連載コラム「日本の島できごと事典(その22)」カネミ油症事件

カネミ油症50年記念誌 発行 五島市

 

1968年(昭和43年)10月、「史上最悪の食中毒事件」「国内最大規模の食品公害」と呼ばれる「カネミ油症事件」が発覚しました。これは、ポリ塩化ビフェニール(PCB)が混入したカネミ倉庫(北九州市)製の米ぬか油が販売され、健康被害を訴える人が全国で1万4千人を超えた(1969年7月時点)という事件です。認定患者数はいまでも増え続けており、2020年3月時点の累計認定患者数は西日本を中心に2,345人います。患者らの運動により2012年に被害者救済法が成立し、発生時に認定患者と同居していた家族も一定の症状があれば患者とみなされるようになりましたが1969年以降に生まれた子や孫の救済は進んでいません。今年になって国が認定患者の子を対象に健康実態調査を実施する方針であることがわかりました。公的機関が次世代調査を行うのは初めてということです。天ぷらやフライを揚げる高熱のなかでPCBが猛毒のダイオキシン類に変わると考えられ、“奇病”といわれる症状に悩まされ人もおり、出産障害も指摘されています。病気や偏見・差別との戦いは50年以上経った今でも続いているのです。
患者は長崎県五島列島の福江島と奈留島に集中しています。全国の認定患者数の4割以上が長崎県で、その9割以上が五島市です。福江島・玉之浦地区と奈留島だけで全国の約4割を占めます。奈留島では1968年2月頃から「安くて健康にいい」と評判の米ぬか油が入ってきたそうです。決して裕福ではなかった人々は喜んで油を買い求めました。奈留島では12店で161缶、玉之浦では1店で50缶が販売されました(推定)。販売数では奈留島が玉之浦の3倍ですが、認定患者数は逆に奈留島が玉之浦の3分の1にとどまっています。事件発覚当時、玉之浦や長崎市などで健康被害の届け出が相次いだときにも奈留島での届出はゼロだったそうです。このため奈留島を“沈黙の島”と形容する報道もあります。これは、売り手と買い手が地縁・血縁で濃密な人間関係があったことや偏見・差別を恐れたから届け出なかったといわれています。販売店のなかには被害を拡大させた心苦しさから症状がありながらもいまだに油症検診を受けていない人もいるそうです。
私は、この“沈黙”を小さな島の特殊な出来事とは思いません。日本社会全体が抱える“病症”だと思うのです。日本の政治の動きを見ると濃密な関係の集団の論理で、意見の異なる集団や国民を黙らせるという構図が見えてきます。上から下までそうなってしまっては日本社会はよくなりません。“シマ社会”を根本から作り替える必要性を感じます。

五島列島ではいま、五島特産の椿油を使っています。

 

連載コラム・日本の島できごと事典 その21《悲恋伝説》渡辺幸重

無人島・姫島

 全国各地の島々に数々の悲恋物語が伝わり、地名や歌にも多く残っています。詩人なら「島の旅情が恋心を誘う」とでも言うのでしょうが、海難事故や戦争とからむものもあり、単純なものばかりではありません。

高知県の豊後水道南部・宿毛湾口に浮かぶ無人島・姫島は「姫島(玉姫)伝説」の舞台です。

 昔、姫島の東方約4kmにある沖の島の母島(もしま)という集落の男が京に上って暮らすうちに玉姫という美しい姫君と恋仲になりました。やがて男は国に帰ることになったのですが、玉姫と別れがたく一緒に沖の島に帰ることになりました。ところが、この男には島に妻がいたのです。島に近づくと男は玉姫に妻のことを打ち明け、あろうことか、近くの無人島に玉姫を降ろし、泣き悲しむ姫を残して自分だけ故郷に帰ったのです。男は、妻や親戚との話がつかず、時間だけが過ぎるなかで人々の反対をおしきって無人島に玉姫を迎えに行きますが、玉姫は島の荒磯の岩の上で一人さみしく死んでいたのです。人々は姫をあわれに思い、この無人島を姫島と呼ぶようになりました。

