宿場町シリーズ《東海道・品川宿》井上脩身

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台場造った江川英龍

江川英龍(えがわ ひでたつ)

 東京・品川沖の台場が続日本100名城に選ばれている、と知ったのは大阪府大東市の飯森城で石垣が見つかった、との記事(6月26日付毎日新聞)にふれたからだ。飯森城は戦国大名、三好長慶が1560年ごろに築城したもので、わが国で最初の石垣を施した城である可能性が高いという。飯森城は日本城郭協会が選定した続100名城に入っているというので、続100名城一覧を見ると、台場も入っていたのだ。台場の建設を幕府から命じられたのは伊豆・韮山代官の江川英龍(えがわ ひでたつ)である。江川は幼少のころから韮山と江戸の間を何度も行き来している。品川宿の湊から海をみつめ、新しい時代の到来を予感していたかもしれない。飯森城の築城から15年後、信長は武田軍を破って天下統一へと向かい、台場築城の15年後、徳川幕府が倒れる。何かの因縁なのか。ふとそんな気がして、品川宿を訪ねようとおもった。

16メートルの大鯨

 品川台場が続日本100名城に選ばれた翌年の18年1月、作家、佐々木譲氏の『英龍伝』(毎日新聞出版)が刊行された。佐々木氏は1990年、『エトロフ発緊急電』で日本推理作家協会賞を受賞。『英龍伝』は史料に基づく歴史小説だが、読者をわくわくさせる推理小説的タッチでストーリーが展開されている。私は一気にこの本を読み終えて品川宿とお台場に足を運び、英龍が何を思ったかを推理しながら歩を進めた。

 まず江川英龍の生涯をおおざっぱにふれておく。
 1801(享和元)年、伊豆・韮山代官・江川英毅の次男として生まれ、剣術家・斎藤弥九郎や画家、渡辺崋山らと交流。1835(天保6)年、35歳のとき代官就任。質素倹約につとめ、領民に種痘の接種を勧めた。伊豆沖に外国船が姿を見せることが多くなったことから、国防と開国に強く関心をもつようになる。崋山を通じて知り合った高島秋帆に弟子入りして高島流砲術を習得するとともに、西洋砲術の普及につとめる。1853(嘉永6)年のペリー来航直後、勘定吟味役に登用され、老中・阿部正弘の命で品川台場11基の築造にかかる。ここに据える大砲を造るための鉄鋼を得るために取り組んだのが韮山の反射炉建造だ。54(嘉永7)年、ペリーと幕府の間で日米和親条約が調印され、11基中5基が完成したところで工事が中止に。銃の改良にも取り組み、農兵軍の組織化を提言したが認められず、55(安政2)年、53歳で没した。跡を襲った長男・英敏のとき反射炉が完成。英敏は63(文久3)年、英龍の遺志を継ぎ、農兵軍を編成した。

 以上の予備知識を得たうえで、『英龍伝』を携え品川宿に向かった。
 品川宿は東海道の第一番目の宿場。中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿とともに「江戸四宿」とよばれた。1601(慶長6)年、品川湊の近くに設けられた品川宿は北宿、南宿、新宿に分かれていた。京・大坂への最初の宿場であり、上方からは江戸の玄関にあたる宿場だけに、そのにぎわいは他の3宿を圧倒。1843年ころの記録では、食売旅籠92軒、水茶屋64軒を数え、「北の吉原、南の品川」といわれるほどに遊興地として繁栄した。1844年1月道中奉行が摘発に乗り出した際には1348人の飯盛女が検挙されたという。
 1839(天保10)年、英龍は江戸湾防備の実情を検分する巡検副使として江戸を出発した。一行は総勢13人。ほかに人足14人、馬4頭。正使の鳥居耀蔵一行が110人、馬17頭だったのに比べると質素な行列だった。英龍一行は浦賀に向けて東海道を進む。一行が品川宿を通ったのはまぎれもない。江戸湾防備の調査が目的である以上、できるだけ海岸線に近い所を歩かねば意味をなさないからだ。
 英龍が巡検副使として歩いた11年後の1850年、西沢一鳳は江戸見聞録『皇都午睡』を著した。そのなかで品川宿について、「女郎屋は何れも大きく、浜川の方は掾先より品川沖を見晴らし、はるか向ふに、上総・房州の遠山見えて、夜は白魚を取る篝火ちらつき、漁船に網有り、釣あり、夏は納涼によく、絶景也」としたためている。この3年後にペリーが来航し、黒船騒ぎに宿場内が右往左往するはめになるのが信じられないほどに、遊郭が幅をきかせていたようだ。
 英龍がこの宿場を通り掛かったときも、西沢が見たのと変わらない情景であっただろう。だが、英龍は女遊びには目もくれなかったはずだ。おそらく品川湊に出て、東京湾を見わたしただろう。対岸の房州の山々をながめ、やがて行うであろう房州・富津での検分について思いをめぐらしたに相違ない。
 私は京浜急行の北品川駅から旧東海道を横浜方面に向かって歩きだした。道幅7、8メートル。ほぼ昔のままだ。十数分ほどすると街道から少し離れたところに「鯨塚」という三角形の石碑があった。説明板に「1798(寛政10)年5月、長さ16メートルの大鯨が漁師につかまった。鯨は浜御殿(浜離庭園)に運ばれ、11代将軍家斉は『うちよする浪は御浜のおにはぞと くじらは潮をふくはうち海』と詠んだ」とある。
 この鯨塚から約200メートルの所に「品川浦」の標識。かつてはここが海岸線だった。今は浦とは名ばかり。幅80メートルの運河が真っすぐに延びている。その両側は埋め立てられていて、高層マンションやビルが林立。房総半島はおろか東京湾すら見えず、英龍の心中に思いをはせようもない。
 英龍は大鯨のことは聞いていたかもしれない。外国の軍艦が湊まで押し寄せてきたなら大鯨騒ぎでは済むまい、とは思っただろう。だがペリー艦隊の旗艦「サスケハナ号」が全長78メートルと大鯨の5倍近くにものぼり、潮をふく代わりに黒煙を噴き上げることまで想像できたかどうか。

