写真散歩《まずは言い訳》片山通夫

とにかくコロナのおかげ(?)で多くの人が世界中で不自由な生活を余儀なくされている。かく言う私も「世界人の一員」として、末席を汚している。

ただ末席を汚すだけでなく生活にはかなりの変化がみられた。取材でサハリンをはじめ他の所に出かける以外は、ほとんど毎日事務所へ出かけていた生活がなくなった。先の見通しも見えない中で事務所もたたんだ。それで自宅を事務所代わりに使っている。ほとんどのフィルムはデジタル化して処分した。ついでに書籍も処分した。
身軽になって良いこともある。せこい話、毎月の費用が浮いてくる。こんな経験は以前にもあった。カラーポジフィルムでの撮影がほとんどだった時代、現像所に支払うフィルム代と現像代がデジタルになって浮いた時だ。
その時も、今もまるで「家が建つのではないか」と思うほどの気分だったが、そうは行かないのが人生。家も経たなきゃ生活も楽にならない。

しかし毎年作っているカレンダーは作ると決めた。写真が必要だ。そこでカメラを下げてあちこち出かけることにしている。・・・と言っても日帰りの小旅行。幸い電車の便はかなり良い。車で出かけるよりも考え事も出きるのである意味快適だ。そんなこんなでカメラを持って出かけた先で撮った写真を紹介したい。

 

Lapiz22夏号Vol.42宿場町《東海道・二川宿2》文・写真 井上脩身

楽器奏でにぎやかに行進

江戸上りの一行を描いた絵図

琉球王国では1835年に第18代尚育が王に就任。しかしその数年前から尚育は摂政として実質的に王位についていた。その即位の謝恩として尚氏豊見城王子朝春を正使、毛氏澤岻親方安度を副使とする使節団を江戸に派遣することになった。一行は1832年6月8日、那覇港を出立。鹿児島に着いたところで8月27日、すでに述べたように豊見城王子朝春が死亡した。そこで賛議官の向氏普天間親雲上朝典を正使にしたのである。現代感覚なら副使を正使に昇格、少なくとも正使の代役にするのが普通だが、琉球王国の立場の低さのせいか、あるいは島津藩の考えによってか、王子に年格好が似た普天間親雲上を身代りにしたのであろう。9月1日、鹿児島をたった。ここから伏見まで船で行き、伏見から東海道を東に向かった。
このときの様子を描いたとみられる絵図が残っている。正使はコシに乗っており、その前後を数人が馬にのってしたがっている。さらに前後を数十人が徒歩でつきしたがっている。「豊見城王府」と書かれた看板のようなものを持つ人、「金皷」の旗を掲げる人、そして太鼓をたたいたりラッパ状の楽器を吹き鳴らす人。にぎやかに行進したようである。
よく見ると、従者は長い外套をまとい、丸形の帽子をかぶっており、いかにも民族衣装ふうである。7、8年前、首里城の売店で買った『琉球・沖縄史』(沖縄歴史教育研究会編)によると、「江戸上り」そのものは島津氏が仕向けた幕藩体制国家への服属儀礼だった。一行の服装は、高官が中国風、従者が琉装で、異国風にするのが慣例。しかも島津氏にともなわれて行くのがならわしだった。
琉球では従属を意味する「江戸上り」ではなく「江戸立」という表現が用いられていたという。一行の構成は正使、副使、賛議官、掌翰使、楽団、儀衛正、楽童子など総勢約100人。旅程は300日で、江戸滞在は1か月。学者や芸能家らとの交流もあり、琉球文化に影響を与えた。
ラッパのような楽器を吹いていたのは楽団員だったわけだ。一行は外見上は陽気に二川宿に到着したのであろう。
本陣の表入り口には定紋入りの幔幕がはられていた。コシから降りた正使、豊見城王子朝春いやその替え玉、普天間親雲上朝典はこの幔幕の下を通り、だだっ広い玄関で馬場家当主の出迎えを受けたはずである。当主は正使が替え玉であったことに気づかなかったにちがいない。島津氏の指示で普天間親雲上朝典は豊見城王子になりすまされていたと思われるからである。王子として御上段の間に通され、その隣の八畳の間にはお目付け役である島津藩の家臣が陣取ったであろう。
本陣の記録では泊まったのは38人。楽団らの従者は旅籠に分宿したようだ。「豊見城王子朝春」の宿泊代は銀2枚。松平美濃守の4割である。料理内容も4割だったのであろうか。
一行は11月16日に江戸に到着。江戸城に登城し朝覲(ちょうきん)の礼を行った。朝覲とは属国の主などが君主に拝謁すること。普天間親雲上朝典は「豊見城王子朝春」として11代将軍家斉に拝謁したであろう。本来の身分ではあり得ないことだけに、彼は胸が張り裂けんばかりに緊張したに違いない。
一行は12月3日、江戸をたって帰途につき、12月12日、再び二川宿本陣に立ち寄る。小休止だった。この時も名義は「琉球人御使(豊見城王子)」である。

