連載コラム・日本の島できごと事典 その52《オロンコ岩》渡辺幸重

北海道の知床半島北岸に網走湾に面してオロンコ岩と呼ばれるドーム状の岩島があります。陸続きになっている大きな岩で、ウトロ崎へのトンネル道路が貫通しています。頂上にはオロンコ岩チャシ遺跡があり、先住民族「オロッコ」の夏家の炉跡であるといわれます。オロンコ岩の名称はオロッコ族に由来しますが、自らは“ウィルタ”と呼んでおり、ウィルタ協会はオロッコを蔑称だとしています。
昔、オロンコ岩にはウィルタ族の砦(オロンコ岩チャシ)があり、その南西約1kmのチャシコツ崎(亀岩)にはアイヌ族の砦(ウトロチャシ)がありました。両者は戦い、アイヌが勝利したといわれますが、以下のような伝承もあります。

写真:オロンコ岩(Webサイト<お城解説「日本全国」1100情報【城旅人】>より)https://sirotabi.com/1039/

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連載コラム・日本の島できごと事典 その51《ピール島植民地政府》渡辺幸重

ナサニエル・セ-ボレーの直系子孫たち(20世紀前半撮影)

「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」という狂歌が詠まれたのは1853年6月、アメリカ東インド艦隊(司令長官:ペリー提督)が三浦半島・浦賀沖に現れたときのことです。ペリーは浦賀来航前の5月に琉球を訪れ、首里城で琉球国に通商を要求したあと小笠原諸島を探検しました。そのあと、浦賀に行き、さらに翌年3月に再訪して江戸幕府と日米和親条約を結ぶことになります。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その51《ピール島植民地政府》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その50《日本列島の誕生》渡辺幸重

パンゲア大陸

 気の遠くなりそうな古い時代からの地球の歴史を知り、大地の動きを実際に目で確かめられる地域として認定されたのが「ジオパーク」で、国内には日本ジオパークが44地域あり、そのうちの9地域がユネスコ世界ジオパークになっています(20219月現在)。ジオパークにはジオサイトという観察拠点がありますが、島や岩礁が多く含まれています。それは、火山活動など地球内部とつながる活動が表に現れ、島や岩礁として露出しているところが多いからです。

 日本列島はかつてユーラシア大陸の一部でしたが、約3,0002,000万年前に大陸の一部が分離し始め、湖状の日本海の原形が誕生し、さらに分離が進行して約1,500万年前に日本海と日本列島が形作られたといわれています。実は、日本列島が大陸の一部だったことを証明する場所が島根県の隠岐諸島にあります。隠岐の島後でみられる「隠岐片麻岩の露頭」がそれです。地底の圧力と熱によってできた約25,000万年前の変成岩で、その頃は地球上にはパンゲアと呼ばれる一つの大きな大陸がありました。大陸移動説はご存知だと思いますが、地殻変動によって大陸は少しずつ分裂していき、ユーラシア大陸ができ、その端に日本列島になった陸地があったのです。地下深くで生成された岩石はプレート活動と約600万年前の火山活動による隆起で隠岐諸島・島後の隠岐片麻岩として露出し、いま私たちの目の前にあります。

 隠岐諸島は、ユーラシア大陸と一体だった時代、湖の底だった時代、深い海底にあった時代、火山活動によって隆起した時代、島根半島と陸続きになった時代を経て約1万年前に地球の温暖化による海面の上昇で現在のような諸島を形づくりました。実に千変万化の島と言えます。2008年の初夏、隠岐で約2,000万年前の地層からワニの歯の化石が発見されました。その頃、隠岐はワニが棲むような湖の環境であったのです。すなわち、日本列島が大陸から離れ始め、湖ができ、その後日本海になったということを証明しています。

 各地のジオパークは地球のダイナミックな歴史を教えてくれます。島や岩礁はその証人なのです。

連載コラム・日本の島できごと事典 その49《ユネスコ「消滅危機言語」》渡辺幸重

前新透『竹富方言辞典』(南山舎)

