びえんと《鮮明になった松川事件でのアメリカの謀略 #1》文・Lapiz編集長 井上脩身

~浮かび上がる米軍の鉄道破壊実験~

阿部市次氏(ウィキペデアより)

新聞の片隅に載った死亡記事に目を奪われた。見出しは「松川事件元被告」。阿部市次さん(99)が老衰のため死去したと報じている。2022年11月29日付の毎日新聞である。松川事件は私が最も関心をもつ冤罪事件の一つだ。事件が起きたのは戦後の混乱期の1949年8月。以来74年。松本清張の『日本の黒い霧』(文藝春秋)を読み返した。「アメリカ占領軍の幻影がつきまとっている」と清張はいう。そこで今回、私がネットで検索したところ、戦時中、米軍が鉄道破壊実験を行ったことを知った。事件はアメリカの何らかの謀略である可能性が一層高まった。

アリバイが証明された諏訪メモ

松川事件で脱線転覆した機関車(ウィキペデアより)

阿部さんの死亡記事は次のように記されている。
1949年に福島県松川町(現福島市)で旧国鉄列車の脱線転覆により乗務員3人が死亡した「松川事件」で逮捕・起訴された20人の1人。1審判決で死刑、2審で無期懲役を言い渡されたが、関係者のアリバイを示すメモを検事が保管している事実を毎日新聞が報道。63年に最高裁で無罪が確定した。
この記事にあるように、1949年8月17日午前3時9分ごろ、青森発上野行き旅客列車が福島県金谷川村(現福島市松川町金沢)を通過中、脱線。先頭の蒸気機関車が転覆し、荷物車2両、郵便車1両、客車1両も脱線、機関車の乗務員3人が死亡した。現場は松川駅―金谷川駅間のカーブの入り口付近。現場検証の結果、線路の継ぎ目板のボルト・ナットが緩められ、継ぎ目板が外されていた。さらにレール1本(長さ25メートル、重さ925キロ)が外され、13メートル移動されていた。
事件の翌日、増田甲子七・官房長官が「(三鷹事件などと)思想底流において同じもの」との談話を発表した。三鷹事件は約1カ月前の7月15日午後9時20分ごろ、東京・三鷹市の国鉄三鷹電車区で停止していた無人電車が突然走りだし、猛スピードで約800メートル先の三鷹駅停止線を突破、約40メートル先の民家の軒先を壊したうえアパート玄関先でようやく止まった。同駅にいた人ら6人が即死、13人が重軽傷を負った。
国鉄が6月1日に施行された定員法により、7月4日、3万600人の第一次人員整理を通告した翌5日、下山定則・初代総裁が轢死体となって発見された下山事件が発生。7月12日に第二次整理として6万3000人に解雇通達が行われた3日後に三鷹事件が起きたことから、東京地検と国家警察本部は国労三鷹電車区分会長をはじめ10人を逮捕した。このうち9人が共産党員だった。
増田談話は松川事件も共産党の犯行との予断をあからさまにしたものだが、この予断のもとに、当時大量人員整理に反対していた東芝松川工場労働組合と国労の共同謀議による犯行とみて捜査。事件から24日後の9月10日、別件で逮捕した赤間勝美・元線路工の自白を突破口として国労側10人、東芝労組側10人を次々に逮捕した。赤間元線路工を除く国労の9人は、福島分会書記の阿部さんを含めて共産党員。東芝労組も8人が同党員だった。
1950年、福島地裁は被告20人全員を有罪(うち阿部さんら5人を死刑)、53年、仙台高裁は17人を有罪(うち4人が死刑)、3人が無罪になった。最高裁に上告されたのち、東芝松川工場の諏訪親一郎・事務課長代理が労使交渉などの際に記録したノートを検察に提出していたことを、毎日新聞福島支局の倉島康記者が特報。この記録によって一、二審で死刑判決を受けた東芝松川労組執行委員だった佐藤一被告のアリバイが証明された。これにより共同謀議がなかったことも判明、全員の無罪が確定した。
冤罪としての同事件は「赤間自白」に始まり、「諏訪メモ」で終わるといわれるゆえんである。(この項続く)

 