工夫凝らす本陣資料館

定紋入り幔幕がほどこされた本陣跡の表入り口
駕籠かきに声を掛ける武士を表した模型

本稿の冒頭、二川宿本陣跡が豊橋市の二川宿本陣資料館となっていることを紹介した。私が訪ねたのはいうまでもなく資料館であるが、ここでは「旧本陣」と表記したい。
旧本陣はJR二川駅から、幅約5メートルの旧東海道を東に歩いて15分くらいのところ。裏手はJR東海道線の線路である。入り口の脇に高札場が復元されていて、「人馬の駄賃やキリシタン禁令の高札が掲げられた」という。旧本陣の中に入り、たくさんの部屋を通りぬけて上段の間に。床の間に富士山が描かれた軸がかけられている。私は大阪から東京に向かう中学校の修学旅行で、浜松の手前で富士山を遠望したのを思いだした。普天間親雲上朝典は二川宿辺りで富士山を見たかもしれない。琉球からはるばる江戸に向かう謝恩使一行。初めて見る雪かぶる富士にどれほど感動しただろうか。富士山が見えることは江戸に近くなったことを意味する。替え玉による将軍への拝謁など前代未聞であろう。まかり間違えば切腹ものだ。「豊見城王子朝春」である朝典はどのような心境だったのだろう。
白亜の蔵は史料の展示場として使用されており、「松平美濃守宿」と墨書された関札がかけられている。天保8年4月4日に宿泊したとき、この札が門前に掛けられたとある。この資料館は宿場の状況を知ってもらうことにも力を注いでおり、街並みの模型が展示されている。馬にのる旅人、客寄せする旅籠の女性、大きな荷物を背負う商人ら、行き交う人々の様子が丁寧に表現されている。また道中姿の旅人の実物大模型では、武士が駕籠かきに声を掛けている様子を表すなど、入場者を飽きさせない工夫が随所にこらされている。
外に出て、表入り口の前にたった。今も定紋入り幔幕がほどこされており、格式の高さを実感させる。玄関から通りに出ると、「市川屋」「島屋」など、かつて旅籠だった民家が並ぶ。謝恩使の従者たちはこれらの旅籠に泊まったのかもしれない。

ネットには戸田氏庸筆という「普天間親雲上朝典像」がアップされている。戸田氏庸は大垣藩藩主で、1796年、将軍家斉に拝謁し、「豊見城王子朝春」が江戸上りしたころは従四位下の位を得ている。戸田はあるいは江戸城で普天間親雲上朝典を目にしたのであろうか。その肖像画には、朝典は生真面目そうな人物に描かれている。朝典は「わた津海の底より出て日のもとのひかりにあたる龍の宮人」という和歌を残している。彼は「豊見城王子朝春」として、竜宮城に行ったような夢の旅をしたのであった。(完)

Lapiz22夏号Vol.42宿場町《東海道・二川宿1》文・写真 井上脩身

替え玉の琉球使節が泊まった本陣

歌川広重画東海道五拾三次ノ内二川」(ウィキペディアより)

愛知県に住む友人が長篠の古戦場など、居住地周辺を案内してくれ、その一つに、旧東海道の二川宿本陣跡があった。本陣跡は豊橋市の二川宿本陣資料館として江戸時代の姿を再現展示しており、観光名所にもなっている。私は展示内容を紹介するカタログを買い求め、ページをめくったところ、「琉球人御使(豊見城王子)」という記述に目が留まった。天保3(1832)年11月、琉球王国の使節として将軍に拝謁するために江戸に向かった琉球国の王子が二川宿本陣に宿泊したというのだ。これまであちこちの宿場跡を訪ねたが、琉球の王子が泊まったという記録に触れたのは初めだ。調べてみると、王子は鹿児島で急死しており、本陣に姿を見せたのは替え玉であった。

江戸上りの豊見城王子

豊見城王子の身代りとなった普天間雲上朝典の像(ウィキペディアより)

