連載コラム/日本の島できごと事典 その5《与論小唄》フリージャーナリスト 渡辺幸重

与論島は鹿児島県最南端の島で、沖縄復帰前は4月28日の沖縄デーに与論島と沖縄島から船が出て北緯27度線の海上集会で「復帰要求沖縄県民大会」が開かれました。当時は観光ブームに沸いていた与論島ですが、薩摩藩政時代からたびたび疫病の流行や台風、火災などにより多数の死者が出る飢饉を経験してきました。1899 年(明治32 年)から九州島への集団移住が始まったのも前年に襲来した猛烈な台風による被害が引き金になっています。多くの人が石炭の積込み労働者として島原半島南端の口之津(長崎県)に移住し、その後大牟田市三池に転住しました。三池炭鉱の与論島出身者集落には多いときには1,200人を超える人口があったといいます。三池では与論島出身者は過酷な労働と低賃金下に置かれ、「与論人(ヨーロン)」と呼ばれて朝鮮人労働者と同様のひどい差別を受けました。三池炭鉱における1953年(昭和28年)の反合理化闘争や総資本対総労働といわれた1960年(昭和35)年の三池闘争(三池炭鉱争議)などでは与論島出身者は中核となって闘いました。それは不当な差別をはねのけ、人間としての尊厳を取り戻す闘いでもあったのです。その与論島出身者の間で歌われていたのが『与論小唄』です。
「木の葉みたいなわが与論 何の楽しみもないところ 好きなあなたがいればこそ いやな与論も好きとなる」
もとはラッパ節の流れを汲む『与論ラッパ節』のようですが、『与論小唄』は第二次世界大戦中に奄美大島沖で撃沈された貨客船を歌った『嘉義(かぎ)丸のうた』となり、沖縄島に伝わって那覇の遊郭で流行した『尾類小(じゅりぐゎー)小唄』に変わり、1972年には『十九の春』となってレコード化されました。1975年には田端義夫が歌って全国的にヒットし、いまでもよく歌われるので、ご存知の方も多いでしょう。
「私があなたにほれたのは ちょうど19の春でした いまさら離縁というならば もとの19にしておくれ」
この歌を聴いて、炭鉱における過酷な労働と悲惨な生活に思いを馳せる人はどのくらいいるでしょうか。