原発を考える《敵基地攻撃能力と原発》一之瀬明

北朝鮮のミサイル

なんでも仮想敵国から攻撃を受ける前にこちらから先制攻撃できるように閣議決定したとか。16日に閣議決定された安全保障3文書の改定で、新たに保有することになったのが「敵基地攻撃能力(反撃能力)」だ。
何のことはない、「やられる前にやっちまえ」ということのようだ。ロシア、北朝鮮や中国を想定していると、これは大変なことだと想像がつく。 “原発を考える《敵基地攻撃能力と原発》一之瀬明” の続きを読む

宿場町・大和街道 上柘植(かみつげ)宿《芭蕉の生まれ故郷説を探る 01》文・写真 井上脩身

芭蕉

 松尾芭蕉の生地は三重県伊賀市上野といわれ、かつて芭蕉ゆかりの地を訪ねたことがある。ところが上野の約12キロ東に位置する同市の上柘植が生地という説があることを最近知った。調べてみると、そこは大和街道上柘植宿があったところだ。大和街道は東海道関宿から奈良に至る道である。芭蕉は何度も伊勢神宮を参拝した後、古里に帰り、さらに大坂方面に向かっている。その際、大和街道を使ったに違いなく、上柘植宿は芭蕉にとって思い出深い宿場であったはずだ。あるいは芭蕉の息吹が感じられるのではないか。秋が深まるなか、上柘植宿を訪ねた。 “宿場町・大和街道 上柘植(かみつげ)宿《芭蕉の生まれ故郷説を探る 01》文・写真 井上脩身” の続きを読む

Lapiz2022冬号を掲載します!

Lapiz(ラピス)はスペイン語で鉛筆の意味
地球上には、一本の鉛筆すら手にすることができない子どもが大勢いる。
貧困、紛争や戦乱、迫害などによって学ぶ機会を奪われた子どもたち。
鉛筆を持てば、宝物のように大事にし、字を覚え、絵をかくだろう。
世界中の子どたちに笑顔を。
Lapizにはそんな思いが込められている。
Lapiz編集長 井上脩身

連載コラム・日本の島できごと事典 その82《文化露寇》渡辺幸重

日本側が記録したレザノフの船と部下(Wikipedia)

 元寇や倭寇のように「外から侵入して害を加える賊」を“寇”と言いますが、「文化露寇(ぶんかろこう)」をご存知ですか。ロシア帝国軍が文化31806)年に樺太(現サハリン)を、翌年に択捉島(えとろふとう)などを攻撃した事件のことです。日本列島周辺に欧米列強の船が現れるようになり、国内に緊張が高まる時代にロシアとの間で何があったのでしょうか。この事件はロシア側では「フヴォストフ事件」と呼ばれています。

 文化露寇すなわち「文化年間のロシアの侵攻」を和暦で推移を見てみます。まず、文化3年9月(180610月)、樺太南部の久春古丹(くしゅんこたん)にロシア兵20数人が上陸し、アイヌの子供など数人を拉致し略奪や焼き討ちを行いました。久春古丹は江戸時代、松前藩の穴陣屋や運上屋(会所)があったところで、北前船も寄港する交易の拠点でした。江戸時代後期から幕末にかけてたびたびロシア人の襲撃を受けたところのようです。

 次に文化4年4月(1807年5月)、ロシア海軍士官らが択捉島、礼文島、樺太(留多加)などを襲撃しました。択捉島にはロシア船二隻が現れ、盛岡藩の番屋を襲撃、番人5人を捕え、米や塩などを略奪しました。圧倒的な火力の差に幕府側は撤退を余儀なくされ、敗戦の責任をとって指揮官が自害しています。ロシア船が5月3日に択捉島を去るまでロシア兵はたびたび上陸し、略奪や破壊・放火を繰り返しました。

 文化露寇はロシア帝国が日本に派遣した外交使節、ニコライ・レザノフが部下に命じたものでした。実は事件に先立つ1792(寛政4)年、ロシア最初の遣日使節、アダム・ラクスマンが根室に来航して日本との通商を要求した際、江戸幕府は交渉に応じなかったもののラクスマンに長崎への入港許可証(信牌)を交付しました。レザノフはこれを持って1804(文化元)年、長崎に半年間ほど滞在して通商を求めましたが、拒絶されたあげく病気になり、療養中にも幽囚同様の扱いを受けたといいます。レザノフは武力によって開国を迫るしかないと思うようになり文化露寇に至りますが、報復の意思もあったようです。これらの軍事行動はロシア皇帝の許可を得ておらず、ロシア皇帝は1808(文化5)年に全軍撤退を命令、1813(文化10)年にはイルクーツク県知事、オホーツク長官から謝罪の釈明書が松前奉行に提出され、事件は解決しました。

