Opinion《渡来人と呼ばれた人々》:片山通夫

鬼室神社

 過日、鬼室神社(写真)というところへ行った。変わった名前の神社なので、何の予備知識もないままその名前に惹かれてのことだ。 

情報を滋賀県日野町の観光協会からいただいた。鬼室神社の項には以下のように紹介されていた。

近江朝廷が大津に都を定めた頃、現在の韓国、往時の百済(くだら)国から我国へ渡来をした多数の渡来人の中の優れた文化人であった鬼室集斯(きしつしゅうし)という高官の墓が、この神社の本殿裏の石祠に祀られているところからこの社名がつけられました。古くは不動堂と言い小野村の西の宮として江戸期まで崇拝された社であり、小野の宮座である室徒株(むろとかぶ)によって護持されてきました。また今日では鬼室集斯の父、福信(ふくしん)将軍が大韓民国忠清南道扶餘郡恩山面(ちゅうせいなんどうぷよぐんうんざんめん)の恩山別神堂にお祀りされているところから、姉妹都市としての交流が盛んに行われています。

鬼室集斯は百済の人のようだ。いわゆる渡来人である。この墓の真贋はともかく、近江の国に大津京があった。 ただ大津京は5年余りで壬申の乱の影響などもあり、廃都された。天智天皇6年(667年)に飛鳥から近江に遷都し、天皇はこの宮で正式に即位したようだ。この時代、朝鮮半島では百済が新羅と唐に攻められて亡んだ(660年)頃である。我が国にとっては白村江(はくすきのえ)まで兵を出して百済を助けようとしたが、惨敗したこともあってか、百済からの亡命者たちが大挙して我が国を頼ってきた。
 そんな事件を背景に、ちょうどまだまだ発展途上国(?)然としていた我が国は、法令などの整備や、様々な技術を百済などから来た人々の力を借りて国造りに励んだようである。鬼室集斯を例にとってみると、渡来人の倭国(日本)での活躍が理解できよう。鬼室集斯は百済の貴族・達率だったが、663年の白村江の戦いで敗れたの後に一族とともに日本へ亡命を余儀なくされた。『日本書紀』によれば、鬼室集斯は天智天皇4年(665年)2月に小錦下(しょうきんげ)の位に叙せられた。小錦下は、664年から685年まで日本で用いられた冠位である。26階中12位。

また天智天皇のときにわが国で初めて大学寮が設けられ、鬼室集斯が「学識頭」になった。今でいう文科省の大臣である。このころの日本は前述したようにまだまだ発展途上にあったため、滅びたとは言え百済の貴族である鬼室集斯を頼った。
 まだ十分統一された国家ではなく、律令を基本とする文治主義へ移行するための官僚養成が急がれていた時期であったので、学校制度創設などで百済からの亡命知識人は重用された。

 余談だが1910年、我が国はさきの戦争が敗戦に終わるまでの35年間、朝鮮半島全域を植民地にした。一部と思いたいが、日本人は朝鮮を植民地にしたことで、《学校や鉄道などインフラの整備という「良いこと」も朝鮮にしてやった》という説がまかり通っている。トランプがアメリカの大統領になった時だったか、「移民は自国へ帰れ」といったことがある。それを聞いたネイティブのアメリカ人は「へえ、トランプはせっかく大統領になったのに出身国へ帰るんだ」といったとか言わなかったとか…。

 わが国も飛鳥時代にまでさかのぼったら、渡来人にどういわれるのかしらん。

スサノオ追跡《 新羅の国・曾尸茂梨から出雲へ》片山通夫

素戔烏尊率其子 五十猛神 降到於新羅曾尸茂梨之處矣 曾尸茂梨之處 纂疏新羅之地名也 按倭名鈔高麗樂曲有蘇志摩利 疑其地風俗之歌曲乎 乃興言曰 此地吾不欲居 遂以埴土作船 乘之東渡 到于出雲國簸之河上與安藝國可愛之河上所在鳥上峰矣

 スサノオは子のイソタケルを率い新羅の曾尸茂梨(ソシモリ)に降りた(曾尸茂梨は新羅の地名である。倭名鈔(和名類聚抄)の高麗樂曲にある蘇志摩利(ソシマリ)はその地の風俗を歌う曲である。)スサノオが言うにはこの地に私は居たくない。埴土で船を作りこれに乗って東に渡り出雲国の簸之河上と安芸国可愛之河上にある鳥上峰に至った。

