連連載コラム・日本の島できごと事典 その68《すき焼き》渡辺幸重

『鯨肉調味方』(日本捕鯨協会HPより)

寿司、天ぷら、すき焼き、と並べると世界に知られる代表的な日本料理になりますが、このうち「すき焼き」は、一説には長崎県の生月島(いきつきじま)に起源があると言われます。どういうことでしょうか。
生月島は「捕鯨の島」として知られ、江戸時代の1700年代には島に網取式捕鯨の基地が置かれ、平戸や壱岐、五島、対馬など広い地域を漁場としていました。鯨組主の益冨又左衛門は九州一の富をもつ鯨大尽と称されたそうです。又左衛門は1832(天保3)年に益富組の捕鯨を絵と文とで再現した捕鯨図説『勇魚取絵詞(いさなとりえことば)』を発刊し、さらに料理書『鯨肉調味方(げいにくちょうみほう)』を付けました。これは鯨の肉や皮・骨・内臓・油脂など約70ヵ所の部位について食べ方を詳細に解説したもので、世界的にも珍しい鯨専門の料理書です。そのなかに「鋤焼(すきやき)」という言葉があり、日本で初めて「すき焼き」の言葉が使われた例とされているのです。
『鯨肉調味方』には、鯨の焼料理の一つとして鋤焼が取り上げられ、黒皮の項に「酒にてときたる味噌、又は生醤油を付て、鋤焼にすべし」とあります。鋤とは、田畑の土を掘り起こすシャベルのような農具で、柄の取れた古い鋤を熾火(おきび)の上に置き、切肉をのせて焼くと説明されています。赤身の項にも「鋤焼にしてよし」とあります。調理方法は、現代のように牛肉をネギや豆腐・白滝などの具とともに煮て溶き卵で食べる方法とは異なるようです。「すき焼き」の語源としては、薄く切った肉を意味する「剥身(すきみ)」から「剥き焼き」となったとする説もあります。生月島とは別に長崎で、1854(嘉永7)年の正月に牛肉を「松前の犁(すき)」で「すき焼き」にして食べたという記録もあります(『西征日記』)。似た名称では、魚介類と野菜を杉材の箱に入れて味噌煮にする「杉やき」という料理もあったようです。
現代のようなすき焼きが食べられるようになったのは幕末以降で、明治に入ると東京では「牛鍋」、関西では「すき焼き」として流行しました。1923(大正12)年に起きた関東大震災で大被害を受けた関東の牛鍋屋は次々に姿を消し、代わって関西のすき焼き屋が進出し、次第に「すき焼き」という名称が広まったと言われています。