連載コラム・日本の島できごと事典その62《青ヶ島還住》渡辺幸重

名主・佐々木次郎太夫の碑(観光情報「観るなび」)https://www.nihon-kankou.or.jp/tokyo/134023/detail/13402af2172051936

 「人はなぜ島に住むのか」は永遠のテーマです。人は災害や疫病、経済的理由などで島を離れても生まれ育った故郷に帰ろうとします。それはなぜでしょうか。それを考えさせる出来事の一つが、伊豆諸島・青ヶ島の〝還住〟の歴史です。

 青ヶ島は八丈島の南約64kmにあります。気象庁が火山活動度ランクCの活火山に指定する二重式カルデラ火山の島で、古くからたびたび噴火(山焼け)を起こしてきました。1785(天明5)年の大噴火では全家屋63戸を焼失し、事前に島を出ていた者を含めて202(他に流人1人)が救出されましたが、救助船に乗れなかった130人余りが島に取り残されて犠牲になりました。

 八丈島に逃れた青ヶ島島民は島の「復興(起し返し)計画」を立て、実行に移しました。まず1793(寛政5)年に強健な男性12人を青ヶ島に送り込むことに成功し、復興事業に取りかかりました。しかし、島では大繁殖したネズミによる被害を受けるなどの苦難が続いた上に八丈島からの支援も思うようにできませんでした。1794(同6)年には3回八丈島から物資を送ろうとしたものの1回しか成功せず、その船も帰路途中で遭難し、乗組員全員死亡という犠牲が出ています。1797(同9)年には名主・三九郎らを乗せた船が暴風にあって紀州(和歌山県)に漂着。乗船者14人のうち名主を含む11人が死亡しました。1799(11)年には三九郎の遺志を継いで穀類を積んで出航した船がまた暴風にあって紀州に漂泊しました。このときは乗組員のうち32人が八丈島に戻っています。結局1795(7)4月に1回成功したあとは八丈島から青ヶ島に渡った船は1艘もなく、青ヶ島で復興にあたっていた7人は1801(享和元)年に八丈島に戻ったのでした。1817(文化14)年、名主になった佐々木次郎太夫が綿密な帰島・復興計画を立ててからは順調に進むようになり、その結果、1824(文政7)年に多くの島民が帰島し、1834(天保5)年には島民全員が故郷の青ヶ島に帰り着くことができました。翌年に検地が実施され、青ヶ島は1785(天明5)年の大惨事から約50年の歳月を経て復興を成し遂げたのです。

 この経緯は近藤富蔵の『八丈実記』に記され、民俗学者・柳田國男は『青ヶ島還住記』として著し、名主・次郎太夫を「青ヶ島のモーゼ」と讃えています。さて、たとえ〝不毛の地〟と言われようとも故郷の島に帰ろうとする心情を私たちは理解できるでしょうか。

写真:名主・佐々木次郎太夫の碑(観光情報「観るなび」)

 

連載コラム・日本の島できごと事典その61《北海道二級町村制》渡辺幸重

1888年建設の北海道庁旧本庁舎(赤れんが庁舎)=2014年9月撮影

 明治の近代化が進み、全国的には1888年(明治21年)に(普通)市制・(普通)町村制が定められ、翌年に施行されましたが、北海道・樺太と沖縄県の全域および伊豆諸島・小笠原諸島、隠岐、対馬、奄美群島・トカラ列島には適用されませんでした。北海道の場合、井上馨内務大臣が自治財政を負担できる町村とできない町村に分けるべきと主張、1897年(明治30年)に勅令によって北海道区制・北海道一級町村制・北海道二級町村制が制定され、1899年(同32年)101日に施行されました。すなわち、この年に札幌・函館・小樽に北海道区制が、翌年には106村に北海道一級町村制が、1902年(同35年)には62町村に北海道二級町村制が実施されたのです。1922年(大正11年)には札幌・函館・小樽・旭川・室蘭・釧路の6区で区制から市制に変わり、1943年(昭和18)年には北海道一級町村・二級町村制が廃止されました。しかし、二級町村はほとんど内容が同じ内務大臣の「指定町村」に変わっただけで、それが第二次世界大戦後の1946年(同21年)まで続きました。人口や資力、将来発展の予測などが町村制の基準になっており、当初は二級町村にも至らないということで旧制度の戸長役場のままのところもあったようです。