註:『和名類聚抄』二十巻本第10卷にある蘇志摩利の記述を引用した『先代旧事本紀』

 当時、朝鮮半島・新羅の国に曾尸茂梨(ソシモリ)というところがあり、スサノオはいつの間にかできた息子イソタケルを伴って高天原から降り立ったが「ここは自分のいるべき場所ではない」と土船を作って出雲に漕ぎ出したというのである。ただ現在のところ、ソシモリの正確な場所は確定できていない。ただ不思議なのはせっかく降り立ったソシモリが自分のいるべきところではないと結論付けたことだ。無論日本書紀という倭の国の書物なのだから、早々に出雲に来てもらわなければならないのだが。

 筆者の推測だが、この頃の新羅=朝鮮半島では鉄器が使われていたはずである。青銅器に勝る鉄器を作る技術を輸入したい倭の国はスサノオをして出雲に移動させたと思うわけである。

 今一つ面白いのは「埴土で船を作り」の部分である。埴土とは粘土質が50%以上含む土であり、排水や通気性が悪いという。つまり水を通さないから船には適しているというわけだろう。もしかして砂鉄も含有していいたのかもしれない。

スサノオ追跡《スサノオは渡来神?》片山通夫

白村江の戦い

 スサノオが、高天原を追放されて、一旦朝鮮半島に降り立ったという説があるということは前に書いた。その根拠になるのが日本書紀の記述である。
 ここでまず古事記と日本書紀の編纂時期を探ってみたい。
 と言ってもすでに知られているように、古事記は日本最古の歴史書である。その序によれば、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上された。 次に日本書紀は日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。
 こうしてみるとほとんど同時期の編纂だと言える。ではその違いと言えば、古事記は天皇家の存在の正当性を説いた部分が多く、日本書紀は日本の正当な、つまり公式の歴史書と言える。

 その日本書紀にはスサノオに関しては次のように説明されている。

 書紀には全部で六つの高天原追放神話がある。たとえば第二の「一書」ではスサノオは、安芸国の可愛(え)の川上に天降った。しかし、本文をはじめ、第一の「一書」、第三の「一書」、第四の「一書」と、多くの解釈ではやはり出雲の斐伊川上流に天降ったとしている。とくに第四の「一書」には新羅(しらぎ)を経て出雲国にある鳥上の峰に天降ったとあり、高天原から朝鮮半島を経由して出雲国へ至ったと記載されている。 この朝鮮半島を経由するルートについては第五の「一書」にも韓郷(からくに)から紀伊国を経て熊成峯(くまなりのたけ)に降りたとしるされている。第四と第五の「一書」によると、スサノオは朝鮮半島を経由しているということは、おそらくスサノオが渡来神であると考えられるんではないだろうか。

 話を戻す。古事記や日本書紀が編纂された時代と言えば、大陸や朝鮮半島はどんな時代だったのか調べてみた。
まず編纂されたのは700年代前半だと言える。この時代は当然と言えば当たり前のことだが、統一新羅の時代である。
武烈王の即位した654年から、その直系の王統が途絶える780年までの時代を中代と呼び、新羅の国力が最も充実していた時代であった。新羅は金?信が援軍を率いて、唐軍に付き随い百済へ進軍。660年に百済を滅ぼし、663年に唐軍が白村江にて倭国の水軍を破ると(白村江の戦い)、668年に唐軍が高句麗を滅亡させた戦いにも従軍した。ウイキペディア

 ここに出てくる白村江の戦いだが、663年とある。日本はこの時朝鮮半島に出兵し百済を助けたが、唐・新羅連合軍に敗れた。書紀には次の通り記載されている。

戊戌、賊將至於州柔、繞其王城。大唐軍將率戰船一百七十艘、陣烈於白村江。戊申、日本船師初至者與大唐船師合戰、日本不利而退、大唐堅陣而守。己酉、日本諸將與百濟王不觀氣象而相謂之曰、我等爭先彼應自退。更率日本亂伍中軍之卒、進打大唐堅陣之軍、大唐便自左右夾船繞戰。須臾之際官軍敗績、赴水溺死者衆、艫舳不得