2009年(平成21年)、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)は世界で2,500の言葉を「消滅危機言語」として発表しました。世界に6000~7000の言語がありますが、各地でマイナー言語 (規模の小さな言語) が消滅の危機にあり、このままでは100年のうちに半数が確実に消滅し、最悪の場合はいまの10分の1~20分の1にまで減るといわれます。ユネスコは日本では8言語・方言を取り上げ、アイヌ語を「極めて深刻」とし、八重山語(八重山方言)・与那国語(与那国方言)を「重大な危機」、八丈語(八丈方言)・奄美語(奄美方言)・国頭(くにがみ)語(国頭方言)・沖縄語(沖縄方言)・宮古語(宮古方言)を「危険」と認定しました。アイヌ語・八丈語以外は沖縄・奄美地方の言語になります。「言語の多様性は人類を豊かにしている」としてその価値を訴え、継承していく活動が起きていますが、マイナー言語はこれからどうなっていくのでしょうか。
石垣島や竹富島、波照間島などで話される伝統的な言葉(八重山語)はスマムニ、ヤイマムニと呼ばれ、話者は約4万5千人いるといわれます。同じ八重山諸島でも与那国島の言葉は八重山語に属さないとされ、地元ではドゥナンムヌイと呼ばれます。国立国語研究所の推計では与那国語の話者は2010年時点で393人で、住民でも50歳半ば以下で話せる人は稀で、年少者は理解することもできないということです。竹富島には八重山語に属する島言葉テードゥンムニを守り伝える活動があります。島の子供たちによって毎年発表会(テードゥンムニ大会)が開かれます。27年間かけて採集した方言を収録した前新(まえあら)透の『竹富方言辞典』は2011年の第59回菊池寛賞を受賞しました。奄美群島の与論島でも島の言葉ユンヌフトゥバを教える学校の授業があるなど地域一帯となって方言を守る取り組みが行われています。また、国立国語研究所は2014年から毎年、8言語・方言の記録と継承に係わっている者が一堂に会する「日本の消滅危機言語・方言サミット」を開催しています。Webには「日本の消滅危機方言の音声データを紹介するサイト」もあります。
消滅が心配されるマイナー言語は全国各地に存在します。東日本大震災時の原発事故により避難を余儀なくされた福島県浜通の地域社会でも伝統的言語の消滅が心配されています。また、同じ地域でも集落ごとに微妙に言葉の違いがあります。私の故郷は屋久島の平内(ひらうち)という小さな集落ですが、隣の集落とイントネーションが大きく異なります。東京の出身者の会に参加した地元代表が「東京に来たおかげで久しぶりに田舎の言葉をしゃべることができた」と語ったことがありました。私がしゃべる“平内弁”もすでに「極めて深刻」な消滅危機言語なのかもしれません。

 

連載コラム・日本の島できごと事典 その48《地図から消された島》渡辺幸重

1938年発行の国土地理院地形図

広島県竹原市の瀬戸内海に浮かぶ大久野島(おおくのしま)には900羽のウサギが棲んでおり、「ウサギの島」として有名です。外国の観光客にも人気で、新型コロナ禍前の2017年には約36万人が島を訪れました。その大久野島は第二次世界大戦までは日本の地図に載っておらず「地図から消された島」と呼ばれていました。なぜでしょうか。大日本帝国陸軍が秘密裏に毒ガスを製造していたからです。

大久野島には1929年(昭和4年)に毒ガス製造工場(東京第二陸軍造兵廠忠海兵器製造所)が設けられ、イペリットガスなどの化学兵器を製造しました。第二次世界大戦終戦までの生産総量は約6,600トンといわれます。化学兵器の戦争利用は1925年(大正14年)のジュネーブ議定書で国際的に禁止されましたが、当時の日本は署名をしただけで批准はしませんでした。大久野島で作られた化学物質は兵器に詰めて毒ガス兵器となり、日中戦争で用いられたとされています。

大久野島の毒ガス製造施設は植樹によって木々に隠され、憲兵が厳しく監視しました。軍機保護法に基づいて島の周囲には「立入禁止」の立て看板が建てられ、撮影も禁じられました。そして、地図からも消されてしまったのです。毒ガス兵器が保管された阿波島(あばしま)など周囲の島も一緒に消されました。

