駅の話《北海道・駅三題》その1・片山通夫

【はじめに】私はかなり以前より「駅」に興味があった。朝は通勤や通学の人でごった返し、昼になる前には主婦と思しき人や旅行者が、時には夜勤明けと思える人も乗り降りしてくる。夕刻に近くなると通学の学生がどっと増える。夕日が沈んで夜がやってくると仕事を終えた人々が、そしてその後深夜まで駅は酔客の天下になる。
どこかに書いてあった。「駅」は人生の縮図だとか。また「終着駅」ともいわれる。そんな「様々な人生を見つめてきた駅」を思い出した。

「函館駅」

連絡船が行き来した函館港を見る。

函館は北海道の開拓史に残る街である。本州、青森辺りから津軽海峡を北へ渡るとそこが函館。色々な物語を生んだ街でもある。この街は北海道がまだ蝦夷と呼ばれていた頃、松前藩が治めていた。地名の由来は1454年と言うから室町時代、津軽の豪族河野政通が函館山の北斜面にあたる宇須岸(うすけし、由来はアイヌ語で「入江の端」・「湾内の端」を意味する「ウスケシ」・「ウショロケシ」)に館を築き、形が箱に似ていることから「箱館」と呼ばれるようになった。このほか、アイヌ語の「ハクチャシ」(浅い・砦)に由来する説もあるがいずれにしてもアイヌの言葉から名付けられた。

箱館は明治に函館となり北海道の玄関口だった。筆者の知り合いにこの街で写真館を営んでいる方がいる。彼の先祖は高知の出身だという。高知と言えば坂本龍馬を思い出す。彼も竜馬の大ファンだった。まるで実際に祖先だと思っていたのではないか。ある時京都へ遊びに来た。京都には幕末の痕跡が多い。彼の希望は当然竜馬の匂いをかぐことであるので、三条通りの辺りを案内したことを覚えている。
https://ja.kyoto.travel/ryoma/area02.html#spot_no01

函館駅はご承知のように青函連絡船の発着駅だった。筆者も何度か津軽海峡を連絡船で渡った。確か4時間程の航海だったと記憶する。

戦後間もないころ、津軽海峡には機雷が多く浮遊していたらしい。それを避けながらの航海だったので夜間は運航できなかった。昼、明るいうちに連絡船の舳先に監視の人を配置してゆっくりと進んでいたらしい。この話は鉄道の歴史を調べていてわかった。
きっと青森なり函館に無事入港すればホッをしたことだろう。その連絡船ももうない。青函トンネルと言う海の底を列車が通る時代になった。