 今風に言えば、男は「出張中に不倫をした」となり、その事実を隠し姫を死なせたひどい男ということになります。そして、厳しい制裁を受けるでしょう。小説にもなりそうなリアルな話です。姫島の名は横から見た島の形が裸の女の人が寝ている姿に似ているからとも言われます。「のど仏がある」と指摘した人もいますが、無視されたようです。

 九州・水俣には「恋路島物語」が伝わります。

 水俣港の前に浮かぶ無人島・恋路島には「恋の浦」という地名があり、島の東部沖に「妻恋岩」があります。戦国時代に九州制覇をめざした肥前の竜造寺隆信が島原の有馬義純を攻めたとき、薩摩の島津勢が有馬の援軍として出陣。その中に川上左京亮(さきょうのすけ)忠堅(ただかた)という27歳の武将がいました。このとき忠堅の新妻は左京亮を見送ったあと夫を恋うる心から小島に渡って石室にこもり、海辺に石を積み上げて夫の武運を祈り続けたといいます。そして、恋慕の思いを募らせたまま夫の帰りを待たずして淋しく島でこの世を去りました。この小島が恋路島で、恋の浦は祈ったところ、妻恋岩は積んだ石の跡ということです。

 実は、左京亮は、竜造寺隆信を討ち取った島津軍の有力武将です。なぜ新妻は死を賭してまで祈らなければならなかったのでしょうか。

 伝説というものはおもしろいものです。遠く海原をみつめながら島の海岸でじっと物思いにふければ、きっと悲恋にロマンを感じるでしょう。

姫島の写真(「みんなの観光協会」から)

連載コラム・日本の島できごと事典 その20《選挙権のない島》渡辺幸重

 日本でいちばん人口が少ない自治体(村)は伊豆諸島・青ヶ島村で、2015年国勢調査では178人となっています(原発事故のため避難者が多い福島県の飯舘村と葛尾村を除く)。“鳥も通わぬ”といわれた八丈島からさらに約64km南下したところにあるのが面積5.96㎢の小さな青ヶ島です。

 日本で初めての選挙が行われたのは大日本帝国憲法発布翌年の1890年(明治23年)の衆議院議員選挙のときです。選挙権を持つのは、直接国税を15円以上納めている満25歳以上の男性のみで、1925年(大正14年)になって25歳以上のすべての男性に広がりました。満20歳以上の男女すべての日本国民が選挙権を持つようになったのは1945年(昭和20年)の第二次世界大戦後になってからのことです。ところが、青ヶ島で初めて国政選挙が行われたのは1956年(昭和31年)78日の参議院議員選挙でした。青ヶ島の住民には明治時代から敗戦10年後に至るまで選挙に参加することができず、憲法違反の基本人権剥奪が続いていたのです。

 公職選挙法第8条には「交通至難の島その他の地において、この法律の規定を適用し難い事項については、政令で特別の定をすることができる」とあり、同法施行令第147条には「東京都八丈支庁管内の青ヶ島村においては、衆議院議員、参議院議員、東京都の議会の議員若しくは長又は教育委員会の委員の選挙は、当分の間、行なわない」とありました。これが195666日の改正まで存在したのです。

 昭和20年代当時、島の中学生は作文に次のように書いています。

「(新しい憲法に)国民は自由、平等、国の主人公だと書いてあるとおそわった。けど、それはうそだと思う」

「この島の人たちには選挙権がありません。えらい人たちは口先きばかりで、実際にやっていないのです。便利なところでも不便なところでも、住んでいるのは日本人なのです」
「口ばっかりの民主主義はほしくない。ぼくはくやしい。かなしい」

 投票箱を運ぶのが間に合わない、という理由だけで青ヶ島の人だけ選挙権が奪われました。私たちはこの歴史を忘れることなく、かつての島の中学生の声を自分の気持ちのなかにあらためて受けとめたいと思います。

※写真は<青ヶ島青ヶ島村評判&案内| トリップドットコム>より

 