 北海道一級町村制・北海道二級町村制は普通町村制に準ずるとされ、一級町村制の指定を受けた町村では町村長・助役を町村会を選挙で選ぶ(北海道庁長官が認可)ことができますが、二級町村制の町村は、町村長は北海道庁長官の任命制で、住民は選ぶことができず、国政選挙に参加する公民権も与えられませんでした。議会も一級町村は条例制定ができますが二級町村の議会はできませんでした。

 ちなみに奥尻島の経過をみると、1869年(明治2年)8月15日に奥尻島全体が「後志国奥尻郡」となり、1879年(明治12年)7月15日に戸長役場が置かれ、1906年(明治39年)4月1日に北海道二級町村制が施行されて戸長役場を奥尻村役場と改称、1943年(昭和18年)に指定町村になったあと、1966年(昭和41年)に現在の「奥尻町」になっています。

 第二次世界大戦前の日本の自治体制度をみると、全国でばらばらに進んでいますが、なぜでしょうか。歴史にはすべて原因があり、経過があります。私たちは歴史を「結果」の羅列として受けとめがちですが、原因まで考えることが現在にも繋がる問題を解決することにつながります。北海道二級町村制にしても、政府は徴兵と納税を目的として制度を整備したのでしょうが、住民の側からみると選挙制度や自治制度などに差別と格差が生じています。いまだに差別や格差が残っていないか歴史から学ぶ気持ちを持ちたいと思います。

連載コラム・日本の島できごと事典その60《島嶼町村制》渡辺幸重

当初、普通町村制が適用されなかった地域

明治維新後、日本政府は急速に近代的な行政組織を整備します。1871年(明治4年)の廃藩置県は有名ですが、市町村レベルでは1878年(明治11年)に郡区町村編制法(地方三新法のひとつ)が制定され、そして現在につながる地方行政改革が1888年(明治21年)の市制・町村制、1890年(明治23年)の府県制・郡制の制定によって行われました。市制・町村制は1889年(明治22年)に施行され、同年中に北海道・香川県・沖縄県を除く44府県(東京は東京府)で、翌年2月には香川県で施行されました。しかし、北海道・沖縄県の全域と東京府・鳥取県・島根県・香川県・長崎県・熊本県・鹿児島県の一部島嶼地域には長い間、この普通市制・普通町村制は適用されませんでした。
隠岐諸島では1904年(明治37年)5月1日に施行された「島根県隠岐国ニ於ケル町村ノ制度ニ関スル件」(明治37年勅令第63号)により町村制に準ずる町村が発足しました。さらに、1908年(同41年)4月1日に「沖縄県及島嶼町村制」(明治40年勅令第46号)が施行され、青ヶ島・八丈小島を除く伊豆諸島、小笠原諸島、対馬、トカラ列島、奄美群島および沖縄県全域が対象とされました。実際に施行された時期は地域の事情によって異なり、伊豆諸島の大島、対馬、上三島・トカラ列島(旧十島村(じゅっとうそん))、奄美群島、沖縄県全域では1908年(同41年)4月1日に施行、同年のうちに伊豆諸島の八丈島で、1923年(大正12年)10月1日に伊豆諸島の利島・新島・神津島・三宅島・御蔵島での施行となりました。1921年(同10年)5月20日になって沖縄県全域が普通町村制に移行して「沖縄県及島嶼町村制」から離脱。その前年に勅令により制度の名称が「島嶼町村制」に変わっています。
島嶼町村制施行により、各地域には普通町村制よりも権限が小さい町村が生まれることになりました。奄美大島には名瀬村・笠利村・龍郷村・大和村(やまとそん)・住用村(すみようそん)・焼内村(やきうちそん)・東方村(ひがしかたそん)・鎮西村(ちんぜいそん)の8村が成立しました。それが現在は奄美市・龍郷町・瀬戸内町・大和村・宇検村(うけんそん)の1市2町2村体制になっています。上三島・トカラ列島は十島村になりましたが、このとき徴兵制は実施されたものの国会議員の選挙権や県議の選挙権・被選挙権などは認められませんでした。
普通町村制への移行は、対馬が1919年(大正8年)4月1日 、奄美群島、上三島・トカラ列島が沖縄県全域と同じ1921年(同10年)5月20日、伊豆諸島は1940年(昭和15年)4月1日に実施されました。ただし、伊豆諸島の青ヶ島、小笠原諸島の父島・母島・硫黄島は島嶼町村制の適用がないまま、伊豆諸島の他の島と同時に普通町村制が施行されました。八丈小島だけは島嶼町村制も普通町村制の適用もなく、第二次世界大戦後の1947年(同22年)10月の地方自治法施行によって宇津木村・鳥打村(とりうちむら)の2村が生まれるまで名主制が続きました。