通行人守る銅製地蔵

 1842(天保13)年、韮山にいる英龍のもとに江戸から使いがきて「ただちに出府せよ」と命じられた。すでに高島秋帆が「乱を企てている」との謀反のかどで捕まっていた。秋帆から砲術指南を受けていた英龍は「調べを受けるのか」と暗い思いだったが、出府すると法衣に任じられた。法衣は大納言をトップとする幕府内の最下位の官位だ。朝廷では六位に該当する位で、六位の者が着る着衣が許されているころから法衣と呼ばれた。最下位とはいえ幕臣のなかで頭一つ抜け出したことを意味し、一介の代官としては破格の出世だった。
 正月を江戸で過ごして英龍は韮山に帰る。その途中、当然のことながら品川宿を通る。なにせ貴族のような位についた英龍だ。品川の遊郭が放っておくはずがない。だが、英龍からはそうした艶話がほとんど聞こえてこない。このときも、秋帆をどうすれば解放できるかで頭がいっぱいだったに違いない。蛮社の獄でひっかかった渡辺崋山を救い出すことができなかった(崋山は自害)だけに、英龍は強い焦燥感をいだいていたことは紛れもない。

 品川宿のほぼ中央に本陣がある。ここで多くの大名が宿泊したり休憩したりする。英龍には縁のない宿所だが、「大名に助けを求めることはできないか」と考えたのではないだろうか。英龍はこれまでにも老中で海防掛の松代藩主・真田幸貫とは国をどう守るかについて議論し合っている。開明派幕閣の信頼を得ている英龍にとって大名に会うことはそう難しいことではないのだ。
はたして4年後の1848(嘉永元)年、佐賀藩主・鍋島直正が参勤交代の途中、三島宿の本陣から「会いたい」と言ってきた。三島宿は韮山からは最も近い宿場だ。直正について秋帆から西洋技術の導入に積極的な大名と聞かされており、ちゅうちょなく三島宿の本陣におもむいた。直正は「長崎湾に洋式台場を築造することも構想している」などと佐賀藩の取り組みを語った。このころ、韮山で建造にかかっていた反射炉は資金難もあって暗礁に乗り上げていた。直正は「わが藩なら反射炉を造るだけのゆとりがある」と、その築造と洋式大砲の生産を買ってでた。
 以上のくだりは佐々木譲氏の想像である。フィクションには違いないが佐賀藩が反射炉を造り、大砲を生産していたことは事実だ。英龍と直正の間に何らかの話し合いが行われたとしても不思議ではない。

