《渡来人たちの宴・外伝 その10》片山通夫

大化の改新 その後

鎌足

 

安定のための血塗られた歴史があった。
 6月19日、孝徳天皇と中大兄皇子は群臣を大槻の樹に集めて「帝道は唯一である」「暴逆(蘇我氏)は誅した。これより後は君に二政なし、臣に二朝なし」と神々に誓った。そして、大化元年に初めて元号を大化と定めた。 “《渡来人たちの宴・外伝 その10》片山通夫” の続きを読む

《渡来人たちの宴・外伝 その9》片山通夫

入鹿の首塚

大化の改新
645年(皇極天皇4年)6月14日の乙巳の変をいう。この変は天皇ではなく、皇極太上天皇とその親友とされる中臣鎌足(内臣)の主導のもと、年若い両皇子(中大兄、大海人)の協力によって推進された。この変(改革)で初めて「日本」という国号と「天皇」という称号の使用が始まったとされる。そして「大化」は無論初めての元号。  “《渡来人たちの宴・外伝 その9》片山通夫” の続きを読む

《渡来人たちの宴・外伝 その8》片山通夫

渡来人たちの技術が飛鳥寺を造った。

それまで我が国にはなかった飛鳥寺のような大伽藍寺院はどんな人が造ったのか大いに疑問だった。日本書紀に、百済から僧と仏舎利、寺工(てらたくみ)、露盤博士(ろばんのはかせ)、瓦博士(かわらのはかせ)、画工(えかき)などが渡来したという記事があり、彼ら渡来人がその任に当たったとわかる。現在奈良町の元興寺に残る「飛鳥時代の瓦」は飛鳥寺に使われていた百済から来た瓦博士の作もしくは彼の指導で焼かれたものと推測したい。なんともロマンチックな話だ。 “《渡来人たちの宴・外伝 その8》片山通夫” の続きを読む

《渡来人たちの宴・外伝 その7》片山通夫

日本で最初の仏教寺。飛鳥寺の飛鳥大仏。

仏教が飛鳥時代に伝えられた。ところが簡単に新しい文化が受け入れられたというわけではなさそうだった。時は6世紀前半。欽明天皇が仏像を拝む、つまり仏教を取り入れるべきか否か群臣にはかった。曽我稲目が大いに勧めたが物部尾輿が反対した。“崇仏論争”である。単に仏教を取り入れるかどうかの論争ではなく、政権内の権力争いでもあった。

そして用明天皇2年(587)、蘇我氏と物部氏との権力争いは武力対決に発展。蘇我氏が勝利を収め、仏教受容の道が開かれた。翌、崇峻天皇元年(588)には、蘇我氏の本拠地・飛鳥で、稲目の息子・蘇我馬子の発願により「法興寺」、地名から「飛鳥寺」とも称される寺院の建立された。仏教中心の飛鳥文化の開花であった。王族や豪族たちは競って氏寺を建立した。その最初が法興寺であり飛鳥寺と称されて現在の元興寺である。(この項続く)

《渡来人たちの宴・外伝 その6》片山通夫

高麗(こま)寺跡
高麗寺跡は、奈良盆地から南山城地域を北上する古代の主要道に近い場所にある。高麗寺は木津川という古代の水陸の交通網の要衝だった。南面する伽藍(がらん)は木津川を正面にしており、往来する船や対岸からの視線を強く意識していたと推測される。高麗寺に関連する最も古い記録は『日本書紀』の欽明天皇31(570)年条に、高句麗から使節が来訪した際、後に高麗寺が創建される山城国相楽郡に館(むろつみ)を建設し、迎接したと記されています。この時点ですでに相楽郡には一定数の渡来人が居住していたのではないかと思われる。

周囲に点在する「上狛」「下狛」などの地名は、高句麗からの渡来氏族、狛氏に由来するものとされ、高麗寺は狛氏と関連して創建されたのではないだろうか。ここにもおそらく栄華を極めた渡来人が住んでいたのは間違いない。