連載コラム・日本の島できごと事典その59《近藤富蔵》渡辺幸重

『八丈実記』に描かれた流人船

近藤富蔵(1805~87)は、幕末に数回にわたって北海道(蝦夷)・千島方面を探検したことで有名な近藤重蔵の長男で、後半生のほとんどを流人として八丈島で暮らした人です。八丈島での見聞をまとめた膨大な地誌『八丈実記』72巻(清書69巻)は島にある基本的な史料をほとんどあます所なく収録しているとして現代に至るまで高い評価を受けており、柳田國男からは「日本における民俗学者の草分け」と言われました。
富蔵は若い頃は乱暴な性格だったようで、父親の別荘がある江戸三田村の土地の管理を任されたものの境界争いなどで隣家の7人を殺害し(鎗ヶ崎事件)、1827年(文政10年)に伊豆諸島・八丈島に流刑となりました。島では罪を悔いて熱心な仏教徒となり、シラミも殺さなかったと伝えられます。島民の仕事を手伝う傍ら文才を生かして旧家の系図を整え、歴史・伝説を記録したり、英語の入門書を書いたり、寺子屋で読み書きの指導をしたりしました。島の有力者の娘と一緒になり、1男2女をもうけています。1880年(明治13年)に明治政府によって赦免され、53年間の流人生活を終え、島を出て親戚への挨拶回りや墓参、西国巡礼をしたあと、2年後にはまた八丈島に戻って観音堂の堂守として暮らし、1887年(明治20年)に島で83歳の生涯を閉じました。
富蔵は1848年(嘉永元年)春に稿を起し、1855年(安政2年)に資料を主とした『八丈実記拠』28巻を完成させました。続いて1861年(文久元年)に『八丈実記』草稿72巻を書き上げ、さらに翌年にそれを『八丈実記略』1巻にまとめています。これらの著作はその後も絶えず書入れや記事の訂正・加除を行い、命のある限り精力的に島での見聞を筆記し、著作のさらなる完成を目指したようです。『八丈実記』の目次を<一海道、二名義、三地理、四土産、五沿革、六貢税、七船舶、八海嶋>と書き残していますが、実際にはそうなっていないので富蔵にとっては未完のままなのかもしれません。
1887年(明治20年)、富蔵死去後に東京府は借用していた『八丈実記』『八丈実記拠』『八丈実記略』や古文書・記録類など69冊のうち29冊を買い上げ、残り40冊を八丈島地役人に返還しました(東京府の記録に「70冊のうち30冊を買収」との表記も)。東京府はこの29冊を36冊に再編し、『八丈実記』としました。これが、のちに東京都有形文化財に指定されたものです。八丈島・長戸路家蔵の『八丈実記』もあり、その抄録が『日本庶民生活史料集成』一に収載されています。八丈実記刊行会は東京府のものを編成替して1964年から1976年にかけて緑地社から『八丈実記』を7巻本として刊行し、緑地社社長の小林秀雄がその功績により菊池寛賞を受賞しています。
冒頭で<『八丈実記』72巻(清書69巻)>と書きましたが、72巻というのは草稿全体を指しているようです。実際には東京府が返却した40冊の内容もよくわかっておらず、私たちが見ているのは東京府が買い上げた29冊分ということのようです。
図:『八丈実記』に描かれた流人船
(東京都公文書館  https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/01soumu/archives/0701syoko_kara03.htm )