連載コラム・日本の島できごと事典 その19《日本最西端の地》渡辺幸重

與邦国地図  地図をクリックすれば拡大

「日本最西端の地はどこですか」とたずねられると多くの人が「与那国島の西崎(いりざき)」と答えるのではないでしょうか。それは2019年(平成31)6月までは正解でした。いまでも「有人島の最西端」という意味では正解ですが、無人島を含めれば「トゥイシ」が正解になります。
トゥイシは西崎の北北西約260m、北緯24度27分5.0秒・東経122度55分57.0秒にある岩で、国土地理院は国土の東西南北端を国土地理院の2万5千分の1地形図に基づいて決定しているため、トゥイシがこの地図に記載された2019年に西崎に代わって日本最西端の地となりました。東西方向に約110mずれたことになります。日本政府は近年、領海や排他的経済水域(EEZ)を広げるためにやっきになって起点となる無人島に名前をつけていますが、トゥイシはその前から海上保安庁の航空レーザー測量に基づく海図改版(2016年)に記載され、すでに起点となっていたため最西端の地点の変更による日本の領海やEEZの変更はありませんでした。与那国島の地図を見てもらえばわかりますが、日本政府は住民の反対を押し切って2016年3月に陸上自衛隊与那国駐屯地を開設しました。移住した自衛隊員とその家族約250人は島の人口の15%近くを占めます。過酷な人頭税制度に苦しんだ象徴である「久部良(くぶら)バリ(割)」の字が地図にあるのもわかるでしょうか。税負担に耐えかねて島中の妊婦に割れ目を跳ばせ、人口調節を行ったと伝わるところです。国境の島の過酷な歴史と軍事要塞化-なんとも切ない、割り切れない思いを国土最西端の地に感じます。
ちなみに、沖縄の日本復帰前に「日本最西端の地」とされていたのは、五島列島福江島の南西約60km、男女群島の北西約35km、東シナ海に浮かぶ孤立した岩礁群「肥前鳥島」(北緯32度14分37秒・東経128度6分16秒)でした。 肥前鳥島はかつては“島”とは認められない“岩”でしたが、韓国政府が2006年頃からEEZの起点を鬱陵(うるるん)島から竹島に変更すると主張したため、日本政府が対抗して肥前鳥島を“島”に昇格し、日本側のEEZの起点とするようになったといわれます。島嶼(島や岩礁)にとって国の都合で勝手に扱われるのは迷惑千万なことでしょう。

連載コラム・日本の島できごと事典 その18《通気口の島》渡辺幸重

三池炭鉱模式断面図B

盆踊りでおなじみ、「♪月が出た出た」の炭鉱節は九州・三池炭鉱の歌です。父親が宴会でいつも歌っていました。私は子どもの頃に「男は炭鉱に、女は紡績に働きに行ってどっちも肺を病んで帰ってくる」と聞いた記憶があり、炭鉱にはどんよりと暗く重いイメージしかありません。映画や本や爆発事故のニュースでも悲惨さだけが伝わりました。大人になって筑豊の炭鉱住宅に泊まったときに、目の前に巨大なぼた山が迫り、その迫力に圧倒され、炭鉱が国家の大きな力によって動かされていたことを知りました。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その18《通気口の島》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その17《まだら節・ハイヤ節》渡辺幸重

Youtubeより

島は閉鎖的だと思われがちですが、島を取り巻く海は世界に通じています。漁業や交易によって島同士・港同士が結びつき、モノだけでなく唄や踊り、祭りも伝わりました。
「♪めでためでたの’若松様よ枝も栄える葉も茂る」という文句をご存知の方は多いでしょう。これはもともと「まだら節」という唄の文句で、佐賀県唐津市の馬渡島(まだらじま)で船乗り唄(漁師唄)として生まれました。これが九州地方で広がり、鹿児島県の「まだら節」、長崎県の「五島列島まだら」「諫早まだら」、佐賀県の「紀州まだら」「伊万里まだら」などになりました。さらに日本海を行き来する北前船や出稼ぎ漁労などによって北上し、石川県の「七尾まだら」「輪島まだら」となり、富山県の「魚津まだら」「岩瀬まだら」「新湊めでた」などとなって各地に広まりました。富山県の国選択無形民俗文化財「麦や節」なども元歌は「まだら節」だといわれています。ところが唄のふるさと・馬渡島では大正年間に伝承が途絶えていました。1999年(平成11年)になって馬渡島婦人会によって80年ぶりの復活を遂げ、本家の意地を見せました。

