事典その59《近藤富蔵》渡辺幸重

『八丈実記』に描かれた流人船

近藤富蔵(1805~87)は、幕末に数回にわたって北海道(蝦夷)・千島方面を探検したことで有名な近藤重蔵の長男で、後半生のほとんどを流人として八丈島で暮らした人です。八丈島での見聞をまとめた膨大な地誌『八丈実記』72巻(清書69巻)は島にある基本的な史料をほとんどあます所なく収録しているとして現代に至るまで高い評価を受けており、柳田國男からは「日本における民俗学者の草分け」と言われました。
富蔵は若い頃は乱暴な性格だったようで、父親の別荘がある江戸三田村の土地の管理を任されたものの境界争いなどで隣家の7人を殺害し(鎗ヶ崎事件)、1827年(文政10年)に伊豆諸島・八丈島に流刑となりました。島では罪を悔いて熱心な仏教徒となり、シラミも殺さなかったと伝えられます。島民の仕事を手伝う傍ら文才を生かして旧家の系図を整え、歴史・伝説を記録したり、英語の入門書を書いたり、寺子屋で読み書きの指導をしたりしました。島の有力者の娘と一緒になり、1男2女をもうけています。1880年(明治13年)に明治政府によって赦免され、53年間の流人生活を終え、島を出て親戚への挨拶回りや墓参、西国巡礼をしたあと、2年後にはまた八丈島に戻って観音堂の堂守として暮らし、1887年(明治20年)に島で83歳の生涯を閉じました。
富蔵は1848年(嘉永元年)春に稿を起し、1855年(安政2年)に資料を主とした『八丈実記拠』28巻を完成させました。続いて1861年(文久元年)に『八丈実記』草稿72巻を書き上げ、さらに翌年にそれを『八丈実記略』1巻にまとめています。これらの著作はその後も絶えず書入れや記事の訂正・加除を行い、命のある限り精力的に島での見聞を筆記し、著作のさらなる完成を目指したようです。『八丈実記』の目次を<一海道、二名義、三地理、四土産、五沿革、六貢税、七船舶、八海嶋>と書き残していますが、実際にはそうなっていないので富蔵にとっては未完のままなのかもしれません。
1887年(明治20年)、富蔵死去後に東京府は借用していた『八丈実記』『八丈実記拠』『八丈実記略』や古文書・記録類など69冊のうち29冊を買い上げ、残り40冊を八丈島地役人に返還しました(東京府の記録に「70冊のうち30冊を買収」との表記も)。東京府はこの29冊を36冊に再編し、『八丈実記』としました。これが、のちに東京都有形文化財に指定されたものです。八丈島・長戸路家蔵の『八丈実記』もあり、その抄録が『日本庶民生活史料集成』一に収載されています。八丈実記刊行会は東京府のものを編成替して1964年から1976年にかけて緑地社から『八丈実記』を7巻本として刊行し、緑地社社長の小林秀雄がその功績により菊池寛賞を受賞しています。
冒頭で<『八丈実記』72巻(清書69巻)>と書きましたが、72巻というのは草稿全体を指しているようです。実際には東京府が返却した40冊の内容もよくわかっておらず、私たちが見ているのは東京府が買い上げた29冊分ということのようです。
図:『八丈実記』に描かれた流人船
(東京都公文書館  https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/01soumu/archives/0701syoko_kara03.htm )

連載コラム・日本の島できごと事典その58《世界5大猫スポット》渡辺幸重

相島の猫・コムギ(中日新聞ブログ「猫さんを探して」より

九州・福岡湾北方の玄界灘に浮かぶ相島(あいのしま)はいわゆる“猫の島”で、アメリカのニュース専門局・CNNが2013年に「世界5大猫スポット」の一つとして紹介して有名になりました。ところが「世界6大猫スポット」という説明も見られるので調べてみました。
CNNのWebサイトのタイトルは“5 places where cats outshine tourist attractions”(猫が観光名所を凌駕する5つの場所)で5ヶ所です。その2番目に“Japan’s cat islands”とあり、宮城県の田代島(たしろじま)と福岡県の相島の2島が挙げられています。「日本の猫島」の代表がこの2島ということかもしれません。ちなみに他の場所は「ローマのラルゴ・アルジェンティーナ広場」「トルコのリゾート地・カルカン」「台湾の侯?(ホウトン)」「米・フロリダ州のヘミングウェイ博物館」です。海外のWebサイトで同じ内容を“6 places where cats outshine tourist attractions”とするものがあるので、田代島と相島を独立させて「世界6大猫スポット」としても間違いではなさそうです。
相島が猫の島として世界的に有名になり、猫目当ての観光客が増えるとネットの書き込みに「猫が痩せていてかわいそう」「目ヤニが出たり病気になっている猫がいる」など猫の環境を問題にする声が増えました。実は、相島の猫は野性の猫として生きており、ケンカで傷だらけになったり、飢えてやせ細ったり、冬を越せなくて死んだりする現象は、自然の猫社会の生存競争の中では普通のことのようなので「かわいそう」という人間の感覚だけで言うのは微妙なところです。評判を気にした新宮町役場は公式ページで「相島の人と猫の共存について、それぞれにとって良い方法を検討しています」とし、「野生の猫」の表記を「飼い主のいない猫」に改めました(2019年7月)。猫の増加も原因の一つなので野良猫の無料不妊手術なども行っています。
さて、相島の猫がテレビ番組の主役になったことがあります。NHK「ダーウィンが来た!」に2016年11月にメスの白猫「ミュウ」、2017年11月にその子どもでオスの茶トラ猫「コムギ」、2019年7月にその姉の女王ネコ「コガネ」が主人公として出演し、ネコの野生動物としての生態が紹介されました。特にコムギは、子殺しさえするオス猫から我が子を守る行動を取り、オス猫は子育てに一切関わらないというそれまでの常識を覆しました。この発見は世界初ではないかと話題になりましたが、“野生猫の島”ならではの出来事と言えるでしょう。