連載コラム・日本の島できごと事典その58《世界5大猫スポット》渡辺幸重

相島の猫・コムギ(中日新聞ブログ「猫さんを探して」より

九州・福岡湾北方の玄界灘に浮かぶ相島(あいのしま)はいわゆる“猫の島”で、アメリカのニュース専門局・CNNが2013年に「世界5大猫スポット」の一つとして紹介して有名になりました。ところが「世界6大猫スポット」という説明も見られるので調べてみました。
CNNのWebサイトのタイトルは“5 places where cats outshine tourist attractions”(猫が観光名所を凌駕する5つの場所)で5ヶ所です。その2番目に“Japan’s cat islands”とあり、宮城県の田代島(たしろじま)と福岡県の相島の2島が挙げられています。「日本の猫島」の代表がこの2島ということかもしれません。ちなみに他の場所は「ローマのラルゴ・アルジェンティーナ広場」「トルコのリゾート地・カルカン」「台湾の侯?(ホウトン)」「米・フロリダ州のヘミングウェイ博物館」です。海外のWebサイトで同じ内容を“6 places where cats outshine tourist attractions”とするものがあるので、田代島と相島を独立させて「世界6大猫スポット」としても間違いではなさそうです。
相島が猫の島として世界的に有名になり、猫目当ての観光客が増えるとネットの書き込みに「猫が痩せていてかわいそう」「目ヤニが出たり病気になっている猫がいる」など猫の環境を問題にする声が増えました。実は、相島の猫は野性の猫として生きており、ケンカで傷だらけになったり、飢えてやせ細ったり、冬を越せなくて死んだりする現象は、自然の猫社会の生存競争の中では普通のことのようなので「かわいそう」という人間の感覚だけで言うのは微妙なところです。評判を気にした新宮町役場は公式ページで「相島の人と猫の共存について、それぞれにとって良い方法を検討しています」とし、「野生の猫」の表記を「飼い主のいない猫」に改めました(2019年7月)。猫の増加も原因の一つなので野良猫の無料不妊手術なども行っています。
さて、相島の猫がテレビ番組の主役になったことがあります。NHK「ダーウィンが来た!」に2016年11月にメスの白猫「ミュウ」、2017年11月にその子どもでオスの茶トラ猫「コムギ」、2019年7月にその姉の女王ネコ「コガネ」が主人公として出演し、ネコの野生動物としての生態が紹介されました。特にコムギは、子殺しさえするオス猫から我が子を守る行動を取り、オス猫は子育てに一切関わらないというそれまでの常識を覆しました。この発見は世界初ではないかと話題になりましたが、“野生猫の島”ならではの出来事と言えるでしょう。

 

連載コラム・日本の島できごと事典その57《10・10空襲》渡辺幸重

空襲で破壊された旧那覇市街地(沖縄県公文書館https://www.archives.pref.okinawa.jp/news/that_day/4725

第二次世界大戦末期の1944年(昭和20年)10月10日、沖縄島をはじめ先島諸島から大東諸島、奄美群島までの全域を、米軍第三機動部隊空母から発進した艦載機のべ1,396機が襲い、爆弾や焼夷弾を投下しました。これを「10・10空襲(じゅうじゅうくうしゅう)」と呼びます。特に、那覇港・旧那覇市街は第一次攻撃から第五次攻撃まで9時間にわたる波状攻撃を受け、旧那覇市街地は翌日まで続いた火災で約9割を焼失し、死者255人という犠牲を出しました。これは「那覇空襲」とも呼ばれます。沖縄島全体では330人が死亡し、455人が負傷しました。陸海軍3万余が展開していた宮古島は16機の米軍機によって2回にわたる空襲を受け、民家13軒が半焼。慶良間諸島では米軍機のべ60機が8回にわたり漁船などを機銃掃射で攻撃しました。瀬底島に停泊していた日本軍の潜水母艦は沈没、伊是名島も空襲を受け、平安座島(へんざじま)では200隻以上の山原船を焼失。大東諸島では飛行場や海軍船が銃爆撃され、海軍徴用小型船2隻が沈没、沖大東島付近では日本軍の特設掃海艇が炎上しています。日本の航空部隊は多くが地上撃破され、米軍は21機の航空機を失っただけでしたが、日本側は全体で死者668人を含む約1500人の死傷者を出し、停泊中の艦船がほとんど全滅状態になるなど甚大な被害を被りました。
このとき米軍は太平洋の島々を撃破してきて次はフィリピンへ進攻しようとしていました。10・10空襲のねらいの一つはフィリピンの日本軍を支援する南西諸島・台湾方面の日本軍基地を進攻前に破壊することであり、もう一つは「アイスバーグ作戦(沖縄上陸作戦)」用の地図を作るために必要な写真を撮影することだったといわれています。後に日本政府は那覇無差別爆撃は国際法違反だとして抗議したそうですが、街を焼き尽くす絨毯爆撃は明らかに国際法違反です。
10・10空襲のあと、米軍の空襲は激しさを増し、南西諸島を北上して九州から北海道に至るまで多くの主要都市が無差別爆撃を受けました。10・10空襲はその始まりであり、悲惨極まりない沖縄での地上戦を予告するものでもあったのです。

