連載コラム・日本の島できごと事典 その75《旧統一教会》渡辺幸重

雑誌『海洋真時代』に掲載された当初の「石巻田代島世界海洋村構想」

安倍元首相銃撃事件をきっかけに政治家と旧統一教会(旧・世界基督教統一神霊協会/現・世界平和統一家庭連合)の関係が問題になっています。旧統一教会は“宗教活動(カルト活動)”だけでなく、政治や経済、言論・報道、学術、ボランティアなどあらゆる分野で活動する団体・企業を作っており、その数は膨大です。教団の目的は、政治家を使って統一教会を日本の国教にしたり、世界各国の政治を動かすことだそうです。日本は霊感商法や高額献金、集団結婚式などで巨額の金を収奪する国とされていることもわかりました。2011年の東日本大震災のときには多くの旧統一教会ボランティアが被災地に入りました。統率がとれ、黙々と働くボランティア高く評価され、被災者の中には「津波で亡くなった夫の霊が霊界で苦しんでいる」と信じ込まされて高額献金を繰り返した人もいるそうです。福島第一原発事故の補償金を献金した被害例もありました。ここでは、旧統一教会関連の企業・団体によって宮城県石巻市の田代島(たしろじま)に復興プロジェクトとして持ち込まれた「海洋レジャー基地による地域起こし」の例を紹介します。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その75《旧統一教会》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その74《寝屋子制度》渡辺幸重

答志島(鳥羽市HPより)

江戸時代には全国各地に「若者組(若衆組)」という地域教育の仕組みがありましたが、三重県鳥羽諸島の答志島(とうしじま)・答志地区には今でも「寝屋子(ねやこ)制度」と呼ばれる慣習が残っています。15歳の男子数名が寝屋親の家で寝泊まりする制度で、全国でも続いているのはこの地区のみではないかといわれています。2007(平成19)年2月に「答志寝屋子制度」として三重県の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に指定されました。

答志島は伊勢湾口に位置する島で、3つの漁村集落があり、海女漁も盛んです。答志地区では、男子が15歳になると5~10人ほどが1組となって家の広さや人柄などの条件によって選ばれた寝屋親の家の一室で集団生活をします。毎日、自宅で夕食をすませたあと寝屋に寝泊りし、朝には自宅に戻るという生活をするのです。寝屋子同士は実の兄弟のように絆を深め、寝屋親はときには相談相手ともなり、寝屋子が成人になれば酒もくみ交わすこともします。その中で若者は島で暮らす心構えやしきたりを覚えるのです。この生活はメンバーの誰かが結婚するまで続きます。寝屋子同士は「朋輩(ほうばい)」と呼ばれ、解散後も「朋友会(ほうゆうかい)」を結成して生涯親密な付き合いが続きます。寝屋親は生涯、実の親と同様に敬われ、寝屋子が結婚するときには仲人の一人になります。
かつては島の男子全員が寝屋子に入っていましたが、近年は長男に限られるようになり、寝泊まりも金曜日の夜だけ集まることが多くなったということです。寝屋子の期間も「中学を卒業すると始まる」「27歳で解散する」などの説明も見られるので状況によっては始まりと終わりの時期にズレがあるのかもしれません。

若者組の発祥についてははっきりしませんが、伊勢志摩地方の制度は九鬼水軍が船の漕ぎ手をすばやく集めるためにつくったという説があります。古くから漁業が盛んな答志島では大勢の人々が協力する作業が多いことから寝屋子制度が継続したともいわれ、それが後継者の定着につながっているといわれます。若者組制度は、鳥羽諸島の坂手島では「宿屋(とまりや)制度」として大正末期まで続き、同じ答志島の桃取地区では1960年頃に「寝屋子制度」が自然消滅したそうです。

古くからの慣習といえども現代に通じるものもあります。寝屋子制度が現代の教育理論から再評価され、教育問題を解決する新しい方法を提供してくれる可能性もあるのではないでしょうか。

連載コラム・日本の島できごと事典 その73《ホープスポット》渡辺幸重

ホープスポット認定記念看板除幕式(撮影:東恩納琢磨さん)

 