《渡来人たちの宴・外伝 その5》片山通夫

帰化人についての説明
 古代に海外から渡来して日本に住みついた人々,およびその子孫。平安時代以降もたえず少数の来住者があり,また近代には外国人が日本の国籍を取得することを法律上やはり帰化といっているが,来住者の数が多く,しかもそれが社会・文化の発展のうえでとくに大きな意味をもったのは,平安時代初頭までだったので,日本史上で帰化人といえば,主としてそのころまでの人々を指すのが普通である。現在では渡来人という呼称も用いられる。
改訂新版・世界大百科事典の帰化人の項目に詳しいのでその項目にリンクを貼っておきたい。

蛇足:毎日新聞から《麻生氏地元・福岡県飯塚市で開いた国政報告会で、「2000年にわたって同じ民族が、同じ言語で、同じ一つの王朝を保ち続けている国など世界中に日本しかない」と述べた。》
弥生時代、古墳時代などの渡来人の働きなどや現在のアイヌ民族に対する偏見を助長しかねないを発言と批判されよう。

 

《渡来人たちの宴・外伝 その4》片山通夫

氏姓制度が整備されつつあった古墳時代

氏姓制度(しせいせいど)は古代日本において、中央貴族、ついで地方豪族が、国家(ヤマト王権)に対する貢献度、朝廷政治上に占める地位に応じて、朝廷より氏(ウヂ)の名と姓(カバネ)の名とを授与され、その特権的地位を世襲した制度。「 氏姓の制(ウヂ・カバネのせい)」ともいい、「氏・姓」を音読して「氏姓(しせい)」ともいう。 “《渡来人たちの宴・外伝 その4》片山通夫” の続きを読む

《渡来人たちの宴・外伝 その3》片山通夫

韓国・霊岩にある王仁廟に立つ王仁像

さて王仁博士は有明海を渡って吉野ケ里遺跡付近に上陸したという。それではどこから来たのかに興味を覚えた。全羅南道霊岩(ヨンアム)郡に広大な土地を有する王仁廟がある。そこが王仁博士の生誕の地だ。王仁博士は応神天皇(実在が疑われている。第15代天皇・古墳時代)の招きで『論語』10巻と『千字文』1冊を携えてわが国に来た。同時に陶工やと瓦工など数多くの技術者を
連れていって文化を伝えたことから日本では飛鳥文化の始祖として尊敬されているとか…。

《渡来人たちの宴・外伝 その2》片山通夫

王仁博士上陸地

 謎に満ちた王仁博士だが、朝鮮半島からどこに上陸したのか筆者には謎だったが吉野ケ里遺跡を訪れた時に案内してくれた方が「王仁神社が近くにある」と案内してくれたことがあった。吉野ケ里遺跡に来た渡来人とともに有明海を通ってきたという推測はすぐに成りたつ。つまり吉野ケ里の邑のことは百済や新羅など朝鮮半島の国々にもよく知られていて、交流があったと思うわけである。

写真はその王仁神社(佐賀県)

《渡来人たちの宴・外伝 その1》片山通夫

大阪府枚方市にある「伝王仁墓」

【博士王仁を語ろう】

渡来人たちが我が国の文化、政治、経済などあらゆるジャンルで活躍したことは言うまでもない。言い換えれば古代の倭国を造った人々だったというわけだ。そんな中でよく知られた人物を紹介したい。王仁(生没年不詳)は儒教と千字文を日本に伝えた渡来人だと伝えられる。『日本書紀』によれば、王仁は、百済の使者・阿直岐(あちき)の推薦で応神天皇(第15代天皇)の皇子・莵道稚郎(うじのわきいらつこ)の教師として渡来し、諸々の書物を講じたとある。しかしながら人物の詳細については全くと言っていいほどつたえられていない。『古事記』によると、王仁吉師 (わにきし)は『論語』や『千字文』すなわち儒教思想や漢字の基礎を初めて日本にもたらしたとされている。こうした功績により、儒学が盛んになった江戸時代以降、王仁は学問の祖として崇められるようになった。 “《渡来人たちの宴・外伝 その1》片山通夫” の続きを読む