唐の水軍に悩まされた完璧な負け戦だった。

 白村江の戦いはスサノオとは直接関係はない。しかしスサノオが新羅に降り立ったという日本書紀の記述に着目したい。日本書紀は663年の白村江の戦いのおよそ半世紀あとに完成している。その頃、朝鮮半島は統一新羅が治めていたことは前に述べた。
 スサノオはその統一新羅に降り立ったことになる。弥生時代にはすでに青銅や鉄器のが存在していた。それを手に入れる為に、弥生人はかの国を訪れた。『魏志』弁辰伝には弁韓の鉄を求める倭からの来訪者が書かれており、『漢書』の地理志には「楽浪海中倭人あり」とある。銅鏡、鉄製品、ガラス玉など大陸の品を入手するために、日本側では海岸で生産した塩、そして稲や生口(奴隷)を送った。伽耶には、鉄を得るために倭人が訪れていたという記述が『魏志』にある。

 これらの史実(朝鮮半島と倭との交流)から想像すると、スサノオは弥生時代の渡来人だったと思うしかないのではないか。

 しかしこれでは神話のありがた味も面白味も全くない。やはりスサノオは新羅から鉄を携えて出雲に来たと信じよう。そうでないと…。                                     

スサノオ追跡《青銅器から鉄器の時代へ》片山通夫

弥生時代の青銅器や古墳時代の豪族を飾った金銀の大刀(島根県立古代出雲歴史博物館蔵)

先に述べたように鉄器はヒッタイトが独占していたようだ。しかしヒッタイトが滅亡の危機に陥ると、製鉄と鉄器を作る技術は世界へ流出してゆく。ちょうど鉄のカーテンの向こう側にあった旧ソ連邦の核技術が研究者とともに他国へ移っていったように。

 さて本題。一般論として、鉄の方が、硬度も強度も高い。焼入れも鉄の方が優れているから、刃物を作る適性は鉄のほうが圧倒的に簡単。無論青銅でも剣は造れるが刃こぼれなどを起こしやすい。
 また青銅の原材料となる銅鉱石や錫鉱石は鉄に比べて少なくかつ高価だと言える。そこで丈夫でどこででも手に入りやすい鉄が有用だと人々は気が付いた。
 およそ武器は丈夫でなければならない。その点でも、鉄の剣は青銅の剣に比べて優れていた。 島根県立古代出雲博物館が出雲大社近くにある。写真の剣は島根県出雲市斐川町神庭の荒神谷遺跡から出土した。358本の銅剣は、全て全て中細形C類と呼ばれるもので、長さ50cm前後、重さ500gあまりと大きさもほぼ同じである。弥生時代中期後半に製作されたとみられている。この形式の銅剣の分布状況から出雲で製作された可能性が高いと思われている。

 当たり前のことだが、この大量の青銅器が出雲で造られていたということは、それなりの技術集団が存在したということになる。彼らがのちの鉄の生産に携わったのかもしれない。

スサノオ追跡 《スサノオはどこから来たのか?》片山通夫

鉄の歴史
製鉄は世界史の中で画期的な技術だった。鉄器の時代の始まりはおよそ3200年前だと言われている。ちょうどヒッタイト帝国が終焉を迎え、古代オリエント世界は一気に青銅器時代から鉄器時代に入った時期だということである。紀元前1200年ごろ、鉄を独占してきたヒッタイト帝国が滅亡し鉄の文化、技術が各地に散らばった。その技術は当然ながら、インド、中国などを経て朝鮮半島に至った。伝えたのはタタール(韃靼)だと思われる。いやその前に5~6世紀に『鉄の鋳造や金の採取の業』を専門とする騎馬民族・突厥がいた。6世紀に中央ユーラシアに存在したテュルク系遊牧国家。もともとはジュンガル盆地北部からトルファン北方の山麓にかけて住んでいた部族で、柔然の隷属の下でアルタイ山脈の南麓へ移住させられ鍛鉄奴隷として鉄工に従事したが、552年に柔然から独立すると、部族連合である突厥可汗国(突厥帝国などと呼ばれることもある)を建て、中央ユーラシアの覇者となる。582年には内紛によって東西に分裂した。彼らはいわゆる製鉄の名手だった。その技術はヒッタイトから奪ったのか学んだのか、いずれにしろヒッタイトが製鉄の源であったようだ。