琉球に王国が誕生したのは1429年。尚巴志が統一をなしとげ、首里城を整備した。その分家として、豊見城王子朝良(1662~1687)を元祖とする豊見城御殿(とみぐすくうどぅん)と呼ばれる大名が誕生。その七世として1831年、朝春が豊見城王子になった。
江戸時代になって琉球王国が薩摩の島津氏の支配を受けたことから、琉球国王が即位した際に謝恩使を、将軍が代替わりした際に慶賀使を江戸に派遣。「江戸上り」と呼ばれ、1634年から1850年まで18回行われた。1710年の江戸上りでは二世の朝匡が謝恩使として派遣されており、1832年は朝春が謝恩使の大役を担うことになった。
豊見城御殿としては約80年ぶりの謝恩使である。朝春はさも胸躍るおもいであっただろう。ところが、江戸に向かう途中の鹿児島で朝春は急死、普天間親雲上朝典が替え玉になった。親雲上(ぺーちん)は中級士族に相当する称号である。

本陣経済の一端を表す宿帳

旧東海道に面した二川宿本陣跡の外観

二川宿は江戸から数えて33番目、遠江から三河に入って最初の宿場にあたる。文政3(1820)年の記録では、約1・3キロの街道に沿って306軒の家があり、人口1289人。本陣が1軒、脇本陣2軒、旅籠30軒の比較的小さな宿場であった。「豊見城王子」が江戸上りをした1832年、人口1413人と住人は増えたが、その他は変わることはなかったであろう。
二川宿は愛知県の東部にあり、浜名湖の西10キロの所に位置している。宿場西端の見附近くに「立場茶屋」という茶店があり、馬引きの休憩所だった。東にしばらく進むと問屋場と高札場。そのすぐそばに脇本陣。さらに東に本陣がある。
二川宿では江戸時代当初から後藤五左衛門家が本陣職を務めていた。間口22間の建物だったが、たびたび火災に遭って後藤家は没落。寛政5(1793)年、紅林権左衛門が後藤家を継ぎ、数十メートル西に本陣を新築したが、文化3(1808)年に火災に見舞われ本陣職を辞任。馬場彦十郎がその後を引き継ぎ高札場近くに本陣を構えた。馬場家は明治3(1870)年まで本陣職を務めており、「豊見城王子」が宿泊したのは馬場家本陣である。

替え玉の豊見城王子も泊まったと思われる上段の間

天保年間後期(1840年ころ)に作成された本陣見取図によると、床面積614平方メートルの屋内に35室があり、玄関だけでも24畳もあるスケールの大きさ。大名が寝泊まりする「御上段」は8畳、大名のための湯殿は3畳の広さ。安政年間(1860年ころ)に増改築し、床面積は771平方メートルに拡張。この本陣増改築に要した経費は428両(3340万円)。資金の出所は類焼拝借150両(1200万円)、御役所拝借20両(160万円)、馬場家用意258両(2070万円)=1両8万円として計算=だった。本陣職は相当の豪商でなければ務まらなかったのだ。
本陣の建物は明治以降も馬場家の住居として使われ、1985年豊橋市に寄贈。同市は2年後の1987年に市の史跡に指定した。こうしたことから、本陣が安政年間の建物に近い形で現存しているのが最大の特徴。さらに興味深いのは文化4(1807)年から慶応2(1866)年までの宿帳33冊が残っていることだ。宿帳は「御休泊早見」「御通行日記」「御休泊記録」の3種類から成っており、愛知県の有形民俗文化財に指定されている。
天保8(1837)年4月4日、筑前藩主松平美濃守が宿泊したときの日記には、「御宿料銀5枚、献上物なし、御上下37人様、御一人付412文」などと記されている。銀5枚は3両2分余り、馬場家から宿泊客への献上物はなかった。宿泊したのは37人、一人の宿代は412文なので合計額は15貫260文だった。
以上は一例である。本陣経済の一端を示しているだけでなく、参勤交代で各藩がどれほどの経費負担をしたかを知るうえでも貴重な記録である。(明日に続く)

22年夏号Vol.42 編集長が行く《性犯罪とウクライナ戦争の本質》Lapiz編集長 井上脩身

フラワーデモの準備をする人たち(この後、撮影禁止のプラカードを掲示し、輪になって性被害問題を語り合った)

