春の宵物語《行く春(ゆくはる) 晩春》片山通夫

竹原・広島(イメージ写真)

過ぎ去ろうという春のことだ。晩春は「4月5日の清明から5月6日頃の立夏の前日」までということになってる。晩春は長い…? 二十四節気で見ると、5月上旬までが晩春と考えるのが良いようだ。
そこ行く春は夏を迎える時期のころと見える。初夏。春は長い冬が終わり、花が咲き鳥が啼くいわゆる陽春をイメージできるのだが、行く春は悲しい

 

春の宵物語《春の和歌》片山通夫

見渡せば柳桜をこきまぜて
都ぞ春の錦なりける

久方の光のどけき春の日に
しづ心なく花の散るらむ

桜花散りぬる風のなごりには
水なき空に波ぞ立ちける

あえて現代語には訳さない。今更・・・。

最後の和歌の「水なき空に波ぞ立ちける」とは「水のない空に花びらの余波がたっている」という意味だそうだ。つまり散った桜の花びらが空に漂ているというほどの意味なのか。
昔の人は難しい表現を楽しんだようだ。(古今和歌集より)

春の宵物語《香炉峰の雪》片山通夫

イメージ写真

昔、定かな時かは忘れたが、枕草子を国語なのか古典なのかで習ったとき、清少納言という女性は何とも嫌味な人だとと思ったことがある。そう、例の香炉峰の雪のくだりだ。
お忘れになられた方もおられるだろうから少し書いてみる。

雪のいと高う降りたるを例ならず御格子まゐりて、炭櫃に火おこして、物語などして集まりさぶらうに、「少納言よ。香炉峰の雪いかならむ。」
と仰せらるれば、御格子上げさせて、御簾を高く上げたれば、笑はせたまふ。
(清少納言「枕草子」より)

中宮・藤原定子が清少納言に「少納言よ。香炉峰の雪いかならむ。」と問われて、格子をあけてミスを挙げると定子はお笑いになった。

ざっとこんなことなのだが、清少納言が自分の「功」を自慢げに自作の随筆である枕草子に書き留めたことにいやなイメージがあった。なんて自己主張の強い女性なんだと・・・。

こう思った当時は若かった。今ならそこまで考えないで、必死に生きる当時の女性の姿を「観察」するまでだ。

春の宵物語《赤い真っ赤なハマナス》片山通夫

田中邦衛さん・映画「網走番外地」のポスターから

先日、田中邦衛という名優が亡くなられた。事故でも大病でもなく。「網走番外地」という映画がある。彼はこの映画に出ておられたとか。1965年「網走番外地」(参考写真)第一作で「網走駅」として囚人を駅から護送するシーンのロケ地として用いられたという駅・北浜駅には行った。

ハマナスは花期は初夏から夏(6 – 8月頃)。枝先に1 – 3個ほど紅紫色の5弁花を咲かせ、甘い芳香があるらしいが、決して「赤い真っ赤な」花ではない。けれども健さんが歌う網走番外地では「赤い真っ赤なハマナスが・・」。きっと網走番外地では真っ赤なハマナスが咲くのだろう。

筆者がハマナスを知ったのは全くの偶然だ。ある先輩を琵琶湖の北の町・長浜の喫茶店で待っていた時に、ジュークボックス(古い!)から流れていたのを漫然と聞いた時・・・。

一緒にいた友人が知ってるか?と聞いてきた。無論知らなかった。
大体網走なんてよく知らない。全くとは言えないのは、高校時代の夏休みに一人で貧乏旅行をした時にチラッと立ち寄った程度だ。まさかあの網走に刑務所があってなんて知る由もない。なんでもこの歌は「網走番外地」という映画の主題歌。知らなかったけれど何か心に引っかかる歌だ。ハマナスをご存じですか?

連載コラム・日本の島できごと事典 その18《通気口の島》渡辺幸重

三池炭鉱模式断面図B

盆踊りでおなじみ、「♪月が出た出た」の炭鉱節は九州・三池炭鉱の歌です。父親が宴会でいつも歌っていました。私は子どもの頃に「男は炭鉱に、女は紡績に働きに行ってどっちも肺を病んで帰ってくる」と聞いた記憶があり、炭鉱にはどんよりと暗く重いイメージしかありません。映画や本や爆発事故のニュースでも悲惨さだけが伝わりました。大人になって筑豊の炭鉱住宅に泊まったときに、目の前に巨大なぼた山が迫り、その迫力に圧倒され、炭鉱が国家の大きな力によって動かされていたことを知りました。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その18《通気口の島》渡辺幸重” の続きを読む

春の宵物語《流氷に近い駅》片山通夫

網走から釧路へJR釧網本線が200分前後をかけて走っている。3時間半程度かかる計算だ。網走を出てしばらくすると、オホーツク海に沿って南下する。途中に北浜という駅がある。ホームはオホーツク海に面している。何もないが何もないところがすばらしい。 蛇足ながらここあたりは北緯44度らしい。 “春の宵物語《流氷に近い駅》片山通夫” の続きを読む

春の宵物語《流氷の話002》片山通夫

アムール河口付近地図

流氷はアムール川の河口で生まれてオホーツク海を南下してくるということは前回書いた。オホーツク海は海というくらいだから海水、つまり塩水である。では流氷の氷は塩っ辛いのか?答えは若干塩っ辛いということらしい。アムール川の河口あたりは氷点下30度にもなる。ちなみに3月6日は最高気温マイナス19度、最低気温マイナス33度ということらしい。塩水は濃度にもよるけどマイナス20度でも凍らない。つまりアムール川の河口付近はほとんど真水なのでこれが凍って流れ出して流氷となるのかもしれない。
つまり流氷はアムール川の水がオホーツク海に流れこみ、塩分濃度が薄まった部分が冷やされて氷になるというわけ。(知らんけど。)

