連載コラム・日本の島できごと事典 その41《咸臨丸》渡辺幸重

咸臨丸難航図 鈴藤勇次郎原画/【所蔵】木村家蔵・横浜開港資料館

咸臨丸(かんりんまる)はオランダで建造され、1857年(安政4年)に進水した江戸幕府の軍艦です。1860年(万延元年)に日米修好条約の批准書交換のため幕府使節がアメリカに派遣された際にアメリカ軍艦『ポーハタン』号の護衛艦として同行し、初めて太平洋を横断した日本軍艦として知られています。船には勝海舟や福沢諭吉、ジョン万次郎も乗っていました。そして、100数人の乗組員のなかには塩飽(しあく)諸島(香川県)出身の水夫(かこ)35人が乗っていました。
塩飽諸島は、戦国時代には塩飽水軍の本拠地で操船技術に長けた人々が住む島々です。咸臨丸子孫の会の調べによると、35人の出身島の内訳は広島11人、本島(ほんじま)10人、高見島4人、櫃石(ひついし)島・瀬居島各3人、牛島・佐柳島各2人となっています。うち2人がサンフランシスコで病死しましたが、帰国した塩飽諸島出身水夫のうち11人が1862年(文久2年)に小笠原諸島(父島・母島)巡視に出た咸臨丸に乗り組んでいました。このときは塩飽諸島出身の船員は総勢で42人いたそうです。この巡視は幕府が小笠原諸島の領有を宣言し、移住政策を進めるためのもので、アメリカ東インド艦隊司令官ペリーが父島に立ち寄って初代入植者でアメリカ人のナサニエル・セボレーを首長とするピール島(父島)政府を樹立するなど小笠原諸島をめぐって欧米を巻き込んだ領有権問題が勃発していました。このとき幕府は小笠原の領有を宣言し、小花作助ら6人の吏員を父島に在留させました。のちに八丈島から30余人を移住させて開拓を始めています。一行に通訳として参加していたジョン万次郎はその後、小笠原で洋式捕鯨の指導を行いました。
塩飽諸島の櫃石島や岩黒島、与島などを通る瀬戸大橋が開通した1988(昭和63)年、与島に観光型商業施設「瀬戸大橋京阪フィッシャーマンズ・ワーフ」が開業しました。そこには幕末の咸臨丸を模した観光船「咸臨丸」がありました。幕末のアメリカや小笠原諸島への咸臨丸の航海で活躍した塩飽諸島出身船員にちなんで企画されたもので、2008年(平成20年)まで就航し、塩飽諸島を周遊しました。
太平洋往復83日間の咸臨丸に乗船した広島出身の平田源次郎は帰国後、箱館戦争の榎本艦隊に参加しました。また、佐柳島出身の前田常三郎は小笠原航海にも参加、その後坂本龍馬に従い、亀山社中・海援隊で佐栁高次を名乗って活動しました。激動の維新前後の人間模様の一端がうかがわれます。