連載コラム/日本の島できごと事典 その12《オトーリ文化とコロナ禍》渡辺幸重

 2020年1月以来、全世界において新型コロナウイルスが猛威を振るっており、2021年2月中旬現在で累積の感染者数は約1億854万人、死者数は約240万人に達しています。昨年4月~6月には日本の島々は一斉に来島自粛要請を出しました。医療体制が脆弱な島が多く、超高齢社会だからです。
にもかかわらず、人口約5千人の鹿児島県・与論島で7月22日~8月7日に島外在住者も含め計59人の感染が確認されました。さらに11月に入ってからも与論島で2度目のクラスター(感染者集団)が発生し、11月10日までに55人の感染が明らかになりました。患者は鹿児島県本土、奄美大島、沖永良部島、与論島の病院に入院しました。
2011年に入って沖縄県の宮古島でもクラスターが発生し、1月末までに40人が感染しました。宮古島市唯一の感染症指定病院・鹿児島県立宮古病院は1月26日から一般外来を中止する事態にまで至り、1月31日から2週間、反対の声もあがる中で県の要請を受けて陸上自衛隊第15旅団災害派遣部隊が高齢者福祉施設内で医療支援活動を行いました。
クラスター発生の原因は不可抗力も含めいくつも考えられ、必ずしもはっきりしませんが、島の風習である“回し飲み”文化も一因として挙げられています。与論島では宴席などで口上を述べながら黒糖焼酎を回し飲む「与論献奉(けんぽう)」という風習があります。同じように宮古島では泡盛を回し飲みする作法「オトーリ」があります。酒に弱い人が断りやすいように宮古保健所では2005年度から「オトーリカード(イエロー・レッド)」を発行しており、2018年度からは「美ぎ酒(かぎさき)飲みカード」と呼んでいます。宮古島市ではオトーリの自粛を強く呼びかけています。
コロナ禍は酒飲み文化を大きく変えようとしています。

連載コラム/日本の島できごと事典 その11《風土病フィラリア》渡辺幸重

八丈小島のバク患者。左足が象皮病(ウィキペディアより)

伊豆諸島・八丈島の西方約4kmに八丈小島という無人島があります。1969年(昭和 44年)に住民全員が離島するまでは24戸91人が住んでいました。
この島に八丈小島でしかみられない“バク”と恐れられた風土病があり、医師がいない島で住民は長い間苦しめられました。八丈島の人は「小島のバク」と呼んで恐れ、八丈島の漁師や海女は病気を恐れて小島へは上陸しなかったそうです。島民の多くは10代半ばまでに熱発作を出すといわれ、何の前ぶれもなく寒気と戦慄に襲われ、震えが起きました。人々は原因は島の水に毒があるからで大昔からあるバクにかかるのは仕方のないことだと考えていました。八丈小島に伝わる民謡の一節に次のような歌詞があります。
 ♬ わりゃないやだよ この小島には ここはバク山 カブラ山
(カブラとは島の太平山の山頂付近で栽培された大かぶのこと)

バクは「マレー糸状虫(しじょうちゅう)によるフィラリア症」の一種で、トウゴウヤブカが媒介し、高熱や下肢の象皮症を起こす病気でした。愛媛県佐田岬半島、長崎県、鹿児島県、奄美、沖縄県各所など日本でもフィラリア症はありましたが、それはバンクロフト糸状虫によるもので、マレー糸状虫によるものは日本では八丈小島だけにある風土病だったのです。明治期に内務省衛生局や京都帝国大学、九州帝国大学が現地調査を行いましたが原因究明に至らず、第二次世界大戦後の1948年(昭和23年)から調査研究に取り組んだ東京大学付属伝染病研究所の佐々(さっさ)学によって原因解明と治療法開発が進められました。その結果、世界で初めてトウゴウヤブカによる媒介がわかり、特効薬による治療法に達したのです。この体験はその他の地域のフィラリア症治療にも生かされ、1988年(昭和63年)の沖縄県宮古保健所における根絶宣言により日本は世界で初めてフィラリア症根絶の国になりました。そのフィラリア防圧モデルは世界各地でも活かされているそうです。
佐々学がバクの研究に打ち込んだ時代は、東京~八丈島の船が5日に1便、八丈島~八丈小島への船が月に2便しか通っていませんでした。八丈島の民宿滞在中の佐々に「アメリカイキキマル スグモドレ」という電報が届いたとき佐々は電報を破り捨てて八丈小島行きの船に乗ったといいます。バク研究の使命感がアメリカ行きを諦めさせたのでした。歴史上の偉人の肝っ玉の大きさには本当に感心させられます。

