連載コラム・日本の島できごと事典 その111《アッツ島玉砕》渡辺幸重

アッツ島の位置(読売新聞より)
藤田嗣治「アッツ島玉砕」

太平洋の最北に位置するアリーシャン列島のアッツ島は第二次世界大戦で最も悲惨な戦いを強いられた島の一つです。当時アッツ島は日本軍が占領していました。アメリカ領なので「日本の島」とは言えませんが、初めての“玉砕の島”であり、その後の太平洋の島々や硫黄島の戦い、沖縄戦に続く重要な史実を持つ忘れてはならない島です。
アメリカ軍は1943(昭和18)年5月 12日、日本軍がミッドウェー作戦の陽動作戦として前年6月以降占領し、熱田(あつた)島と呼んでいたアッツ島を奪回しようと攻撃を開始し、上陸しました。日本軍の2500人余の守備隊に対してアメリカ第七歩兵師団の兵力は約1万2千人。弾薬も食糧も不足する日本軍に対してアメリカ軍は戦艦や巡洋艦、護衛航空母艦、駆逐艦などが援護するので日本軍はひとたまりもありません。島外からの日本軍の支援もなく、5月29日に守備隊は全滅しました。
日本軍は降伏して捕虜になることを禁じていたため、兵士は銃剣や手りゅう弾を手に夜間突撃を繰り返し、負傷兵士には自決が命じられました。最後に残った100人ほどの兵士は5月29日、最後の突撃を敢行。意識を失うなどして捕虜になった兵士27人(29人とも)以外は全員戦火に散りました。アメリカ軍の戦死者は561人でした(兵士の数や戦死者数などは資料により異なります)。
実は日本軍は一時、援軍を派遣する予定でしたが、大本営はアメリカ軍に島の周囲を制圧されており「戦力を消耗しては大変」と派遣を諦め、アッツ島守備隊を見殺しにしました。ちなみに隣のキスカ島(鳴神島)の日本軍守備隊は深い霧に紛れて脱出しています。
大本営はアッツ島の戦いを初めて“玉砕”と呼び、皇軍(日本軍)の神髄を発揮したとして新聞やラジオで大々的に発表、国葬や慰霊祭まで行って一般市民にも死ぬまで戦うための宣伝材料に使いました。画家・藤田嗣治は『アッツ島玉砕』を描き、1953昭和28)年の「国民総力決戦美術展」に出展しています。
戦争でいつも大きな犠牲を強いられるのは戦場を生活の場としていた住民です。日本軍が占領したときアッツ島には42人のアレウト族と2人の白人が暮らしていました。アレウト族40人は日本軍の方針によって北海道小樽市に抑留され、戦後まで生き残っていた25人がアメリカ軍によってアリューシャン列島の別の島に移送されました。戦争は住民ら故郷での平穏な生活を奪ってしまったのです。
戦後、日本は1953(昭和28)年と1978(同53)年に遺骨収集を行いましたが、遺骨は320人分しか戻っていません。