 ウクライナ戦争反対集会があるとネットで知り、4月11日、会場である大阪市北区中之島の中央公会堂前広場にでむいた。開始時刻になると11人(女性10人、男性1人)が姿をみせ、街灯のそばで輪になった。リーダーと思われる人が性被害に遭った女性の手記を読み上げた。傍らには「同意なき性行為は犯罪です」などと書かれた数点のプラカードが立て掛けられ、うち1枚には「撮影禁止」と大きく書かれている。頭の中で描いていた反戦集会のイメージとは全く異なる雰囲気なので、私はしばらくして立ち去った。帰りの電車の中で気づいた。ウクライナに攻め込むロシア軍の行っていることは、性犯罪と同根なのではないか、と。性被害の観点からウクライナ戦争をみれば、プーチン大統領の本質に迫ることができるかもしれないと思った。 “22年夏号Vol.42 編集長が行く《性犯罪とウクライナ戦争の本質》Lapiz編集長 井上脩身” の続きを読む

22年夏号Vol.42 OPINION《改ざんを取り締まる中国》山梨良平

以下のようなニュースを見つけた。驚くなかれ、中国の話だ。

「改ざんは最大の腐敗」中国国家統計局長が警告 “違反”幹部らの責任追及へ
タイトルからして驚くのは「日本の安倍政権時代の話か?」と思ったこと。ニュースは22年6月1日の朝日テレビ。
一方わが国も共産党機関紙赤旗が政府の改ざん・隠ぺいをまとめていたので紹介したい。
「隠ぺい・改ざん・ねつ造…底なし すべての問題 安倍首相の責任」
→公文書改ざん、森友・加計疑惑の真相隠し、自衛隊日報隠ぺい、文民統制の崩壊、財務省セクハラ問題、「働かせ方改悪」のための労働データねつ造、「特別指導」をめぐる疑惑、教育への介入や圧力――。どの問題も根源には、おごり高ぶった安倍政権の強権政治や国政私物化があります。それぞれの問題で何が問われているのか、疑惑解明のために何が必要か、改めて見てみました。

最近のデータでも各省庁の改ざん・水増しなどの不正が横行していると指摘されている。

福田元首相も財務省決裁文書改ざん等一連の政府対応に次のように苦言を述べた。
⇒公文書管理の強化に取り組んできた福田元総理大臣は、財務省の決裁文書の改ざんについて「行政的には決着したと言われているが、簡単に割り切れるか政治も考えなければならない」と述べ、一連の政府の対応に苦言を呈しました。また公文書管理の重要性について「健全な民主主義を進めるためには国民が真実を知ることが大事だ。作成すべき文書が作成されず、保存すべき文書が保存されていないのであれば、国民に対する背信と言わざるをえない」と指摘した。

中国では国家統計局の局長が「改ざんは最大の腐敗で政府統計の信頼への最大のダメージ」と述べたと報道にある。そのうえで「幹部などを厳しく取り締まる」と述べた。先月には地方政府の党関係者ら100人が処分された。
残念ながらわが国では処分の話は寡聞にして聞かない。それどころか改ざん・隠ぺいした役人は「出世して」いる。

22年夏号Vol.42 びえんと《語り部になったアウシュビッツ生還者》井上脩身

第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの強制収容所に送りこまれながら生き延びたウクライナ人の男性(96)が、ロシアの攻撃で死亡したことが3月21日に発表された。たまたま私は『アウシュビッツ生還者からあなたへ――14歳、私は生きる道を選んだ』を読み終えたところだった。強制収容所から生き延びたイタリアの終身上院議員、リリアナ・セグレさんが語った体験を、中村秀明・元毎日新聞副論説委員長が翻訳し岩波ブックレストとして刊行されたのだ。戦後77年。ロシアのプーチン大統領が行うウクライナ戦争の惨状をみると、強制収容所が決して昔話ではない恐ろしさを禁じ得ない。 “22年夏号Vol.42 びえんと《語り部になったアウシュビッツ生還者》井上脩身” の続きを読む

22年夏号Vol.42 連載コラム・日本の島できごと事典 その64《豊田音頭》渡辺幸重

豊田音頭を踊る人(「地域文化遺産ポータル」動画より)

120kgもの重い石地蔵を背負って盆踊りをやるなんて、誰が考えつくでしょうか。それが佐渡島の真野(まの)地区豊田では古民謡「豊田音頭(真野音頭)」として伝わっているのです。