さて5・6世紀頃というと我が国ではどんな時代だったか少し復習しておきたい。

弥生時代:紀元前4世紀頃から3世紀頃まで
⇒2世紀初めには鉄器が普及する(弥生時代後期)

古墳時代:3世紀半ば頃から7世紀頃まで
⇒卑弥呼(170年頃 – 248年頃) 邪馬台国の女王(在位188年頃 – 248年頃)・魏と通交し「親魏倭王」の称を得る
⇒三角縁神獣鏡(銅製)が主に近畿圏を中心として、全国各地の古墳から出土し、その総数は約500枚程度と言われる。
⇒4世紀以降、朝鮮半島で鉄資源の供給地としてのいわゆる任那地域などに進出したことが、広開土王碑文(西暦414年に建てたとされる)などからも知られる。

飛鳥時代:6世紀末から710年まで
⇒任那:倭(古代日本)が朝鮮半島南部に設置した統治機関として日本書紀に言及されている。少なくとも、下記に列挙される史実を根拠として、倭国と関連を持つ何らかの集団(倭国から派遣された官吏や軍人、大和王権に臣従した在地豪族、あるいは倭系百済官僚、等々)が一定の軍事的・経済的影響力を有していたと考えられている。

奈良時代:710年から794年まで。平城京に都が置かれた時代である。平城時代ともいう。日本仏教による鎮護国家を目指して、天平文化が花開いた時代である。 ウィキペディア

 事の真偽は定かではない。ただ筆者の妄想かもしれない。しかし、鉄文化をめぐる争いに出雲王国は敗れてヤマトに国を譲ったことだけは確かだ。 ここでややっこしい民族名を解説しておく。
ヒッタイト:インド・ヨーロッパ語族のヒッタイト語を話し、紀元前15世紀頃アナトリア半島に王国を築いた民族、またはこの民族が建国したヒッタイト帝国を指す。なお、民族としてのヒッタイトは、ヒッタイト人と表記されることもある。 他の民族が青銅器しか作れなかった時代に、高度な製鉄技術によりメソポタミアを征服した。 ウィキペディア
突厥(とっけつ):6世紀に中央ユーラシアに存在したテュルク系遊牧国家。もともとはジュンガル盆地北部からトルファン北方の山麓にかけて住んでいた部族で、柔然の隷属の下でアルタイ山脈の南麓へ移住させられ鍛鉄奴隷として鉄工に従事したが、552年に柔然から独立すると、部族連合である突厥可汗国を建て、中央ユーラシアの覇者となる。 ウィキペディア
タタール(韃靼):北アジアのモンゴル高原とシベリアとカザフステップから東ヨーロッパのリトアニアにかけての幅広い地域にかけて活動したモンゴル系、テュルク系、ツングース系およびサモエード系とフィン=ウゴル系の一部など様々な民族を指す語として様々な人々によって用いられてきた民族総称である。 ウィキペディア

新羅:新羅は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。当初は「斯蘆」と称していたが、503年に「新羅」を正式な国号とした。朝鮮半島北部の高句麗、半島南西部の百済との並立時代を経て、7世紀中頃までに朝鮮半島中部以南をほぼ統一し、高麗、李氏朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。 ウィキペディア

百済:百済は、古代の朝鮮半島西部、および南西部にあった国家。 百済の歴史はその首都の移動によって、大きく漢城時代、熊津時代、泗沘時代に分類される。漢城期には現在の京畿道を中心としていたが、高句麗の攻撃によって首都漢城が陥落し、一時的に滅亡した後は、現在の忠清南道にあった熊津へと遷って再興した。 ウィキペディア

スサノオ追跡 《スサノオはどこから来たのか?》片山通夫

  高天原で大暴れしたスサノオはついに高天原から追放された。スサノオは、そのまま新羅の曽尸茂梨(そしもり)に降りたという。ところが「この地、吾居ること欲さず」(「乃興言曰 此地吾不欲居」)と言った。 そして、息子の五十猛神(イソタケル)と共に土船で東に渡り、出雲国・斐伊川上の鳥上の峰へ到った(「遂以埴土作舟 乘之東渡 到出雲國簸川上所在 鳥上之峯」)。その後、出雲で八岐大蛇を退治した。 そのとき五十猛神が天から持ち帰った木々の種を、韓(朝鮮)の地には植えず、大八洲(おおやしま、本州のこと)に植えたので、大八州は山の地になったと言う。