 文化露寇の際のロシア側の戦利品がいまでもサンクトペテルブルクの人類学・民俗学博物館に収蔵されており、キリシタン大名・大友宗麟の印章付きのフランキ砲などがあるそうです。

連載コラム・日本の島できごと事典 その81《九十九島》渡辺幸重

九十九島の島数の数え方(「九十九島パールシーリゾート」サイトより)

 瀬戸内海や松島湾などは多島海と呼ばれ、多くの島々が美しい光景を作っています。九州島・北松浦半島西岸のリアス海岸沿いにも多島海が広がり、北の江迎湾から南の佐世保湾口まで約25kmにわたって大小の島嶼群が美しい姿を競って浮かんでいます。この多島美は約4,000万年前~約1,500万年前の第三紀層の丘陵地が沈水してできたものといわれ、「九十九島(くじゅうくしま)」と呼ばれて観光地となっています。かつては九十九島湾内の南九十九島のみを指し、「つくもじま」と呼んだようですが、名称は島の数が99だったからというわけではないようです。第二次世界大戦後になって北部の北九十九島を含めて九十九島と総称するようになりました。では、島の数は何島になったのでしょうか。

 海上保安庁は「最高潮位面における海岸線が0.1km以上」の海に囲まれた陸地を地図上で数えて日本には北海道島・本州島・四国島・九州島・沖縄島を含めて6,852(北方4島を除く)の島があるとしていますが、これは一つの基準で、島の定義ではありません。佐世保市は「九十九島は208の島で構成される」としていますが、これは島の基準を<「満潮時に陸地が海面から出ている」かつ「陸の植物が生えている」>として「九十九島の数調査研究会」が現地調査を行い、2001(平成13)年に発表した数になります。しかし、その4年後に「九十九島シーカヤッククラブ」が調査したところ島は212あったといいます。さらに、2015年にカヤック歴20年以上の澤恵二さん(佐世保市在住)が調べたところ、新たに12の島を発見し、植物が枯れるなどして条件を満たさなくなった島を4つ確認したとして自費出版の『西海国立公園九十九島全島図鑑』で島の数を216島と発表しました。

 佐世保市によると、九十九島周辺は干満の差が大きいので大潮の満潮時には島の一部が水没して二つに分かれることがあるということです。また、鳥や風によって種子が運ばれて植物がないとされた島に植物が新たに育つこともあるので、調査の時期によって数は変動する可能性があるといいます。島の定義がはっきりしないなかで島の数を特定するのはけっこう難しいことなのです。

 なお、同じ長崎県に島原湾に浮かぶ「九十九島(つくもじま)」があります。ここでは波の浸食によって島の数はかつての59島から16島に減少しました。

Lapiz2022冬号は12月1日から発行予定です。

Lapiz(ラピス)はスペイン語で鉛筆の意味
地球上には、一本の鉛筆すら手にすることができない子どもが大勢いる。
貧困、紛争や戦乱、迫害などによって学ぶ機会を奪われた子どもたち。
鉛筆を持てば、宝物のように大事にし、字を覚え、絵をかくだろう。
世界中の子どたちに笑顔を。
Lapizにはそんな思いが込められている。
Lapiz編集長 井上脩身

 

 

連載コラム・日本の島できごと事典 その79《犬田布騒動》渡辺幸重

島人の決起を描いた画(「犬田布騒動150周年シンポ」資料)

 1604(慶長14)年の薩摩藩による琉球侵攻以降、奄美群島(鹿児島県)は薩摩藩の直轄支配を受け、黒砂糖の専売制度(砂糖総買入制)が敷かれて過酷な搾取を受けました。藩はサトウキビの作付を強制して黒糖の保有や売買を禁じ、私的売買(密売)は死罪という思い罪を科しました。そのなかで1864(元治元)年、徳之島の犬田布(いんたぶ)村で農民一揆が起きました。これを犬田布騒動または犬田布義戦(ぎせん)と呼びます。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その79《犬田布騒動》渡辺幸重” の続きを読む