寒い冬の夜話《雪の深い夜、座敷わらしが踊りだす 004》片山通夫

座敷わらし イメージ

座敷童子(ざしきわらし)は、主に岩手県に伝わる妖怪。 座敷または蔵に住む神と言われ、家人に悪戯を働く、見た者には幸運が訪れる、家に富をもたらすなどの伝承がある。

もうかなり以前だったが、遠野の曲がり家に泊まったことがある。例にもれず雪の深い夜だった。炉が切られていて、その炉を囲むように座り、夕食を食べるのだが、たまたま入口の土間を背中に座ってしまった。顔や胸などは炉の火にあたってとても暖かかった。しかし背中は隙間風が入ってきて・・・。2階の広い座敷の真ん中に布団が敷いてあった。部屋の中は石油ストーブが一つ。暖かいはずもなく、あまり近づけることもできず・・・。

写真は残念ながら撮らなかったが、おかっぱ頭の日本人形がご丁寧に置いてあった。

遠野は様々な民話というか様々な話が伝わっていることはよくご存じだとおもう。でんでらの、河童、そして神隠し、乙爺などなど。

連載 寒い冬の夜話《姥捨て山は丹波篠山にみる「ガンコガシ」の伝説 003》片山通夫

明月神社・丹波篠山(記事とは関係ありません)

姥捨て山とは、60歳をこした老人たちは山に捨てられたという悲しい物語。貧しくて食べるものも少なく生きてゆくことができない時代の話である。楢山節考で有名である。また遠野物語(柳田国男 著)のでんでらのにも出てくる。そんな「ガンコガシ」と呼ぶ姥捨て山の伝説が丹波篠山にもあった。

前回同様篠山新聞の記事から引用する。
兵庫県篠山市の集落「見内(みうち)」では、老人を生きたまま棺桶に入れて、集落の裏山の尾根「ガンコガシ」から谷底に向けて投げ落としていたという歴史秘話が今も住民の間に伝わっています。周辺の集落では「ガンコカシ」「ガンコロガシ」などとも。
「ガン」は漢字で「龕」と書き、遺体を納める棺や輿を意味するのだそうです。そうすると、「龕転がし」=「ガンコロガシ」から変化していった感じですかね?棺ごと尾根から谷底へ 集落に伝わる「ガンコガシ」の伝説 丹波新聞 13日4月2019年より)

記録には残っていないが、貧しかった日本の農村ではこのようなことがあちこちで行われていたのではないかと思われる。
いずれにしても「食い扶持を減らすための間引き」などと同様、残酷な話だ。

連載 寒い冬の夜話《丹波篠山に見たネムリ神 002》片山通夫

天満神社 丹波篠山市
ネムリ神

なんでも不思議な話。・・・というか誰にもわからない風習のようだ。地元紙”丹波新聞”によると、《いわれ不明の正月神事 薄れ行く風習 謎の「ネムリ神」板に過去・現在の男女 住民「意味わからへん」》
とあり、兵庫県丹波篠山市の上板井集落の天満神社が舞台だ。その年の宮当番が檜の丸太から板を切り出して創る。板にはそれぞれ男女二人の図が描かれてそれが二組。正月元旦に神社の境内に祀られる。
天満神社は文安2年(1445)11月10日創建。その名の通り菅原道真が祭神である。丹波新聞によると地元の人にも「意味はさっぱり分からないようだがずっと続いている」そうである。男女二組の板は「ネムリ神」と呼ばれているが、その根拠も不明だそうである。そしていずれにしても山間の集落の風習である。農業に関係しているとみるのが妥当だと思う。

 

連載 寒い冬の夜話《こんな話、あんな風習 001》片山通夫

歌川国芳の描く歴史上の人物が妖怪と戦うおもしろい絵:インターネットから

世に「人三化七」という言葉がある。これは主に女性の容貌に関しての誹謗を表現するものだそうだ。本稿ではそのような失礼なことは決してしないつもり。重要なことなので最初にお断りしておく。また妖怪だけではなく、筆者が知った風習や民話なども紹介する予定だ。 “連載 寒い冬の夜話《こんな話、あんな風習 001》片山通夫” の続きを読む

色々ありました。

写真はイメージ

 今年はコロナで始まりコロナで終わる一年でした。この一年というイメージの写真を選んでいましたら上のようななんとなく不安を感じる一年だった気がします。
あと数時間で新しい年を迎えようとしています。皆様にとって新しい年が光り輝く幸多い年でありますように・・。 よいお年をお迎えください。

夢の物語《京の都を鬼が行く 下》片山通夫

呪いの藁人形

「呪う」とは「祝詞(のりと)」と語源的には同じで、「宣(の)る」に反復・継続の助動詞「ふ」が接続したものであり、古代の言霊信仰に由来するものと思われる。
それは「祟り」と同義語と解される。一般的にある人や世間・社会に恨みを抱いたまま亡くなった方の思いが祟りとなって具象化すると残された人が考え感じる。
しかし生きているうちに恨みを抱いた人が相手が不幸に見舞われるように思う場合、「呪いの藁人形」を思い立つ。これはよく知られているように、次のような行動をとることである。 “夢の物語《京の都を鬼が行く 下》片山通夫” の続きを読む

夢の物語《京の都を鬼が行く 中》片山通夫

いわゆる神職は神を自由に操る。

だいぶ以前から神職、つまり神主と呼ばれる職業の人たちに筆者は疑問に思っていたことがある。神職は次のことができるとか…。

 

◎降神 神籬(ひもろぎ)に神様をお招きする儀式。
◎昇神(降神に準ずる)神籬にお招きした神様にお帰りいただく儀式。
*神籬とは神社や神棚以外の場所で祭祀を行う場合、臨時に神を迎えるための依り代。
言ってみれば神職は神様をどこへでも必要に応じて呼び寄せることができ、用事が済めばお帰り願うことができるわけだ・・・・。 “夢の物語《京の都を鬼が行く 中》片山通夫” の続きを読む

夢の物語《京の都を鬼が行く 上》片山通夫

 なぜか筆者は妖怪変化に興味を覚える。怖がりのくせに、その存在を信じていないくせにである。古来いうところの「怖いもの見たさ」でもない。そんなもの見たくもない。怖いからである。
例えば深夜に大都会の雑踏の中で一人で歩いていたとする。周りは知らない人ばかりだ。そんな時にふと思う。「この人たちがもしも妖怪変化の類だったら…」

 

普通はそんなこと考えずに歩くのだが、ふとそう思うと背筋に冷気を感じて怖くなる。
またその雑踏を逃れてよく行くバーなどにたどり着く。間違いないのだが、そのバーで働く人は全く知らない人だったらと思うと今一歩が進めなく、ドアを開けずに引き返す。

ある友人は「それ病気」とこともなげに決めつける。
皆さん、そんな経験はお持ちやないですか?
“夢の物語《京の都を鬼が行く 上》片山通夫” の続きを読む