連載コラム・日本の島できごと事典その56《散骨島》渡辺幸重

カズラ島(「自然散骨カズラ島」

60過ぎたら死を考えろ」という言葉を何かで見た記憶があり、歳を取ると「墓はどうしようか」「葬式は」などと考えるようになりますが、遺書に残すとしても「さてその内容は」となるとなかなか決められません。私は海が好きなので海に散骨する海洋葬がいいと思いましたが、家族に手間をかけそうです。森を守る運動をやってきたので樹木葬もいいし、合同墓はもっとも簡単かもしれません。そういうとき、島根県の隠岐諸島に日本で唯一の「散骨島」があることを知りました。

 カズラ島は島前・中ノ島の北部海岸に近く、島前湾の東入口に浮かぶ無人島です。面積約1.4㏊の小さな島ですが、大山(だいせん)隠岐国立公園内にあり、一切の建築物・構築物が認められない第一種特別地域に指定されています。2008(平成20)、首都圏の葬儀会社などが出資する民間葬祭業者が島を買い取り、島内に自然散骨所を設けました。対岸に献花・献酒・献水などのお別れの儀や命日の法要などを執り行う慰霊施設を整備し、5月と9月の年2回、渡島して散骨・慰霊式を行っています。自然環境を心配する声に対して、業者は「遺灰は無害なリン酸カルシウムが主成分なので比較的早く分解されて土に還るので、環境にはまったく問題ない」と答えています。それでも環境保全や風評に配慮する形で散骨粒形や量の自主規制を行い、島を10のブロックに分けて毎年散骨場所を変えるそうです。国立公園内なので開発される心配もなく、死者は豊かな自然の中で永遠の平安を得るということなのでしょう。

 実は、日本では各地に「お墓の島」があります。沖縄島の羽地内海(はねじないかい)に浮かぶ奥武(おう)島は対岸の沖縄島の3地区の墓の島で、亀甲墓や横穴式の墓など新旧入れ混じったさまざまな墓地がみられます。死者のための島として墓参に訪れる以外は渡島が禁じられています。同じ羽地内海にはヤガンナ島やジャルマ島という墓の島もあります。北九州市の筑前諸島では貝島に6世紀に造られた13基の古墳があり、干潮時につながる藍島の墓場だったとみられています。九州・大村湾の南西部に浮かぶ前島も古代人の集団墓地と考えられる“古墳の島”です。また、かつて炭鉱の島だった長崎市の中ノ島は1893年(明治26年)に閉山したあと軍艦島として有名な端島の火葬場・墓地として利用されました。そう考えると散骨島としてのカズラ島は現代風の「お墓の島」かもしれません。