終戦前後には日本軍や占領軍の手によって島の毒ガス弾などは廃棄され、製造施設は遺棄されました。化学物質は海に放流され、毒ガス弾などは土佐沖に海洋投棄されたり、島内で焼却や埋設などにより処理されたそうです。毒ガス製造施設は占領軍の指揮の下で焼却・解体され、大久野島周辺海域に海洋投棄されました。1951年(昭和26年)以降1972年(昭和47年)まで、島内や周辺海域で毒ガス弾などの発見や被災が続き、1961年(昭和36年)の調査では、防空壕内から2.5トントラック5~6台分の毒ガスが発見されました。

毒ガス製造には陸軍の技術者や軍属、徴用工・学徒勤労動員・勤労報国隊が従事しました。のべ人数で男女6,500人以上といわれ、ほぼ全員が毒ガスによる皮膚疾患や呼吸器疾患などに罹りました。戦後処理作業に従事した人を含め“毒ガス障害者”は少なくとも約6,800人とされます。1952年(昭和27年)から広島医科大学(現広島大学医学部)がボランティアで集団検診を行いましたが、国が民間人まで広げて被災者の社会保障を制度化(「毒ガス障害者に対する救済措置要綱」)したのは1974年(昭和49年)のことでした。2015年度時点での対象者は2,073人で、平均年齢は88歳だそうです(北九州市、神奈川県の施設関連を含む)。

1988年(昭和63年)、大久野島に世界初の「毒ガス資料館」が建設されました。毒ガス製造の事実と犠牲者を出した現実を直視し、恒久平和を願うための施設です。ウサギと触れあう平和な光景の裏にある島の悲惨な歴史も知ってください。

連載コラム・日本の島できごと事典 その47《椿の島》渡辺幸重

東京都立大島公園 椿園(大島ナビHPより)

島と島はいろいろな形でつながっています。伊豆諸島の大島(伊豆大島)と宮城県気仙沼市の大島(気仙沼大島)はいずれも“椿の島”と呼ばれていますが、椿が縁となって被災時に助け合い、深い交流が続いています。2011年3月の東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)のときには伊豆大島から気仙沼大島に椿油を作る搾油機が送られ、2013年10月に台風26号が伊豆大島を襲い、土砂災害が発生したときには気仙沼大島から椿の苗と義援金が届きました。
東日本大震災で気仙沼大島は甚大な被害を受けましたが、島に住む小野寺栄喜さんは椿油工場をすべて流されてしまいました。小野寺さんは伊豆大島の日原行隆さんから椿の苗を仕入れていました。被災後の大変なときに小野寺さんから苗の代金が振り込まれたのを知った日原さんは「約束はどんな状況でも守る」という小野寺さんの姿勢に感激して気仙沼大島を訪れ、「工場を再開したい」という小野寺さんに搾油機を送り、工場で生産再開の手伝いをしたといいます。
2年後、今度は伊豆大島で台風による土砂崩れが起き、36人の住民が犠牲になりました。椿農園も土砂に飲み込まれ、荒れ地になりました。気仙沼大島の小野寺さんは伊豆大島に入り、自分の椿の苗を日原さんに贈りました。両島とも生産者の高齢化や人手不足などの問題があり、困難はまだ続いていますが、二人ともお互いの励みが大きな力になったと言います。
伊豆大島の南西約20kmに浮かぶ利島(としま)も“椿の島”です。実は、利島は椿油生産量日本一で、全国の6割近いシェアを持っているのです。皆さんが観光の島・伊豆大島で買う椿油は利島産かもしれません。島を訪れるときには島々のつながりにも注目してみてください。伊豆大島の影に隠れがちな利島ですが、春先には島の80%を覆う椿が満開の花で島を飾り、「赤い島」になります。

 

連載コラム・日本の島できごと事典 その46《広島原爆》渡辺幸重

広島原爆のキノコ雲

広島市宇品港の3㎞ほど南に似島(にのしま)という人口800人弱の島があります。1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、広島に世界で初めての原子爆弾が投下されました。このとき、爆心地から島の北端まで約8kmの似島には当時1,700人余りが住んでいましたが、通勤通学で市中へ出ていた108名が犠牲になりました(被爆後1ヶ月以内)。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その46《広島原爆》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その45《壱岐イルカ事件》渡辺幸重

