編集長が行く《太宰治の生家「斜陽館」01》文・写真 井上脩身

世襲まかり通る斜陽国家

斜陽館

 岸田文雄首相は6月1日、総理秘書官である長男、翔太郎氏を「総理公邸で不適切な行動をした」として更迭した。岸田首相は祖父、父も衆院議員を務めた3世議員。翔太郎氏を4世にするために秘書官に任命したのではといわれ、翔太郎氏の不祥事を機に、世襲批判が国民の間で一気に噴き出した。わが国が斜陽国家になり下がったといわれて久しい。その一因に、世襲がまかり通っていることがあるのではないか。その末路はどうなるのか。私はコロナ禍のなかを訪ねた青森県五所川原市の斜陽館を思い浮かべた。作家・太宰治の生家である。戦後間なしに心中自殺をした太宰は貴族院議員の御曹司であった。

金木の殿様の大豪邸

 学生時代、青森県出身の友人がいた。彼の母校が旧制中学校時代に太宰が卒業したこともあってか、太宰文学に傾倒していた。彼に影響されて、太宰の代表作である『斜陽』を読んでみたが、自殺を図る登場人物の心情に共感することができず、私は大江健三郎に夢中になった。

 コロナ禍が始まった2020年、わが国の国民1人当たりのGDP(国内総生産)は世界26位に転落した。1989年の4位から30年間で大きく落ち込んできたのだ。G7(主要7カ国)の一員でありながら、内実が全くともなっておらず、実態は「斜陽国家」といわれる。斜陽とはどういうことだろう。

 私は太宰の『斜陽』を読み返した。そして斜陽館を訪ねたのであった。

『斜陽』の内容を語る前に、斜陽館を紹介しておきたい。

 正式名称は五所川原市立「太宰治記念館『斜陽館』」。1907(明治40)年に建設された木造2階建て入母屋造りの近代住宅。2004年、国の重要文化財に指定された。

 同館の案内チラシなどによると、敷地面積2255平方メートル、延べ床面積1302平方メートルの大豪邸。1階に11室、2階に8室があり、旧銀行店舗部分や階段室、応接室を配した和洋折衷建築。母屋をはじめ文庫蔵、中の蔵、米蔵などの土蔵や、敷地を囲むレンガ塀を含め、屋敷全体がほぼ建設当時のまま保存されている。

 太宰(本名・津島修治)は1909(明治42)年、斜陽館が建って3年目に、県下有数の大地主であった津島源右衛門の六男として生まれた。源右衛門は県会議員、衆院議員、さらに多額納税による貴族院議員などを務めた名士。当時の住所は北津軽郡金木村だったので、津島家は「金木の殿様」と呼ばれていた。源右衛門は1923(大正12)年、肺がんで死去。太宰は青森中学を経て弘前高校に進学。在学中に芥川龍之介の自殺を知り、衝撃を受けたという。1930(昭和5)年、東大に入学し、その年、カフェの女給と心中未遂事件を起こす。1935年、東大除籍。1940年『走れメロス』、1947年『斜陽』を書き、翌1948年、『人間失格』を完結させた後の6月13日、愛人の山崎富栄と東京・三鷹市の玉川上水に入水心中。38歳のときである。

 以上、太宰の生涯を足早に紹介したのであるが、その生家を「人間失格館」でも「走れメロス館」でもなく「斜陽館」と命名したのはなぜであろう。そんな思いを内にこめて、「斜陽館」を訪ねたのだった。(明日に続く)