連載コラム/日本の島できごと事典 その10《南西諸島と琉球列島》渡辺幸重

 みなさんは鹿児島県南端から台湾北東にかけて連なる島々を何と呼びますか。「南西諸島」「琉球列島」「琉球弧」という言葉を思い浮かべるでしょうが、これらの言葉に違いはあるのでしょうか。
「南西諸島」の名称は明治期に国の水路部(海上保安庁の前身)が使い始めた行政用語です。九州鹿児島県に属する薩南諸島(口之三島を含む大隅諸島、吐?喇列島、奄美群島)、沖縄県に属する沖縄諸島(沖縄島とその周辺)、宮古列島、八重山列島、さらに沖縄諸島の東にある大東諸島および八重山列島の北にある尖閣諸島を含むとされています。「琉球列島」と「琉球弧」はほぼ同じような使われ方をしており、琉球弧の方は地学的な説明に多いようです。琉球列島の範囲は必ずしもはっきりせず、次の1)~3)のように南西諸島の全体あるいはその一部となります。
1)南西諸島と同じ地域
2)かつての琉球国の領土とほぼ重なる地域。奄美群島、沖縄諸島、宮古列島、八重山列島の総体
3)奄美群島を除くほぼ北緯27度以南の沖縄県所属の島々の総称
2)あるいは3)の地域を「琉球諸島」と呼ぶこともあります。すなわち、沖縄島は南西諸島・琉球列島・琉球諸島・沖縄諸島に属します。
これらの島々の総称をどう呼ぶかは分野や立場によって異なります。私は大都市中心の呼び方が嫌いなので「(東京から見て)南西にある諸島」という言い方にはひっかかりがあります。大和時代の「南島」が「琉球」と重なるのでどちらかというと琉球列島の方を好みますが、琉球国の支配地域と完全に重なるわけではないし、琉球国という支配者側への反発もあるので迷いがあります。中国の歴史書には流求、流乢、流鬼、瑠求などの文字がみえ、琉球は中国の呼び方だから嫌いという人もいるようです。私はとりあえず「九州島から台湾島の間に弧状に連なる島々」とし、南西諸島と琉球列島を状況によって使い分けるようにします。

連載コラム/日本の島できごと事典 その9《日本三大弁天》渡辺幸重

厳島神社

「日本三景」など日本人は有名なものを三つ並べるのが好きなようです。「日本三大弁天」もその一つで、いずれも島にあります。厳島(広島県)・竹生(ちくぶ)島(滋賀県)・江島(神奈川県)の3ヶ所と聞くと「なるほど」とうなずく人も多いのではないでしょうか。
弁天(弁才天/弁財天)さんはもともと仏教の守護神なので寺と神社がセットになって祀られています。大願寺・厳島神社、宝厳寺・竹生島神社、そして明治初年の神仏分離で与願寺から神社に変わった江島神社となります。弁天さんのルーツはヒンドゥー教の女神・サラスヴァティーで、仏教に取り込まれて弁才天になりました。音楽神・福徳神・学芸神で、琵琶を手にした姿は神々しいというより“愛らしい・なまめかしい”という表現がぴったりです。毎年6月に竹生島神社で『三社弁才天祭』が行なわれます。三大弁天の御朱印を集める人もいます。
竹生島は「琵琶湖八景」のひとつ「深緑・竹生島の沈影」で知られ、「日本最古の弁才天」「弁才天の発祥地」ともいわれます。能の演目『竹生島』はあまりにも有名です。江島神社は「辺津宮」「中津宮」「奥津宮」の三社があり、さらに海上に造られた桟道を進んだ先に江島弁才天信仰の発祥の地といわれる洞窟「江の島岩屋」があります。多くの高僧や武将が祈願のため籠ったところです。役(えん)の行者が開き、空海(弘法大師)や日蓮も参籠したそうです。江戸時代には江島詣の参拝客でにぎわいました。“安芸の宮島”ともいわれる厳島では神仏分離の際に仏教的な建築とみなされ、あやうく焼却されそうになりました。
日本三大弁天に、奈良県天川(てんかわ)村の天河大弁財天社と宮城県石巻市の金華山(きんかさん)黄金山(こがねやま)神社を加えて「日本五大弁天」といいます。金華山も島です。「三年続けてお参りすれば一生お金に困ることはない」という言い伝えがあるありがたい弁天さんです。