参考:辺野古周辺の3次元海底地図

沖縄島北部の東岸・辺野古(へのこ)崎の東方約0.7kmに無人島の長島があり、その南西約0.3kmにやはり無人の平島(ぴらしま)が浮かんでいます。これらの島は大浦湾南部に位置し、辺野古崎から沖合に延びるリーフ内にあります。米NGO団体「ミッション・ブルー」は2019(平成31)年10月、長島・平島を含め辺野古・大浦湾を中心とした天仁屋から松田までの海域44.5?を貴重な動植物が生息する地域として日本初の「ホープスポット」(希望の海)に認定しました。辺野古・大浦湾では絶滅危惧種262種を含む5,334種の生物が確認され、2006(平成18)年からの10年間でエビやカニなどの新種26種が発見されています。2022(令和4)年8月には、日本自然保護協会が大浦湾北西部の瀬嵩ビーチ(名護市)前に「ホープスポット認定記念看板」を設置し、玉城デニー知事らが参加して除幕式が行われました。実は、長島・平島と辺野古崎の間の海域を含む辺野古崎周辺は日本政府が米軍普天間飛行場(宜野湾市)の移設予定地とし、2017(平成29)年4月から2,500mの滑走路を持つ新基地建設を進めていますが、沖縄県や県内団体などの激しい反対運動が起こり、長島・平島の周辺海域でも連日のように監視船やカヌーなどで抗議する反対派の活動が続いています。ホープスポット認定は、貴重な自然を破壊する新基地建設に反対する意思表示にもなっています。
長島・平島の東側に広がるイノー(礁原)は沖縄島でも有数の海草藻場として知られ、海草を餌とする絶滅危惧種・国指定天然記念物のジュゴンの食痕もみつかっています。沖縄島側の大浦川河口にはマングローブと干潟がみられ、大浦湾周辺ではウミガメ類が産卵のために上陸し、湾内には世界的に貴重なアオサンゴも群生しています。長島にはサンゴ礫が付着して成長する石筍を持つ鍾乳洞があり、日本自然保護協会は国内初の事例として2014(平成26)年に公表しました。同協会は、辺野古周辺地域の数万年から十数万年にわたる海面変動に関連した自然史を解明することが期待されるとして、長島・平島での上陸調査を求めていますが、辺野古新基地を建設しようとする国は国有地である両島を同年から立ち入り禁止にしています。
沖縄ではジュゴンの絶滅が心配されています。アオサンゴ群も石垣島・白保と並んで世界に誇る存在です。これらは恵まれた環境の中でさまざまな生物との共生の中で存在が可能なのですが、新基地建設はその環境を破壊しようとしています。沖縄の軍事負担の軽減と合わせて世界的にも豊かな生物多様性を誇る南島の自然を守る問題は日本国民全体の課題と言えます。

 

載コラム・日本の島できごと事典 その72《粟島航路》渡辺幸重

Webに掲載されたビデオ「感謝のメッセージ」

四方を海に囲まれた島にとって定期船は命綱のような存在です。多くの“離島航路”が赤字操業のため離島振興法などによって国や地方自治体の助成を受けながら運営されています。それが2019(平成31)年に始まった新型コロナウィルスの流行によって利用客が激減し、窮地に追い込まれています。 “載コラム・日本の島できごと事典 その72《粟島航路》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その71《北海道南西沖地震》渡辺幸重

津波被害を受けた奥尻島・青苗地区(東大地震研HPより)

1993(平成5)年7月12日午後10時17分、北海道全域はもとより東北地方や北陸地方まで広範囲に大きく揺らす地震が起きました。マグニチュード7.8という日本海観測史上最大級の「北海道南西沖地震」です。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その71《北海道南西沖地震》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム「日本の島できごと事典 その70《隠岐島コミューン》渡辺幸重