宴会の席で心地よいリズムで歌い踊るハイヤ節も同じように全国に伝わり、40カ所以上にハイヤ系民謡が残るといわれています。そのルーツは熊本県天草地方の牛深地区で、「二上がり甚句」に奄美「六調」の熱狂的なリズムが加わって「牛深ハイヤ節」が誕生したといわれます。ハイヤは「ハエの風(南風)」のことでハイヤ節を漢字で「南風節」と書いたりします。ハイヤ節も九州に広がり、まだら節と同じルートで北にも伝わって島根県の「浜田節」、京都府の「ハイヤ踊り(宮津)」、新潟県の「佐渡おけさ」「寺泊おけさ」、山形県の「庄内ハエヤ節」、青森県の「津軽アイヤ節」、北海道の「江差餅つきばやし」などへと形を変えました。牛深では毎年「牛深ハイヤ節全国大会」が開催されるそうです。
ハイヤ節の発祥地をめぐっては、牛深のほかに鹿児島(ハンヤ節)あるいは長崎県平戸市田助とする説もありますが、ともかく、コロナ禍にあっても唄を楽しみ、踊りで発散する文化を今後も伝えていきたいものです。

連載コラム・日本の島できごと事典 その16《米軍基地》渡辺幸重

米軍射爆場新島設置絶対反対誓いの塔

太平洋戦争では、日本は「全滅」を「玉砕」、「退却」を「転進」、「敗戦」を「終戦」と呼びました。事実から目をそらす言い方は姑息にも思えますが、戦後日本を占領した米軍を「進駐軍(GHQ)」と呼んだのも同じような気がします。ただ“進駐”したのではなくて日本は“占領”されたのですから「占領軍」でしょう。こういう曖昧な態度だから駐留米軍はいまだに占領軍のようにふるまっているのではないでしょうか。
茨城県には一面に広がる花々で有名な国営ひたち海浜公園があります。太平洋戦争中は大日本帝国陸軍の水戸飛行場であり、戦後は米軍が接収して1973年(昭和48年)まで米空軍の水戸射爆場(水戸対地射爆撃場)だったところです。米軍機が標的めがけて模擬核爆弾の投下訓練などを行うのですが「模擬爆弾による農作物の被害」「ジェット機墜落による原野被害」「模擬爆弾による校庭被害」など257件の事件事故が相次ぎました。1957年8月には自転車で走行中の母子に低空飛行の米軍機が接触し、63歳の母親が即死、24歳の息子が重症という信じられない事件まで起きました。抗議と撤去を求める激しい運動の末、射爆場は1970年に演習を停止し、1973年3月に日本政府に返還されたのです。
ここからが島に関する話になるのですが、実は米国は日本政府が代替地を用意する条件で水戸射爆場の撤去を約束していました。いわゆる移転です。1964年1月、防衛庁(当時)は移転候補地に伊豆諸島の御蔵島(みくらじま)を内定しました。しかし、島民の強力な反対運動にあって断念に追い込まれました。この間の経緯は有吉佐和子の小説『海暗(うみくら)』に描かれています。次に日本政府は伊豆諸島・新島(にいじま)に目を付けました。1966年(同41年)に新島移転の話が表沙汰になり、1969年(同44年)3月に防衛庁の正式申し入れがありましたが、新島村議会が全員一致で絶対反対を決議し、美濃部東京都知事も反対するなど5年近い島内外の反対運動が続きました。結局、米軍は移転を断念し、水戸射爆場を代替地なしで手放したのです。新島には住民拠出のコーガ石でできた「米軍射爆場新島設置絶対反対誓いの塔」が建っています。
この話は沖縄の普天間飛行場の移転先として辺野古新基地が必要かという話に通じます。水戸射爆場移転断念という前例にならって県知事も県民も反対する辺野古新基地を断念し、普天間飛行場を撤去すればいいのです。
(写真はブログ「旅人がゆく」2016年5月より)

連載コラム・日本の島できごと事典 その15《気仙沼大島》渡辺幸重

気仙沼津波石碑

 