連載コラム/日本の島できごと事典 その8《移住者の島》渡辺幸重

生き物は定住と移動を繰り返します。移動の最大の理由は「食うため(食糧を求めて)」でしたが、“アフター・コロナ時代”でも同じなのでしょうか。
東京の竹芝桟橘から伊豆大島経由のジェットフォイルで2時間25分で行ける伊豆諸島の島に利島(としま)があります。人口337人(2015年)・周囲約18mの円錐状の形をした島で、住民の約半数、20~40代の8割以上が移住者という珍しい島です。役場職員の実に約9割が島外出身者です。利島の物流を支え、定期航路の離着岸事業などを行う株式会社TOSHIMAの社員の約9割もIターン者で、いまでは若い島外出身者が利島の社会を支えているといえます。
利島への移住者は役場や農協に勤めたり、日本一の生産を誇る椿油の仕事をしたり、漁業を営んだりしています。芸術活動をするとか、リモートで東京の仕事をするとかではなくて多くの人が“島の仕事”に従事しているのが特徴です。そして「海や山で採れる自然の恵みのすばらしさ、台風や冬の西風など自然の厳しさと共に生活する」島の現実を受け入れています。
利島村は1島で自治体を構成する小さな村です。「利島活性化活動」として下草刈り作業や椿の実の収穫作業に学生ボランティアを募集し、年齢制限なしの「ふるさとワーキングホリデー」制度を実施するなど普段から島外在住者との交流をしています。椿農家の高齢化や後継者不足など問題がないわけではありませんが、島の人口は、戦後の混乱期を除き江戸時代から現在まで300人前後で推移し、他の島に比べて過疎問題や高齢化の問題が少ない不思議な島なのです。
利島は、子どもが生まれると他家に子どものお守りを頼むボイという慣習があり、両家が親戚関係を結ぶなど人の繋がりが強いところです。逆にそれが“よそ者”としてでなく“身内”として受け入れる素地になっているのかもしれません。
コロナ禍は社会の価値観を変えると言われます。利島の「島の生活」のなかに“コロナ後のパラダイム”のひとつが存在しているような気がします。

連載コラム/日本の島できごと事典 その7《メガソーラー》渡辺幸重

宇久島_ 寺島_ 再生エネルギー基地

気候変動が問題になり、日本政府もやっと2050年カーボンニュートラルを宣言し、自然再生エネルギー政策を口にし始めました。一方、自然再生といえども巨大施設は環境破壊につながることが問題になっています。
地理的には五島列島、行政的には平戸諸島という有人島に2,179人(2015年)が住む宇久島(うくじま)があります。宇久島は「平成の大合併」で佐世保市になりましたが、人口は10年間に3分の1が減少し、この大合併で旧役場があった島で大幅人口減があった代表事例とされているところです。
そこに出力2,000キロワットの風車を50基設置する風力発電所と、島の4割の面積を使い、総出力480メガワットの大規模太陽光発電所(メガソーラー)という2つの再生可能エネルギー事業計画が持ちこまれました。風力発電所は国内有数の規模、メガソーラーはソーラーパネル約150万枚を設置する日本最大級のものです。これが実現すると、島の景観や地域社会はがらりと変わるでしょう。行政と業者は計画を進めていますが、住民や漁協などには自然環境や住環境の変化、景観の悪化などに対する危惧があり、十分な合意形成ができていないのが現状です。2020年12月には、反対派住民がメガソーラー建設事業に関して佐世保市が出した公園敷地の使用許可の取り消しを求め、監査請求を出しました。日本自然保護協会は両計画に対して「自然環境や文化環境を壊して小さな島を発電施設で埋め尽くす必要が本当にあるのか」と問題を指摘し、反対しています。
自然再生エネルギー事業はいいものだと思い込みがちですが、巨大開発は人間にも自然にも後戻りできない大きな環境変化を押しつけます。本来の「グリーン・リカバリー」なら地産地消ができる小規模施設を必要な分だけ作るという抑制が必要です。
宇久島は「五島富士」の異名をもつ城ヶ岳があり、韓国・済州島も眺望できる風光明媚な島です。近くの小値賀(おぢか)諸島も含め西海国立公園になっており、島を黒いパネルで覆うのは島を犠牲にする政策としか思えません。

 

