連載コラム・日本の島できごと事典 その48《地図から消された島》渡辺幸重

1938年発行の国土地理院地形図

広島県竹原市の瀬戸内海に浮かぶ大久野島(おおくのしま)には900羽のウサギが棲んでおり、「ウサギの島」として有名です。外国の観光客にも人気で、新型コロナ禍前の2017年には約36万人が島を訪れました。その大久野島は第二次世界大戦までは日本の地図に載っておらず「地図から消された島」と呼ばれていました。なぜでしょうか。大日本帝国陸軍が秘密裏に毒ガスを製造していたからです。

大久野島には1929年(昭和4年)に毒ガス製造工場(東京第二陸軍造兵廠忠海兵器製造所)が設けられ、イペリットガスなどの化学兵器を製造しました。第二次世界大戦終戦までの生産総量は約6,600トンといわれます。化学兵器の戦争利用は1925年(大正14年)のジュネーブ議定書で国際的に禁止されましたが、当時の日本は署名をしただけで批准はしませんでした。大久野島で作られた化学物質は兵器に詰めて毒ガス兵器となり、日中戦争で用いられたとされています。

大久野島の毒ガス製造施設は植樹によって木々に隠され、憲兵が厳しく監視しました。軍機保護法に基づいて島の周囲には「立入禁止」の立て看板が建てられ、撮影も禁じられました。そして、地図からも消されてしまったのです。毒ガス兵器が保管された阿波島(あばしま)など周囲の島も一緒に消されました。

終戦前後には日本軍や占領軍の手によって島の毒ガス弾などは廃棄され、製造施設は遺棄されました。化学物質は海に放流され、毒ガス弾などは土佐沖に海洋投棄されたり、島内で焼却や埋設などにより処理されたそうです。毒ガス製造施設は占領軍の指揮の下で焼却・解体され、大久野島周辺海域に海洋投棄されました。1951年(昭和26年)以降1972年(昭和47年)まで、島内や周辺海域で毒ガス弾などの発見や被災が続き、1961年(昭和36年)の調査では、防空壕内から2.5トントラック5~6台分の毒ガスが発見されました。

毒ガス製造には陸軍の技術者や軍属、徴用工・学徒勤労動員・勤労報国隊が従事しました。のべ人数で男女6,500人以上といわれ、ほぼ全員が毒ガスによる皮膚疾患や呼吸器疾患などに罹りました。戦後処理作業に従事した人を含め“毒ガス障害者”は少なくとも約6,800人とされます。1952年(昭和27年)から広島医科大学(現広島大学医学部)がボランティアで集団検診を行いましたが、国が民間人まで広げて被災者の社会保障を制度化(「毒ガス障害者に対する救済措置要綱」)したのは1974年(昭和49年)のことでした。2015年度時点での対象者は2,073人で、平均年齢は88歳だそうです(北九州市、神奈川県の施設関連を含む)。

1988年(昭和63年)、大久野島に世界初の「毒ガス資料館」が建設されました。毒ガス製造の事実と犠牲者を出した現実を直視し、恒久平和を願うための施設です。ウサギと触れあう平和な光景の裏にある島の悲惨な歴史も知ってください。