マグニチュード9・最大震度7という超巨大地震「東北地方太平洋沖地震」が起きたのは2011年(平成23年)3月11日(金)14時46分のことです。この地震によって大津波が発生、広く日本列島の太平洋岸を襲い、「東日本大震災」という未曾有の大惨事となりました。福島第一原発が津波による電源喪失で水素爆発を起こしたのもこのときです。 “連載コラム・日本の島できごと事典 その15《気仙沼大島》渡辺幸重” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典 その14《笹森儀助》渡辺幸重

笹森儀助

島のために尽くした人は数多くいますが、私が一番に思い浮かべる人は、笹森儀助(ささもり・ぎすけ)(1845-1915)です。儀助は「(幕末・明治・大正時代の)探検家・政治家・実業家」と紹介されますが、私の印象では“社会活動家”です。
儀助は青森県弘前市に生まれ、弘前藩・青森県に勤めたあと1892年に千島列島探索に加わって『千島探験』を著します。1893(明治26)年から1898年までの5年間が南島(琉球列島)に関わった時期ですが、交通が不便な時代にハブやマラリヤが恐れられた地域に入り、現地のために奔走し、貴重な記録を残す大事業をやってのけています。まず、1893年5月に沖縄島に着いた儀助は慶良間諸島・宮古島・石垣島・西表島・与那国島をまわり、帰る途中にも与論島・沖永良部島・徳之島・奄美大島にも立ち寄りました。このときの記録が1894年発行の『南嶋探験』です。さらにこの年から1898年まで奄美大島の島司をつとめ、その間にトカラ列島を視察し、『拾島状況録』という書にまとめました。
井上馨内務大臣から国内製糖の振興のため南島の糖業拡大の可能性を探るよう依頼されて始めたことでしたが、現実をストレートにとらえ、社会の矛盾をえぐりだし、政府批判を含めて提言し、自身も改革に取り組んだ儀助に私は畏敬の念を抱きます。宮古島や石垣島では過酷な人頭税や身分制度に苦しむ住民の姿を直視し、人頭税を廃止すべきとして宮古島の人頭税廃止運動にも影響を与えました。一方で旧支配者層である士族たちが豊かな生活を送る社会矛盾を指摘しています。奄美大島では黒糖の売買権を鹿児島の商人が独占し、島民が困窮にあえいでいることなどを記録し、請われて大島島司にもなったのです。
あの時代に命がけで南の島々を回って調査報告をし、社会を変える活動をダイナミックに進めた生き方は感動的です。蝙蝠傘をさし、尻をはしょった儀助の写真を見る度に私も血がたぎる思いがするのです。儀助はその後、青森市長などもつとめました。

連載コラム/日本の島できごと事典 その13《春一番発祥の地》渡辺幸重

春一番の塔

あなたは“春一番(はるいちばん)”という言葉にどんなイメージを浮かべますか。「もうすぐ春ですね」というキャンデーズの明るい歌でしょうか。では、「明日、春一番に襲われるかもしれません。海難事故に気をつけてください」という“春一番警報”が出たらどうでしょうか。実は、春一番というのは漁師に恐れられた怖い暴風でもあるのです。
幕末の1859年3月17日(安政6年2月13日)、長崎県の壱岐島の漁師が出漁中、南からの強風によって船が転覆し、53人の犠牲者が出る海難事故が起きました。この風が春一番なのです。地元では「春一(はるいち)」「春一番」「カラシ花落とし」と呼ばれており、この事故をきっかけに「春一番」という気象用語が全国に広まったといわれています。民俗学者の宮本常一は郷ノ浦(ごうのうら)町で聞いた「春一番」の言葉を1959年に『俳句歳時記』で紹介しています。
現在は東北以北と沖縄を除く地域で春先に吹く南寄りの強風のことを春一番としており、テレビの気象情報でおなじみの言葉です。石川県能登地方や三重県志摩地方以西などで昔から用いられていたといわれ、春一番の語源には諸説あるようですが、壱岐島の故事がもっとも有名で、1987年(昭和62年)に「春一番発祥の地」として郷ノ浦港入口の元居公園に「春一番の塔」が建立されました。その横には銘板「春一番海難記」があり、近くには遭難者慰霊塔があります。
なお、新聞では1963年2月15日の朝日新聞朝刊での「春の突風」という記事が初めて春一番の語を使ったとされ、この2月15日が「春一番名付けの日」となっています。