駅の話《北海道・駅三題》その2・片山通夫

「音威子府駅」

北海道の名付け親

「おといねっぷ」と読む。アイヌ語で濁りたる泥川、漂木の堆積する川口、または切れ曲がる川尻の意味を持つ。かつては天北線が分岐する交通の要衝であり、現在も特急「宗谷」「サロベツ」を含めた全定期列車が停車し、中頓別、浜頓別、猿払、枝幸などの周辺市町村とを結ぶ路線バス・都市間バスとの乗換駅という交通の要衝。JRの特急列車の停車駅の中では、最も人口の少ない自治体で2023年7月31日時点で650人。日本国有鉄道(国鉄)、および現在の北海道旅客鉄道(JR北海道)が運営していた鉄道路線(地方交通線)である。北海道中川郡音威子府村の音威子府駅で宗谷本線から分岐し、枝幸郡中頓別町・同郡浜頓別町・宗谷郡猿払村を経て稚内市の南稚内駅で再び宗谷本線に接続した。

北海道の名付け親、松浦武四郎の話をしよう。
武四郎は文化15年(1818年)、伊勢國須川村(現三重県松阪市小野江町)に生まれた。諸国をめぐり、自らが見て、聞いたことを記録し、多くの資料を残した。その記録は、武四郎が自ら出版した著作や地図を通して、当時の人々に伝えられた。そして土地の地名、地形、行程、距離、歴史を調べ、人口、風俗、言い伝えを聞き取りなど、さまざまな調査を行い、その記録は『初航蝦夷日誌』・『再航蝦夷日誌』・『三航蝦夷』などの日誌風の地誌や、『石狩日誌』・『唐太日誌』・『久摺日誌』・『後方羊蹄日誌』・『知床日誌』などの大衆的な旅行案内、蝦夷地の地図など多くの出版物を出版した。
この多くの著作は、地図製作の基本資料となり、非常に多くの地名を収録していることから、アイヌ語地名研究の基本文献ともなっている。

時代が明治にかわり、武四郎は明治新政府から蝦夷地開拓御用掛の仕事として蝦夷地に代わる名称を考えるよう依頼され、「道名選定上申書」を提出し、その六つの候補の中から「北加伊道」が取り上げられた。「加伊」は、アイヌの人々がお互いを呼び合う「カイノー」が由来で、「人間」という意味らしい。
「北加伊道」は「北の大地に住む人の国」という意味であり、武四郎のアイヌ民族の人々への気持ちを込めた名称だった。明治新政府は「加伊」を「海」に改め、現在の「北海道」となった。

参考・引用 松浦武四郎記念館