 さて、品川宿を行く私である。品川浦を後にして住宅密集地の路地を進むと台場小学校のわきに出た。その正門のそばに高さ4メートルほどの灯台。「なぜここに灯台?」といぶかしんで説明板を見ると「御殿山下台場(砲台)跡」とある。台場については、次項で品川台場と合わせて述べることにしよう。旧東海道にもどってしばらくすると品川神社の参道と交差する。この交差点から神社まで約300メートルの「北馬場通り」と呼ばれているこの参道に「創業宝暦十年」という畳屋がある。1760年に創業の「湊屋」だ。英龍のころ、すでに80年以上の歴史を刻んでいた。
 参道からかなり急な石段をのぼった高台に品川神社がある。柱の朱が鮮やかだ。1187(文治3)年、源頼朝によって創建されたという由緒ある神社だ。家康が関ヶ原におもむく際に戦勝祈願をしたという言い伝えがあるくらいだから、英龍がここで「異国の軍艦に負けませんように」と祈願したとしてもおかしくない。

 旧東海道と参道の交差点から品川神社とは逆の方向にすこし行くと広場に出る。その端に「御聖蹟」と記されたコンクリート製の壁面。広場の反対の端に井戸跡がある。ここが品川宿の本陣跡だ。1872(明治5)年に宿駅制度が廃止された後、警視庁品川病院になり、1938年に公園として整備された。1868(明治元)年、明治天皇の御在所になったことから、この広場が「聖蹟公園」と名づけられた。残念ながら英龍に思いをはせようにも、本陣の面影はかけらもない。

 さらに旧東海道を進むと目黒川にかかる品川橋にでる。そのたもとに灯明台が設けられている。宿場の雰囲気を出そうという地元の熱い思いの表れであろう。ここから横浜側は品川南宿だ。200メートルほど行くと品川寺の門前。山門の前に大きなお地蔵さん。穏やかな表情だ。そばの石碑に「銅造地蔵菩薩坐像」とある。「江戸六地蔵」の一つといわれ、英龍のころには街道を行く人々を見守っていたであろう。英龍が造ろうとした大砲は青銅製だ。銅と錫の合金だが、多くの藩が大砲生産に乗り出したこともあって、銅が不足していたという。銅を手に入れることに腐心していた江英龍はこのお地蔵さんと対面するたび、ため息をついたかもしれない。

宿場照らす台場灯台

 1850(嘉永3)年、韮山の英龍のところに一人の佐賀藩士が藩主・鍋島直正の書状を携えてやってきた。台場築城法について助言してほしい、との内容だった。英龍は藩士に台場の模型を見せた。オランダの築城術の本を参考に作ったもので、1・5メートル四方、実物の100分の1の大きさだという。――これも『英龍伝』からの引用だ。佐々木氏は早くから英龍は台場築城に意欲をもっていたとみる。

 3年後の1853(嘉永6)年、「異国船4隻が下田沖を通過した」との知らせが届いた。ペリー艦隊の軍艦は浦賀沖に錨をおろして居座る。久里浜でアメリカ大統領の国書を幕府側が受けとることで黒船騒ぎはひとまず収束。しかしペリーは国書に対する回答を受け取るために再来航することを告げており、その対策が幕府にとって緊急の課題になった。黒船が江戸湾深くに入り込み、江戸城に向けて大砲を打ち込んでくるという事態だけはなんとしてでも避けねばならない。
 幕府が国書を受け取ってしばらく後、勘定奉行の川路聖謨から英龍に出府の命が届いた。いつものように品川宿を通って江戸に向かう。やはり品川湊から江戸湾を見わたしただろうか。もはやこの付近での堅固な防備体制は待ったなしだ。彼の目のなかで台場をどこにどう造るかが漠然としながらも描かれていたにちがいない。
 勘定奉行の役所におもむくと、勘定吟味役格に昇格、評定所の一座に加わることになった。現在でいえば省庁の事務方トップかそれに準ずる地位だ。やがて川路から江戸警備のための検分を指示されて浦賀水道一帯とともに品川近辺を測量。台場建設について、「品川は水深が浅いので埋め立ては容易」と復命した。

 幕府は英龍の意見を採用し、品川沖に11基の台場を造ることを決定。英龍は台場築城御用掛を命じられ、築城位置を確定し、台場の設計図を作成したうえで見積もり書を提出した。埋め立て総面積は12万7500坪(約42万平方メートル)、杭木4万1000本などで、費用は7万1000両。幕府の了解を得て1、2、3番の台場建設にかかったのはペリーが浦賀を去って2カ月後だった。