壱岐イルカパーク&リゾートHPの一部

日本と欧米で価値観の違いはけっこうありますが、そのひとつに鯨やイルカに対する感情の違いがあります。

 1980年(昭和55年)229日、玄界灘に浮かぶ壱岐島(いきのしま)の北部にある無人島・辰ノ島で、漁民によって捕獲されたイルカをアメリカの動物愛護団体メンバー、デクスター・ケイトさんが網を切って逃がすという事件が起きました。ケイトさんはその日の夜、ゴムボートで辰ノ島に向かい、1,000頭ほどのオキゴンドウとバンドウイルカを囲う網を切って300頭ほどのイルカを逃がしたのです。ケイトさんは強風のため壱岐に帰れなかったため彼の妻が福岡のアメリカ領事館に救助を求め、警察や海上保安庁、漁民らが捜索の準備をしている最中、翌朝になって辰の島で漁師に発見されました。ケイトさんは威力業務妨害と器物損壊の疑いで書類送検され、裁判で有罪判決を受けました。

 イルカはブリやイカを食べたり、網を破ったりするので壱岐の勝本漁協の漁民が駆除をしているところでした。勝本漁港は江戸時代は捕鯨基地として栄え、いまでもイカ、ブリ、タイなどの漁獲で西日本有数の漁業基地です。1955年頃からイルカの被害が問題になり始め、10年ほど経つとイルカが急増し、漁業被害が続発するようになりました。漁民らは銛銃や猟銃で撃ったり、強力発音器を使って追い払おうとしたりしましたが効果がなく、イルカ漁の実績を持つ伊豆半島や和歌山県太地(たいじ)から追い込み技術を導入しました。最初は失敗の連続でしたが、1976年には大量追い込みに成功し、翌年には577頭のイルカを捕獲したそうです。ところが次の年、1,010頭のイルカを辰ノ島に追い込んで殺しているところを撮られた写真が全世界に拡散され、大きな問題に発展しました。腐敗防止のための血抜きによって海面が真っ赤な血に染まり、それが残忍な光景として流れ、「こん棒で殴り殺している」という誤報まで出ました。一躍、世界の動物愛護団体から目の敵にされる存在になったのです。

 ケイトさん側はイルカの権利擁護を主張し、有害動物ではないので駆除には正当性はないとして無罪を主張しました。世界中で食害と動物愛護をめぐる大きな論争となり、歌手のオリビア・ニュートン=ジョンが日本は野蛮な国だと公言して訪日を取り止める事態もありました。漁民の生活防衛だったということが浸透し、イルカの大群も来なくなって騒動は次第に鎮静化し、オリビア・ニュートン=ジョンもイルカと人間の共存を研究する千葉県の海洋生物研究所に2万ドルを寄付したということです。

 現在、イルカは全面捕獲禁止になりました。壱岐では観光のためイルカの町づくりが始まり、1995年(平成7年)に壱岐イルカパークがオープン、一度閉鎖されましたが2019年(平成31年)4月に「壱岐イルカパーク&リゾート」としてリニューアルオープしました。辰ノ島にはイルカの供養碑が建っています。これは駆除と関係なく1986年にイルカの大群が迷い込み、浜辺に打ち上げられたイルカを供養したものだということです。

連載コラム・日本の島できごと事典 その44《島を食う虫》渡辺幸重

かつてのホボロ島

瀬戸内海の東広島市赤碕の沖に小さな島「ホボロ島」が浮かんでいます。「美しい赤土の山肌を持っているこの島は、風雨や波に侵されて身がやせ細るばかりだったので、そこから逃げだそうとしたものの周囲の島々がじゃまをしてどこにも逃げられなかった。西方にこの島に好意を持つ藍之島があったが、その間にある島が辛く当たるので会いにも行けず、すっかり諦めて衰亡の身を横たえている」という伝説がある島です。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その44《島を食う虫》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その43《消えた国境離島》渡辺幸重

潮位観測の流れ(海上保安庁)

地図を見ると、北海道北部のオホーツク海側、宗谷郡猿払村の沖合約0.5kmに「エサンベ鼻北小島」があります。これは2014年8月に国が命名し、2016年度に国有財産台帳に記載した「領海の外縁を根拠付ける国境離島」のひとつで、1987年に行った第一管区海上保安本部による測量で、標高1.4mとされています。ところが2019年9月24日、海上保安庁は調査を行った結果「島は存在しない」と発表しました。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その43《消えた国境離島》渡辺幸重” の続きを読む