かつて佐渡のホテルで豊田音頭を見た「東京やなぎ句会」のメンバーはその姿に感動し、絶賛しました。小沢昭一は柳家小三治との対談で「僕の心の中の、あれを見たときのざわめき、嬉しさ、……あのナンセンス……(笑)何の意味もない中に、思えばどれだけの深い哲学を、その人その人なりに、あそこから汲み取ることができるかっていう、これぞ、深い芸術、芸能っていうものの極致です」と語り、小三治に対して「あん時にあなたが喜んでる姿を右の目で見ながら、僕もおんなしに喜んで感動していたんです」と言っています(東京やなぎ句会編著『佐渡新発見』1993年5月三一書房)。このときは踊りの輪の中を60kgの石地蔵を背負った男が右から左へただ一回だけ通り過ぎたと説明されています。

豊田音頭は、佐渡金山が隆盛を極めていた頃、その道中音頭が元となってできた盆踊り唄で、昔、若くして妻子を亡くした男が、お盆に戻ってくる妻子の身代りに大光寺境内の地蔵を背負って踊ったのが地蔵を背負う始まりと伝えられ、その後若い衆が力自慢に背負うようになったようです。石地蔵の重さは60~100kgで、なかには120kgを超えるものもあるそうです。私が見た「地域文化遺産ポータル」の動画では、音頭を踊る女性たちの輪に交じって大きな石地蔵を背負った2人の男性が同じ盆踊りを踊っていました。また、豊田音頭を継承しようと活動をしている「小波会(さざなみかい)」の動画では踊り手全員が小さな石地蔵を背中に結んでいました。豊田音頭は一時途絶えたものの1978年(昭和53年)に復活し、真野小学校の子供たちも背の2倍にもなろうという大きなハリボテ地蔵を背負って踊ります。

柳家小三治は「まいんち担いでるやつは、普通の顔になっちゃうわけ。だからあれは悲しかった。すばらしかった。で、しかも、もう担いでる自分の姿を想像して、滑稽にすら思ってる、っていう、そういう、辛い悲しい、そういうものを通り過ぎてしまった人の、……態度だね。だから、すばらしい」と言っています。小沢昭一も小三治も妻子を亡くした男の話は聞いていなかったようです。しかし、それを知っても豊田音頭に対する「あの無意味、不条理、不毛、あれは人生だなァ」(小沢昭一)という評価は変わらなかったでしょう。

原発を考える《ロシア軍がウクライナの原発を占拠した》一之瀬明

人類が永遠の電力を手に入れたのか、はたまた地獄の業火を弄んだのか。我々は原子力と言う魔法のエネルギーを手に入れたようにも思える。その最たるものが原子力発電所である。何事もなければこんな良いものはないともてはやされてきた。しかしながら1986年4月に起きたウクライナのチエルノブイリでの爆発事故がその印象を一変させた。 強制移住等:数十万人以上、 死者:33人(4,000人とも (IAEA公式見解、異論有))と言われているが明確ではない。

ウイキペディアによると「チエルノブイリ原発は1986年4月26日午前1時23分に、ソビエト社会主義共和国連邦の構成国、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国のチェルノブイリ原子力発電所4号炉で起きた原子力事故である。のちに決められた国際原子力事象評価尺度では深刻な事故を示すレベル7に分類された」とある。

そのチェルノブイリ原発をロシア軍はウクライナ侵攻時に制圧したというニュースが流れた。《素手で放射性物質 ロシア兵、チェルノブイリで相当量の被ばくか・毎日新聞》、《ロシア軍、チェルノブイリ原発の森で塹壕掘って被ばくか ウクライナ当局、高レベル放射性物質の盗難も発表 ・東京新聞》、《ロシア軍、チェルノブイリから放射性物質盗む ウクライナ・時事》などなど、素人考えながら恐ろしい事件が起こっている。ロシア兵が無知なのかわからないが、これらの報道が事実ならば、ロシア兵は相当の放射能被害を受けているはずである。「素手で放射性物質に」などもってのほかの行為だ。

プーチンはこの事実を知っているのか、原発占拠の命令は誰が下したのか、死の森で塹壕を掘れと命令を下したのはだれか。今後の解明を待たれる。

原発はこのように危険だ。ヒロシマやナガサキの例を見るまでもない。放射性物質の人体に与える影響はその時の「死」だけではない。人体に入り込んで長年続く。チェルノブイリ原発の制限区域を訪れたウクライナのハルシチェンコ・エネルギー相は、「(ロシア兵は)放射性物質で汚染された地面を掘り、土のうを作るため土を集め、そのほこりを吸い込んだ」とフェイスブックに投稿。「このように1カ月にわたって被ばくすると、彼らの余命は最大でも1年だ」とし、「ロシア兵の無知は衝撃的だ」と記している。 やはり原発は危険だ。