 つまり、スサノオは高天原から追放されて、そのまま、大八洲(日本)には降りて来なかった。ではどこに降り立ったのか?不思議なことに朝鮮半島の新羅の国・曽尸茂梨に降り立ったのだった。随分と遠回りしたものである。どの程度の期間、新羅にいたのかは定かではない。ただ「ここは私のいるべき地ではない」とさっさと土船で東に漕ぎ出した。着いたところは出雲の国・斐伊川(ひいかわ)の上の鳥髪山(現在の船通山)。とんでもない所に土船は着いた。
 スサノオはそして出雲の国でスサノオはクシナダヒメをヤマタノオロチの魔手から救った。この時ちゃっかりとヤマタノオロチ退治と引き換えにクシナダヒメとの婚姻を約束させている。
 余談だがどうも日本の神様は好色なのが多いように思えるのは筆者の偏見か。

 なぜスサノオは新羅へ降り立ったのか。これが筆者にとっては大きな謎である。ただ当時の中国から朝鮮半島にかけては日本に比べて数段文明が進んでいた。おそらく当時の新羅は日本が青銅器文化だったのに対して、鉄器文化だったのだと思われる。

 何しろ神代の時代の話だ。あやふやなところが多い。まっすぐに出雲の国のの斐伊川上流に天降った説とともに、朝鮮半島南部の新羅を経由して出雲国へ至ったという説、または韓郷(からくに)から紀伊国を経て熊成峯(くまなりのたけ)に降りたという説までが『出雲国風土記』に記載されている。
 重要なことだがスサノオは『出雲国風土記』にある鉄関連の伝承と結びつけて、製鉄技術を朝鮮半島から伝えたと考えられている。出雲は砂鉄から製鉄し玉鋼(タマハガネ)を作るタタラという技術が存在したし、今も伝えられている。

銅鐸 銅の文化 島根県立古代出雲歴史博物館
たたら 砂鉄を熔解する 和鋼博物館蔵 

歴史の街を行く 出雲王国《スサノオ追跡 -1- 》片山通夫

スサノオ

島根県の出雲地方には古代から壮大な神話が残っている。その出典は古事記と日本書紀、所謂「記紀」である。
 その特筆すべき神がスサノオである。

 古事記には、神産みにおいて伊邪那岐命(イザナギ)が黄泉の国からほうほうの体で帰還し、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊を行った際、天照大御神、月読命に次いで鼻を濯(すす)いだときに産まれた男神である。

 スサノオは建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)というのが正式名のようだ。そして素戔男尊、素戔嗚尊、須佐乃袁尊、神須佐能袁命、須佐能乎命などと異名をもつ。
 ここでは便宜上スサノオと呼ぶこととしたい。

 アマテラスは天界を、ツキヨミは夜の世界、そしてスサノオは大海原を治めるよう言われるがスサノオは母神のいる黄泉の国へ行きたいと願った。
 その黄泉の国への入口は島根県東出雲町の「黄泉比良坂」(よもつひらさか)であるとされる。
「黄泉比良坂」は 黄泉(よみ)の国(あの世)と現世の境界とされ、古代出雲神話の中で、イザナギ(伊邪那岐)命が先立たれた最愛の妻イザナミ(伊邪那美)命を慕って黄泉の国を訪ねて行かれるその入口が、黄泉比良坂(よもつひらさか)であると伝えられている。古事記ではこの地を出雲国の伊賦夜坂(いふやざか)であるとしている。
 次にこの地に伝わる黄泉比良坂物語を松江観光協会のHPから紹介したい。

なおこの続きは7月中旬から順次掲載を予定しています!
       