連載コラム/日本の島できごと事典 その6《“超速”隆起珊瑚礁》渡辺幸重

鹿児島市から南南西約365km、奄美大島の東に浮かぶ喜界島

隆起珊瑚礁の島はたくさんありますが、鹿児島市から南南西約365km、奄美大島の東に浮かぶ喜界島はその隆起速度が速いことで世界的に知られています。
喜界島の地形は台地状で、標高約200mの「百之台」は約12万年前に形成された珊瑚礁といわれてきました。すなわち、12万年前に海面すれすれにできた珊瑚礁がいまは海面から200m高い位置まで隆起したということになります。ざっと計算すると平均で1,000年に1.7m持ち上がったことになります。これは世界でも三本の指に入るくらいの“超速”だといいます。ところが、その後の研究で「百之台」の珊瑚礁段丘は10万年前に形成されたという新解釈が出てきました。その時代の海面は現在より14m低かったので10万年で約214m隆起したことになります。厳密に言うと、喜界島の最高点は214mなので、約230mの隆起かもしれません。いずれにしても喜界島の平均隆起速度は1,000年に2mを超えるレベルになりました。
喜界島は過去7,000年間に少なくとも4回の隆起活動がありました。1000~2000年周期で隆起しており、最近では約1400年前のできごとです。隆起活動が活発な時期にはさらに“超速”だったことになります。
喜界島は10万年前から現在までの珊瑚の化石が積み重なった島なのです。10万年間、隆起するたびに島の周りにサンゴ礁が広がり、また隆起する、ということを繰り返してきました。世界中の珊瑚礁研究者から“珊瑚礁研究の聖地”“奇跡の島”と呼ばれており、島内にはNPO法人「喜界島サンゴ礁科学研究所」があります。
百之台にある芝生の広場が「七島鼻」と呼ばれ、第二次世界大戦中には旧日本軍の電波探知(レーダー)基地がありました。いまはパラグライダーの離陸場として利用され、現代人が10万年前の珊瑚礁を蹴って大空を舞っています。

渡辺幸重
1951年、鹿児島県屋久島生まれ。新聞記者、予備校・塾講師、教育コンサルタント、編集プロダクション経営、大学教員などを経て、ジャーナリスト。「島と海」をライフワークとし、環境、地域、人権、教育、情報社会の問題などに取り組んでいる。

連載コラム/日本の島できごと事典 その5《与論小唄》フリージャーナリスト 渡辺幸重

与論島は鹿児島県最南端の島で、沖縄復帰前は4月28日の沖縄デーに与論島と沖縄島から船が出て北緯27度線の海上集会で「復帰要求沖縄県民大会」が開かれました。当時は観光ブームに沸いていた与論島ですが、薩摩藩政時代からたびたび疫病の流行や台風、火災などにより多数の死者が出る飢饉を経験してきました。1899 年(明治32 年)から九州島への集団移住が始まったのも前年に襲来した猛烈な台風による被害が引き金になっています。多くの人が石炭の積込み労働者として島原半島南端の口之津(長崎県)に移住し、その後大牟田市三池に転住しました。三池炭鉱の与論島出身者集落には多いときには1,200人を超える人口があったといいます。三池では与論島出身者は過酷な労働と低賃金下に置かれ、「与論人(ヨーロン)」と呼ばれて朝鮮人労働者と同様のひどい差別を受けました。 “連載コラム/日本の島できごと事典 その5《与論小唄》フリージャーナリスト 渡辺幸重” の続きを読む

コラム/日本の島できごと事典《うな太郎》フリージャーナリスト 渡辺幸重

[日本の島できごと事典(その4)]うな太郎

うな太郎の墓 写真はインターネットから

長崎県の南西部・野母半島(長崎半島)の先端近くに樺(かば)島があります。オオウナギの「8代目うな太郎」はそこの古井戸に棲んでいました。残念ながら2011年(平成23年)に推定30歳で死亡しましたが、体長は1.6m1.8mとも)、胴回りは47cm、体重は12.6kgあったそうです。井戸の脇にうな太郎の墓があります。この古井戸は「オオウナギ生息地の北限」として1923年(大正12年)に国の天然記念物に指定されました。しかし和歌山県や徳島県などでもオオウナギが国の天然記念物になっているので、いまでは北限とはいえないようですが、オオウナギは鹿児島県南部以南に生息する熱帯性の生き物なので珍しいといえます。 “コラム/日本の島できごと事典《うな太郎》フリージャーナリスト 渡辺幸重” の続きを読む

コラム/日本の島できごと事典《水俣病》フリージャーナリスト 渡辺幸重

[日本の島できごと事典(その3)]水俣病

九州島・水俣湾はメチル水銀に汚染され、1958年(昭和33年)8月から1997年(平成9年)10月までの39年間、封鎖されました。汚染魚が外海に出ないように全長4,400mの大型仕切り網で封鎖線を張ったのです。水俣湾の入り口にある恋路島も閉じ込められました。水俣港では大規模な埋め立てでメチル水銀を閉じ込め、浚渫で汚染土をさらいました。 “公害の原点”といわれ、第二水俣病、四日市喘息、イタイイタイ病と並ぶ日本の4大公害病のひとつ・水俣病の一側面です。恋路島は合戦に出陣した薩摩の武将の妻が夫を想って石を積んだと伝わる無人島で、水俣市は恋路島とその周辺海域を水俣の自然再生のシンボルとして自然体験ツアーなどを催していますが、水俣病患者の苦しみはいまでも続いています。 “コラム/日本の島できごと事典《水俣病》フリージャーナリスト 渡辺幸重” の続きを読む