 

連載コラム・日本の島できごと事典 その17《まだら節・ハイヤ節》渡辺幸重

Youtubeより

島は閉鎖的だと思われがちですが、島を取り巻く海は世界に通じています。漁業や交易によって島同士・港同士が結びつき、モノだけでなく唄や踊り、祭りも伝わりました。
「♪めでためでたの’若松様よ枝も栄える葉も茂る」という文句をご存知の方は多いでしょう。これはもともと「まだら節」という唄の文句で、佐賀県唐津市の馬渡島(まだらじま)で船乗り唄(漁師唄)として生まれました。これが九州地方で広がり、鹿児島県の「まだら節」、長崎県の「五島列島まだら」「諫早まだら」、佐賀県の「紀州まだら」「伊万里まだら」などになりました。さらに日本海を行き来する北前船や出稼ぎ漁労などによって北上し、石川県の「七尾まだら」「輪島まだら」となり、富山県の「魚津まだら」「岩瀬まだら」「新湊めでた」などとなって各地に広まりました。富山県の国選択無形民俗文化財「麦や節」なども元歌は「まだら節」だといわれています。ところが唄のふるさと・馬渡島では大正年間に伝承が途絶えていました。1999年(平成11年)になって馬渡島婦人会によって80年ぶりの復活を遂げ、本家の意地を見せました。

宴会の席で心地よいリズムで歌い踊るハイヤ節も同じように全国に伝わり、40カ所以上にハイヤ系民謡が残るといわれています。そのルーツは熊本県天草地方の牛深地区で、「二上がり甚句」に奄美「六調」の熱狂的なリズムが加わって「牛深ハイヤ節」が誕生したといわれます。ハイヤは「ハエの風(南風)」のことでハイヤ節を漢字で「南風節」と書いたりします。ハイヤ節も九州に広がり、まだら節と同じルートで北にも伝わって島根県の「浜田節」、京都府の「ハイヤ踊り(宮津)」、新潟県の「佐渡おけさ」「寺泊おけさ」、山形県の「庄内ハエヤ節」、青森県の「津軽アイヤ節」、北海道の「江差餅つきばやし」などへと形を変えました。牛深では毎年「牛深ハイヤ節全国大会」が開催されるそうです。
ハイヤ節の発祥地をめぐっては、牛深のほかに鹿児島(ハンヤ節)あるいは長崎県平戸市田助とする説もありますが、ともかく、コロナ禍にあっても唄を楽しみ、踊りで発散する文化を今後も伝えていきたいものです。

シリーズ とりとめのない話《鈍行(どんこう・鈍行列車)004》中川眞須良

今はもうすっかり、耳にすることがなくなった言葉に鈍行がある。辞書に「(急行に対して言う)普通列車の俗称亅とある。今のJRが国鉄時代の通常語の一つであろう。「普通 」に定義のようなものがあるのかは知らない。少なくとも. 各駅停車ではない。.スピードが遅いわけではない。.急行より所要時間が長いわけでもない。

参考 大阪→直江津(北陸本線) /天王寺→新宮(紀勢線) 等に 急行より所要時間が短い普通列車があった。

しかしそれはさておき、今回はずばり「鈍行亅の話である
文字のとうり  なのである、ゆっくりなのである、のろま、にぶいのである、少し表現をかえれば のんびり 走行なのである。

国鉄時代、鈍行 を時刻表内でさがし全区間乗車を楽しんだ記憶は、今なお鮮明である。そのいくつかの普通列車を記してみれば――――、

乗車時間 延着時間を含め、23時間40分(上野→青森、奥羽線経由)ダイヤ上22時間45分)
秋田県北部、陣場駅を出て矢立トンネルへ向かうSL重連(前後に一両ずつ)の煙のすごさは表現に尽くし難い。速度は時速20Kmほどだが・・・・。

走行距離、 最長773km (大阪→八代、山陽線 鹿児島線経由) 東海道線 山陽線牽引機関車  EFー58のトルクのすごさを何度も体感。

深夜時間帯の停車駅  昼間の急行よりも少ない。
鈍行の仮面を被った怪し普通列車。広島駅出発時の乗車率約6割。

牽引機関車交換回数 最多6回 (草津→和歌山市 列車番号742)
交換駅 柘植.亀山.多気.新宮.紀伊田辺.御坊
交換機関車 SL2機種 DDー51 DFー50
多気駅にて 機関車交換時、信号保安員だろうか 緑の旗の振り方のかっこい 事この上ない。
同駅機関車交換時間、本ダイヤ中最短 5.5分

一つの駅の停車時間 最長1時間25分 (紀勢本線上り 紀伊田辺駅 和歌山市→松阪)
利用客途中下車してマーケットで夕食材の買い物。
駅員曰く「以前は停車時間 もう少し長くこの間に銭湯へ行くお客様もいました」。

*毎日満員 別称 出帳夜行列車!
大阪→東京(東海道線)満員のため床に寝る人多数。新聞紙散乱。
東京着午前6時前、利用客の多く、駅傍銭湯へ殺到。ここもまた満員。

1965年頃の国鉄一人旅の記憶、書き綴ればきリがありません。隣席したお客様はもちろん、駅長、駅員、信号保安員、 機関士、車掌、駅弁売りのおばさん等の多くの皆さんから人生の格言のような言葉をたくさんいただきました。今想えば、ただただ感謝です。