連載コラム・日本の島できごと事典 その46《広島原爆》渡辺幸重

広島原爆のキノコ雲

広島市宇品港の3㎞ほど南に似島(にのしま)という人口800人弱の島があります。1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、広島に世界で初めての原子爆弾が投下されました。このとき、爆心地から島の北端まで約8kmの似島には当時1,700人余りが住んでいましたが、通勤通学で市中へ出ていた108名が犠牲になりました(被爆後1ヶ月以内)。当日朝10時頃から被爆した負傷者が船で続々と似島に運ばれてきました。日本陸軍船舶司令部(通称「暁部隊」)が似島検疫所で重傷者を手当することにしたため似島検疫所が臨時野戦病院となったのです。昼夜を問わず負傷者の収容・治療・看護業務が行われ、原爆投下後20日間で約1万人を超える人が運ばれましたが、3、4千人とも約7割ともいわれる人が死亡しました。荼毘の煙は8月末まで続き、火葬できない遺体は海岸の防空壕に埋められたといいます。

当時の広島市内には広島大本営か゛置かれ、宇品港は出征兵士や輸送物資のための兵站基地でした。すぐ目の前にある似島には陸軍検疫所のほかに捕虜収容所や弾薬庫、軍用桟橋などの軍事施設が次々に作られ、似島は“軍の島”となっていたのです。水上特別攻撃挺「マルレ」の教育隊も配備されていました。原爆投下から26年経った1971年(昭和46年)秋に似島中学校の畑の中から617体の遺骨が発見されました。このとき広島県の中学生が次のような「似島」という歌を残しました。

にのしまは 緑の島
明るい 太陽の島
青い海があって
青い空があって
波は静かに うちよせる

誰が知っているのだろう
三十年前の その姿を

おり重なって死んだ
叫びをうずめ
白い雲がとぶ
ああ にのしま

決して許しは しないだろう
三十年前の あのことを

2004年(平成16年)7月にも85体の遺骨が発掘されています。
ちなみに、似島の捕虜収容所では第一次世界大戦で捕虜になったドイツ人のカール・ユーハイムが日本初のバウムクーヘンを焼いたといわれ、日本におけるバウムクーヘン発祥の地とされます。また、1919年(大正8年)には似島検疫所に収容されていたドイツ人捕虜チームと日本人学生チームで「日本で初めてのサッカー国際試合」ともいわれる親善試合が広島市内で行われています。