 さらに老中・阿部正弘から川路を通じて台場備砲の製造の命がでた。英龍はすでに赦免されていた高島秋帆に指揮を依頼し、湯島に製砲所を設置。さらに反射炉築造の命が出たので、韮山に造ることにした。こうして台場築城と、その台場に据える大砲の製造を着々と進めているさなか、嘉永7年1月、ペリーが7隻の軍艦を率いて再び来航した。神奈川で交渉が行われ、和親条約締結、鎖国から開国へとカジが切られる。
 台場は第一~第三と第五、第六の5基が完成。第四と第七は工事の途中で中止、第8~第11は未着手のままだった。このほか番外として御殿山下の台場が嘉永7年12月に完成した。

 ペリーの再来航に際してこれらの台場が役だったか、となると疑わしい。ペリーの旗艦、サスケハナ号は口径20センチの大型ライフル砲を備えていた。射程距離は2000メートル。台場に据えつける洋式砲も射程距離ではそう劣ってはいない。だが、『ペリー提督日本遠征記』(角川ソフィア文庫)のなかの江戸湾測量に関する記述に台場のことが触れられておらず、ペリー艦隊が台場に恐れをいだいた気配はない。実際はどうだったのだろう。いずれにせよ砲戦という最悪の事態に至らず、英龍が望んでいた開国に落ちついたのだった。
 現在残っているのは第三と第六台場だけだ。第三台場は1928年、台場公園として開放された。私はJR新橋駅前からゆりかもめ(東京臨海新交通臨海線)に乗った。東京湾岸の埋め立て地を眼下に見ながら約30分後、お台場海浜公園駅に到着。高層マンションが連なる道をしばらく行くと砂浜が広がり、海辺を多くの人たちが散歩している。その海辺から向こうに見える緑の島が第三台場だ。

 品川宿の観光案内所でもらった「品川御台場物語」というパンフレットには、「第三台場は1辺が160メートル、高さ5~7メートルの石垣と土塁に囲まれた四辺形。中央のくぼ地に戦闘に備えるための陣屋、弾薬庫などが設置された」とある。海辺から台場にかかる橋を通って台場にあがる。その端の海が見渡せるところに2門の大砲のコンクリート製台座が置かれている。表面ははげてはいるが、長さは2メートルほどのしっかりとした造りだ。
 パンフレットに載っている絵図は1856(安政3)年に松本藩士が描いた第六台場で、十数門の大砲が見て取れる。第三台場もほぼ同じ形だっただろう。現在は第三台場のこの2門が残っているだけだ。その台座の前の海に灯明台が設けられ、そのわきを観光船がゆっくりとすすんでいく。さらにその向こうの岸には大型のホテルやマンション群。島の内側はパンフレットに書かれているようにほぼ正方形のくぼ地になっていて、その中央に四角の基礎台石が列をなしている。絵図には2棟の建物が描かれている。その一つは「屯所」、もう一つは「火薬蔵」とある。この中の火薬が異国軍艦に向けて使われる事態になっていたら、幕末史は大きく変わったに違いない。

 さて御殿山下の台場。「品川御台場物語」には「漁師町の陸つづきに築造された陸(おか)台場で、1957年、台場小学校の敷地に埋められた」と記されている。漁師町というのは鯨塚があった辺りを指すのだろう。
もう一度、品川小学校の灯台の所にいってみた。説明板には「明治になって埋められたが、(後に)台場の輪郭となる石垣が見つかった。この石垣に1870(明治3)年、第二台場の灯台に設けられた日本で3番目の洋式灯台を模して灯台が築かれた」とある。台場小学校の正門そばの灯台は第二台場の灯台のレプリカなのだ。
宿駅制度が廃止されたのは明治5年だから、第二台場の灯台は沖合から品川宿を照らしつつ、その末期を見届けたことになる。この灯台は国の重要文化財に指定され、現在、愛知県犬山市の博物館明治村で保存されている。

 品川の台場が海岸に近い沖合に設けられたことから、ふと沖縄の辺野古を連想した。県民の大半の意志を無視して辺野古沖に造られつつある米軍基地。これぞ現在の台場といえるのではないか。品川台場は米軍から国を守るのが目的だったが、辺野古基地は米軍のためのものである。三好長慶は天下をにらんで飯森城を築いたものの織田信長に敗れた。幕府は品川台場を造ったもののペリーに屈服せざるを得なかった。辺野古についてはメリカのいいなりになって築かれようとしている。いったいどこから何を守ろうというのだろう。

 私は品川浦のアメリカ風水上レストランを思いうかべた。若者たちはここで大いに青春を謳歌していることだろう。平和を享受できることは素晴らしい。だからこそ令和の時代の沖縄の台場に不吉な予感をおぼえるのだ。江川英龍なら何というだろう。聴いてみたいと思った。                     了

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