駅の話《北海道・駅三題》その3・片山通夫

「稚内桟橋駅跡」

北防波堤ドーム

稚内桟橋駅の北防波堤ドームは、北埠頭が旧樺太航路の発着場として使われていた時、ここに通じる道路や鉄道への波のしぶきがかかるのを防ぐ目的で昭和6年から昭和11年にかけて建設された。
このドームの設計者は北海道大学を卒業して稚内築港事務所に赴任してきたばかりの26才の技師、土屋実氏でした。土屋氏は大学で学んだコンクリート工事の知識を生かし、設計から工事の指揮まで全てひとりで行いました。延長424m、高さ13.8m、半アーチ型の波よけに古代ギリシャ建築を思わせるような太い円柱とアーチの回廊を持ち、当時としては世界でも類を見ない構造物でした。 (稚内港湾事務所)

稚内桟橋駅では様々なドラマが生まれた。1905年、日露戦争に勝利した日本は樺太の南半分、北緯50度線以南を日本領とした。樺太の大泊(現コルサコフ)と稚内を結ぶ稚迫(ちはく)連絡船が就航(1923年~1945年)した。この航路を利用した有名人に宮澤賢治や岡田嘉子がいた。
宮澤賢治は妹の死を悲しんで傷心の旅に樺太を選び、「挽歌」をテーマにして数々の作品を生んだ。また岡田嘉子は杉本良吉と共に1937年12月、厳冬の地吹雪の中、樺太国境を超えてソ連に越境、亡命した。

宗谷

1945年、戦争は終わり日本の敗戦が決まった。樺太にいた日本人は先を争って北海道へ逃げた。最後の稚迫連絡船は「宗谷」で8月24日だ。
連絡船に乗らずに自力で宗谷海峡を渡った人々もいた。主に漁船を頼った。

稚内に着くとそれぞれの行き先へ列車でゆく。この時当時の国鉄は「行き先の書かれていない白切符」を樺太からの引揚者に配布した。

現在、日本最北端の駅は稚内駅である。

※宮沢賢治:日本の詩人、童話作家。 仏教信仰と農民生活に根ざした創作を行った。
※岡田嘉子:日本及びソビエト連邦で20世紀に活動していた女優、アナウンサー。1938年にソビエトに亡命し「雪の樺太・恋の逃避行」と騒がれた。