連載コラム・日本の島できごと事典その55《野良クジャク》渡辺幸重

放置され、野生化した猫や犬を「野良猫」「野良犬」と呼びますが、沖縄県の先島(さきしま)諸島には「野良クジャク」が棲んでいます。本来はインドやスリランカなどに生息するインドクジャクで、これまでに石垣島、小浜島、黒島、新城上地(あらぐすくかみじ)島、与那国島、宮古島、伊良部島で生息が確認されています。雑食性で植物やは虫類、昆虫類などを食べ、生態系への被害が懸念されることから環境省の「生態系被害防止外来種」に指定され、駆除活動が行われています。大根や芋、ほうれん草など農作物への被害も報告されています。 “連載コラム・日本の島できごと事典その55《野良クジャク》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その54《美女とネズミと神々の島》渡辺幸重

 トカラ列島は屋久島と奄美大島の間、約180kmにわたって点在する島々です。悪石島(あくせきじま)は列島のほぼ中間に位置する島で「美女とネズミと神々の島」とも呼ばれ、島内に「美女とネズミと神々の島」記念碑があります。これは朝日新聞社の秋吉茂記者の著書『美女とネズミと神々の島-かくれていた日本』(1964年)からきたもので、1960年に秋吉が悪石島に1ヶ月間滞在し、朝日新聞に10回連載した現地ルポ「底辺に生きる」がもとになっています。現在でも村営船で鹿児島から約10時間、奄美大島・名瀬港から約5時間かかりますが、当時は接岸できず艀(はしけ)で渡ったため時化のときには欠航せざるをえませんでした。ほとんど知られていなかった島の習俗や信仰、人の生き様などを伝えた内容が反響を呼び、1965年には第13回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞しています。

 私はまだ本を読んでいないので、2009年にKTS鹿児島テレビの山元強社長が書いたブログ<悪 石 島 の「美 女」を 想 う>(https://www.city.kagoshima.med.or.jp/ihou/551/551-23.htm)から内容の一端を紹介させていただくことをお許しください。それによると、「美女」とは、島の掟を破って10年前に奄美大島からきた男と同棲した278歳の女性のことで、秋吉の助けもあって隣りの諏訪乃瀬島に脱出し、新たな人生のスタートを切ったということです。ただ山元は、秋吉が「美女」としたのは島全体の女性のことも指しているようだといい、「島の娘のかわいさにくらべて、これ(大人の女性は)はなんというはげしい変貌であろう。長い間の粗食と、過労と、ハダシの生活が“花の命”をけずりとった残骸である」という文章を紹介しています。「ネズミ」とは、1935年に竹が結実して野ネズミが大量に発生し、農作物が甚大な被害を被って飢餓に陥ったことを反映しています。ネズミは海を泳いで渡ってくるともいわれます。「神々」とは、島の至るところに祀ってある「やおよろずの神々」のことで、悪石島では祭祀が多く催されます。旧盆には10日の間、「長崎船」「花踊り」「こだし踊り」「俵踊り」など7つの盆踊りがテラ・墓・釈迦堂・集落の入り口や各家の庭先などで踊られます。最終日には異形の仮面を着けた来訪神「ボゼ」が出現しますが、2017年には「悪石島のボゼ」として国の重要無形民俗文化財に指定され、翌年には「来訪神:仮面・仮装の神々」のひとつとしてユネスコ無形文化遺産に登録されました。

 目次には「米んめし」「きよらウナグの島」「ネズミさま」「神さまへの挑戦 」「ハダシの美女たち」などの言葉が見えます。ぜひ探しあてて読んでみたい書籍のひとつです。

連載コラム・日本の島できごと事典 その53《オホーツク文化》渡辺幸重

北海道の古代史は本州島とは異なり、稲作を特徴とする弥生文化がみられず縄文文化・続縄文文化、擦文(さつもん)文化、アイヌ文化と続きます。擦文文化は7世紀ごろから13世紀にかけて栄え、縄文式に代わって「木のへらで擦ったあと」がある土器が特徴です。この流れに並行して、北海道のオホーツク海沿岸には5世紀から9世紀までと推定される遺跡が分布し、続縄文文化や擦文文化とは異質な内容のためオホーツク文化と呼ばれます。オホーツク文化は、3世紀から13世紀までサハリン南部から北海道・南千島のオホーツク海沿岸部にに栄えた海洋漁猟民族の文化と思われますが、この文化を担った“オホーツク人”の正体ははっきりしません。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その53《オホーツク文化》渡辺幸重” の続きを読む