コラム/日本の島できごと事典《水俣病》フリージャーナリスト 渡辺幸重

[日本の島できごと事典(その3)]水俣病

九州島・水俣湾はメチル水銀に汚染され、1958年(昭和33年)8月から1997年(平成9年)10月までの39年間、封鎖されました。汚染魚が外海に出ないように全長4,400mの大型仕切り網で封鎖線を張ったのです。水俣湾の入り口にある恋路島も閉じ込められました。水俣港では大規模な埋め立てでメチル水銀を閉じ込め、浚渫で汚染土をさらいました。 “公害の原点”といわれ、第二水俣病、四日市喘息、イタイイタイ病と並ぶ日本の4大公害病のひとつ・水俣病の一側面です。恋路島は合戦に出陣した薩摩の武将の妻が夫を想って石を積んだと伝わる無人島で、水俣市は恋路島とその周辺海域を水俣の自然再生のシンボルとして自然体験ツアーなどを催していますが、水俣病患者の苦しみはいまでも続いています。

八代海に臨む天草諸島の島々でも多くの水俣病患者が出ました。長島・獅子島・御所浦島・天草上島などが2009年(平成21年)施行の「水俣病被害者救済特別措置法」の救済対象地域に指定され、指定外の天草下島などにも認定患者が存在します。さらに認定されていない患者もいるのです。

水俣病が発覚したのは1956年(昭和31年)で、御所浦島では1960年(昭和35年)の熊本県の調査で住民4人の毛髪から異常に高濃度の水銀が検出されました。しかし、交通不便などを理由に確認作業がされず、1971年(昭和46年)5月までその事実が隠されました。ちなみに日本政府が水俣病を公害病と公式認定したのは1968年(昭和43年)9月です。国立水俣病総合研究センターの報告書「水俣病の悲劇を繰り返さないために−水俣病の経験から学ぶもの−」は次のように指摘しています。

「原因究明に対する原因企業の非協力や事実の隠蔽、さらに化学工業界、通産省などによる学界の権威をまきこんで企業・産業の防衛が行われたが、こうした一連の動きの中で国と地方の行政、政治、検察、マスコミがどのような役割を果たしたかが深刻に問われている。」

原発問題など他の多くの社会問題にも通じる指摘です。