宿場町シリーズ《西京街道 福住宿001》文・写真 井上脩身

伊能忠敬の測量に思いはせる

『四千万歩の男』の表紙

『吉里吉里人』をはじめ、奇想天外な展開で読者を引きつける井上ひさしの作品群のなかで、『四千万歩の男』は綿密な調査、取材の上で書き上げた長編小説だ。主人公は精密な日本地図を作った伊能忠敬。江戸から蝦夷地に向かった第1次測量(1800年)を中心に、測量の苦労がビビッドに描き出され、読んでいて圧倒される。私が住む関西が全く触れられていないのがいささか不満であるが、最近、ふとしたことから隣町である丹波篠山市の福住という町に伊能の測量碑が建っていると知った。日本中を歩いて回った歩数、4000万歩のうちの一歩を刻んだ所というのだ。そこは西京街道の宿場町だったという。さっそく福住宿をたずねた。

第8次測量で丹波篠山に止宿

『伊能忠敬の日本地図』の表紙

伊能忠敬が日本地図を作ったことは小学校か中学校で習った。『四千万歩の男』は伊能の人物像を見事に表しているが、地図製作の全体像はいま一つ浮かんでこない。そこでまず渡辺一郎著『伊能忠敬の日本地図』(河出文庫)をひもといた。
伊能忠敬は1745年、上総(千葉県)九十九里浜の名主・小関五郎左衛門家の子として生まれた。17歳のとき佐原(現・香取市佐原)の酒造業・伊能家に婿入りし、商才を発揮したが、49歳で隠居。天文・暦学を志し、江戸に出て幕府天文方の高橋至時に入門した。「深川と浅草の距離を測れば地球の大きさがわかるのではないか」と考えた伊能に対し、高橋から「それは乱暴すぎる。蝦夷地辺りまで測れば妥当な数値が得られるかもしれない」とのアドバイスを受け、測量に乗り出した。
第1次測量は江戸・浅草を出発し、奥州街道を北上、津軽半島から津軽海峡を渡って渡島半島へ。襟裳岬から釧路を経て釧路半島の付け根(別海町)から折り返して、江戸に戻った。距離の測量はすべて歩数計測で行った。
第2次は1801年4月2日にスタート。伊豆半島、房総、仙台、三陸から下北半島の沿岸を測量。歩数でなく間縄を張って測量した。第3次は1802年、奥州の日本海側(出羽)と越後の沿岸に向かう。第4次は1803年、東海地方沿岸から名古屋を経て、敦賀から北陸沿岸へ。佐渡島に渡ったあと、上越路をとって江戸に戻る。
第5次からいよいよ西国測量。1805年、東海道を西に進み、紀伊半島をまわって大坂に到着。山陽道を下関まで西進し、山陰道を東に。若狭湾から大津に至る。第6次は1808年、東海道を大坂まで行き、淡路島を経て四国へ。帰途、紀伊半島を横断し、伊勢神宮に参拝して帰路に就く。第7次は1809年、九州東南部の測量。小倉から大分、宮崎を歩き、鹿児島から熊本へ。九州を横断し、本州内陸部から甲州街道を東に向かって新宿に至る。
第8次測量で本稿の主題である福住が登場する。
第8次を迎えたのは、第1次測量から11年がたった1811年、伊能忠敬66歳のときである。東海道、山陽道を経て、九州各地を測量し、佐世保で越年。年が明けた1813年、平戸から壱岐、対馬、五島列島をまわり、中国地方の内陸部に。松江、米子を経て岡山から姫路へ。ここで越年し、1814年、西脇、養父、豊岡、丹波など現在の兵庫県の各地を測量し、11月24日、篠山に到着した。
第8次伊能忠敬測量日記第25巻によると、篠山の最初の宿舎は追入村の本陣・喜蔵宅。その後、篠山城下・二階町の本陣・喜右衛門宅などに泊まり、三田をまわった後、再び喜右衛門宅に止宿し、4月1日、福住宿にやってきた。

(続く)