黄泉比良坂

古事記や、日本書紀にあるこの神話を分かり易く、また古老の言い伝え等をまじえて、この物語としたい。

 男神イザナギの命、女神イザナミの命の二神は、天つ神の「お前たち二人心を合わせて国土を生み、もろもろの神々を生んで、天の下の国と神々を立派に作るように」との仰せに従い、オノコロ島に立って、淡路、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州といわゆる大八洲の国土を作られ、次にはその国に住む様々な神々をお生みになり、最後に火の神をお生みになったが、この時イザナミの命は女の大切な女陰を焼かれてお亡くなりになった。

 イザナギは亡くなった妻のイザナミに逢いたくて、あとを追いかけて黄泉の国へ行かれた。しかしここは死者だけのいる国であった。イザナギは大声で「我が最愛の妻イザナミよ。お前と二人で作った国はまだ作りおえておらぬ。早く還ってほしい」といわれた。けれどもイザナミは「それは残念でした。もっと早く迎えに来てくださったらよかったのに。私はもう黄泉の国の食べ物を食べてしまいました。でもあなたがわざわざ迎えに来てくださったので、何とかして還りたいので、黄泉の国の神々に相談してみましょう。しかし私が返事を申し上げるまでは絶対に来られてはいけませんよ」と消えて行かれた。イザナギは待てども待てども返事がないので、とうとうしびれを切らし約束を破って真っ暗な黄泉の国へ入り、髪にさした櫛の歯を一本折ってそれに火をつけあたりをご覧になった。そこには体中に蛆のわいたイザナミの体が横たわっており、体の八か所には雷が生まれふた目と見られぬひどい姿であった。

 驚いたイザナギは恐ろしくなって一生懸命逃げ還ろうとされた。ところがイザナミは「あれほどここへ来られぬようにと約束したのにそれを破って、私に辱をお見せになった」と大へん怒り、黄泉の国の魔女たちを使って大勢が追いかけた。追われたイザナギは、髪の飾りにしていた木の蔓を投げたら葡萄がなったり、櫛の歯を折って投げたら筍が生えた。魔女たちがそれを食べている間に逃げられたが、今度は黄泉の国の魔軍たちが大勢追いかけてきた。イザナギは黄泉比良坂の坂本まで逃げたところに折よく桃の木があり、その桃の実を投げつけてやっと退散させることが出来た。そこでイザナギは「お前が私を助けたように、この葦原の中つ国に暮らしている多くの人たちが苦しい目にあった時には助けてやってくれ」と仰せられオホカムヅミの命という名を、桃の実につけられた。

 けれども最後にはイザナミ自身が追いかけてこられたので、イザナギは黄泉比良坂にあった大きな岩(千引の石)で道をふさいでしまわれた。その岩を中にしてイザナミは「あなたが約束を破ってこんな目にあわされたから、もう私はあなたの国へは還らない」といわれた。イザナギは「私は今でもお前が恋しくてならない。けれどもそんなに腹が立つなら仕方がない。別れることにしよう」とお互いに別離のことばを交わした。イザナミは「あなたがこんなことをしたからには、これから後あなたの国の人間を毎日千人ずつ殺す」といわれた。イザナギは「お前がそんなことをするなら私は毎日千五百の産屋をたててみせる」と仰せられた。そのようなわけで日本の人口は増えるといわれている。

 このイザナミの命を黄泉津大神と申し、今の揖夜神社の祭神である。

 このように記紀などからみると夫婦喧嘩の神であり、イザナミの命は不幸な神であったようにも受けとられるが、神は人間社会の不幸を救う存在として奉ったもので、神話の意図するものは夫婦仲良くすること、また女性は出産という大役を持つもので、産後が悪くて早く他界されたイザナミの命は女性の守り神となり後世あがめられた。今の揖夜神社の元宮は五反田にあり特に女性の諸病にはご利益があったと伝えられている。また桃の実の神オホカムヅミの命とは黄泉比良坂東方の山の上にある荒神森のことではなかろうか。

イザナミが黄泉の国に隠れた後をつけて通った谷を、今もつけ谷(付谷)といい、山坂道を追っかけ上がった
坂を追谷坂(大谷坂)とよばれている。その峠には塞の神(道祖神)が祀ってあり、そこを越した所がヨミジ谷であって、ここに神蹟伝説の碑が建っている。この碑から西に行けば前記の付谷を渡り山越えして五反田、そこから勝負を越して須田方面に向かう。東方に行けば中意東越坂から、馬場に出て雉子谷を越えて高丸から安来市の岩舟方面に通じる。南方には山の峯道より上意東から荻山(京羅木山)や星上山に通じたのが大昔の道であったとは古老の語りぐさである。(比良坂神蹟保存会)

続く