日本の島できごと事典 その69《浅沼稲次郎》渡辺幸重

浅沼稲次郎の銅像(三宅島観光協会HPより)

今年の7月8日、私は病院で大腸内視鏡検査の準備をしていました。そのとき、通りかかった看護師の突然の大声に顔を上げたら無音のテレビ画面に「安倍元首相銃撃され心肺停止」という文字が貼り紙のように映っていました。狐につままれた気持ちでボーとしているとき、頭に浮かんだのはある男の暗殺現場の白黒写真でした。1960(昭和35)年に東京・日比谷公会堂で演説中に右翼少年に刺された当時の社会党委員長・浅沼稲次郎のことです。浅沼は、伊豆諸島・三宅島(みやけじま)の出身で、島には生家が残り、すっくと立って右手を掲げたポーズの浅沼の銅像が建っています。

 浅沼稲次郎は1898(明治31)年1227日に当時の東京府三宅島神着(かみつき)村に生まれました。父親は名主でしたが現在の江東区で酪農業を始め、浅沼は13歳のとき父親の元に引き取られ、島を離れました。島での一番の思い出は「小学校の五、六年ごろと思うが、断崖にかけてある樋(とい)を渡って母にしかられた」ことと『私の履歴書』(日本経済新聞社)に書いています。水が不便な島では集落に水を供給する水道は命の綱です。浅沼は友だちと一緒に谷間にかかった樋を渡ったことが母に知れ、「目から火の出るほどしかられ」、「恐れをなして外に逃げ、後で家に帰っても俵の中にかくれていた」といいます。

 母親の元を離れて東京に出た浅沼は府立三中(現両国高校)から早稲田大学政治経済学部に進みました。大学在学中から社会運動に打ち込み、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災のときは群馬県で800人の聴衆を前に社会問題演説会を行っていました。大震災後に起きた社会主義者と朝鮮人に対する弾圧は浅沼にも襲いかかり、騎兵連隊の営倉にぶちこまれたあと市ヶ谷監獄に約1ヶ月間収監されました。さらに、釈放されたとたん早稲田警察の特高に連れて行かれ、「田舎へ帰っておとなしくしてなきゃ検束する」と言い渡されたので、数ヶ月間三宅島に帰りました。迎える島の空気は「平和な故郷に要注意人物として帰った私をみる島民の目は冷たかった」と言い、「大正の遠島」と呼んでいます。翌年には徴兵検査のために島に帰りましたが、このときは東京から憲兵が尾行してきました。二度の“失態”に村長をしていた浅沼の父が辞任しようとしたのを浅沼が思いとどまらせたというエピソードもあります。

 浅沼は、戦前は日本初の無産政党・農民労働党の書記長、労働農民党の組織部長、日本労農党の組織部長を務め、東京市会議員、衆議院議員、東京都会議員にも当選しました。戦後は日本社会党の書記長、委員長を務め、衆議院議員として1946(昭和21)年から連続7期の当選を果たしています。この間、精力的に遊説を続け、「演説百姓」「人間機関車」などの異名でも呼ばれました。1960(昭和35)年の安保闘争では前面にたって戦い、岸信介内閣を総辞職に追い込みました。そして、その年の1012日に演壇上で刺殺されたのです。

 島の友人からは「キミが国会で力闘しているのは為朝の血を引いているからだ」と言われ、「現代の為朝にみられてちょっとくすぐったかった」と書いています。