隠岐騒動勃発地碑(「 HOTELながた」HPより) https://www.hotel-nagata.co.jp/2012/11/27/10111

日本が明治維新によって近代に入る時期、日本海に浮かぶ島根県の隠岐諸島・島後(どうご)では島民が血を流すことなく松江藩の役人たちを追放し、自治政府を樹立しました。80日間という短い政権でしたが、自治機関を設置して他に例をみない島民自治を実現したのです。これは「隠岐騒動(雲藩騒動)」と呼ばれますが、「もう一つの明治維新」ともいわれており、評論家の松本健一は1868(慶応4)年のこの自治政府をパリコミューンに3年先立つ無血革命として評価し、隠岐騒動を「隠岐島コミューン」と呼んでいます。
幕末の日本は、欧米列強の姿が見え隠れする中で攘夷か開国か、勤王か佐幕かで揺れていました。江戸幕府は1825(文政8)年に外国船打払令を出し、隠岐の警備を強化しました。松江藩によって隠岐に藩兵が常駐したり、島民による農兵隊を組織することもありました。島後では異国船による危機感が強まるなかで島出身の国学者・中沼了三の影響で神官や庄屋などの指導者層に尊皇攘夷思想が広まり、米などの物価高もあって松江藩派遣の郡代や一部特権商人に対する島民の不信が高まっていきました。江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜が大政奉還を行った1867(慶応3)年、島から京都の情勢をさぐる一行が派遣したところ、王政復古により隠岐国は「朝廷御料」になったことがわかりました。支配が幕府から朝廷に代わったのです。そこに郡代が山陰道鎮撫使から隠岐の庄屋方への文書を勝手に開封した事件が起き、一気に松江藩に対する不満が噴出しました。11か村の庄屋大会が開かれた結果、郡代追放が決議され、3月19日(旧暦)、島民約3,000人が武装蜂起して陣屋を攻撃。その結果、郡代は抵抗することもなく翌日島外に脱出しました。ここに島民による自治政府「隠岐島コミューン」が成立したのです。島民は追い出した松江藩の役人に餞別として米や味噌、酒を贈ったので「優しい革命」と言われています。
自治政府は尊王攘夷の実現を目指し、長老格による議決機関「会議所」や執行機関「総会所」、警備を行う組織などの自治機関を整備しました。しかし、自治政府は松江藩による武力攻撃を受け、5月10日に崩壊してしまいます。
その後、自治体政府側は鳥取藩・長州藩・薩摩藩に援助を求め、その成果があって6月に島民自治が復活しました。明治新政府は隠岐国の管轄を鳥取藩に任せ、1869(明治2)年2月には隠岐県の設置が決まり、4月に知事が赴任したため自治政府は解散に至りました。自治政府としては80日以上あったことになりますが、後半の鳥取藩のゆるやかな支配下では実質的な自治があったとされる一方、明治新政府は自治政府を認めていなかったともされるので、ここでは「隠岐島コミューン」の活動期間を前半の80日間としました。
1871(明治4)年、明治政府の手によって島民と松江藩双方の関係者が罰せられ、一連の騒動は決着しました。

日本の島できごと事典 その69《浅沼稲次郎》渡辺幸重

浅沼稲次郎の銅像(三宅島観光協会HPより)

今年の7月8日、私は病院で大腸内視鏡検査の準備をしていました。そのとき、通りかかった看護師の突然の大声に顔を上げたら無音のテレビ画面に「安倍元首相銃撃され心肺停止」という文字が貼り紙のように映っていました。狐につままれた気持ちでボーとしているとき、頭に浮かんだのはある男の暗殺現場の白黒写真でした。1960(昭和35)年に東京・日比谷公会堂で演説中に右翼少年に刺された当時の社会党委員長・浅沼稲次郎のことです。浅沼は、伊豆諸島・三宅島(みやけじま)の出身で、島には生家が残り、すっくと立って右手を掲げたポーズの浅沼の銅像が建っています。 “日本の島できごと事典 その69《浅沼稲次郎》渡辺幸重” の続きを読む

連連載コラム・日本の島できごと事典 その68《すき焼き》渡辺幸重

『鯨肉調味方』(日本捕鯨協会HPより)

寿司、天ぷら、すき焼き、と並べると世界に知られる代表的な日本料理になりますが、このうち「すき焼き」は、一説には長崎県の生月島(いきつきじま)に起源があると言われます。どういうことでしょうか。
生月島は「捕鯨の島」として知られ、江戸時代の1700年代には島に網取式捕鯨の基地が置かれ、平戸や壱岐、五島、対馬など広い地域を漁場としていました。 “連連載コラム・日本の島できごと事典 その68《すき焼き》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その67《伊豆大島暫定憲法》渡辺幸重

大島暫定憲法(日経ビジネスHPより)https://onl.tw/q8qSHkF

第二次世界大戦後、沖縄や奄美、小笠原などが米軍に統治されたことはよく知られていますが、伊豆諸島も一時同じ状況になったことはあまり知られていません。実は、1946(昭和21)年1月29日から3月22日まで伊豆諸島は沖縄などと同じように連合国軍総司令部(GHQ)の「若干の外廓地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」によって日本政府の施政権から分離されました。このとき、伊豆大島では独立を想定し、島民の手によって伊豆大島暫定憲法(「大島大誓言(おおしまだいせいごん)」)が制定されました。この暫定憲法は「島民主権(主権在民)」「平和主義」の精神に基づいており、同じ年の11月に交付された日本国憲法の理念を先取りする民主憲法でした。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その67《伊豆大島暫定憲法》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その66《のがれの島》渡辺幸重

「のがれの島」の碑(奥武島)

1927(昭和2)年、青木恵哉(けいさい)は熊本・回春病院から派遣されて沖縄にやってきました。キリスト教を伝道しながらハンセン病患者救済のための療養所開設を目指したのです。青木は徳島出身のキリスト教宣教師で、みずからもハンセン病を患っていました。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その66《のがれの島》渡辺幸重” の続きを読む