宿場町シリーズ《西京街道 福住宿003》文・写真 井上脩身

伊能忠敬の測量風景(ウィキベテアより)
一里塚跡であることを示す石碑

測量隊は10人編成

 夏の日差しが照り付ける日、福住に向かった。国道から脇道にそれて西京街道を歩く。道幅約5メートル。案内チラシ通り、街道の両側に白壁妻入りの民家が立ち並ぶ。ほどなく福住小学校の鉄筋3階建ての校舎が目に入った。通りに面して板の看板が立てられ、その上部に「SHUKUBA」とアルファベットで記されている。案内チラシによると、ここが本陣跡だ。そのすぐ近くの道路脇に「伊能忠敬笹山領測量の道」と刻まれた高さ50センチの石碑が建っている。209年前、伊能忠敬はここで一晩を過ごしたのだ。
測量日記に「古城跡一箇所」の記載がある。福住宿の北300メートルのところに籾井城跡がある。籾井氏は明智光秀に滅ぼされているので、伊能の時代は面影もとどめない古城であっただろう。ここで伊能は観測をしたのではないだろうか。
本陣から東に150メートルの所に一里塚があり、その少し先を左折すると籾井城跡だ。測量の碑に「早朝より梵天持ちの十人を従えて出発」とあり、測量は10人編成だった。梵天は竹竿の先に数枚の紙を短冊状につるしたもの。数カ所に梵天持ちを立たせ、その間に縄を張って長さを測るのだが、測量道具を担ぐ測量隊一行は宿場の人たちの目には異様に映ったであろう。
伊能はこの測量法を基本に方位観測を加えて計測した。井上ひさしは『四千万歩の男』の中で、江戸・千住宿を出てからの例として、次のように書いている。
馬の背から三脚台と「方位盤(小)」と記された桐箱を降ろす。三脚台を設置し、その穴に樫棒をさす。桐箱から方位盤を出し、その柄の部分を樫棒の上端にはめる。忠敬は小方位盤の樫棒を静かに回し、磁針の南を指す針の先が示す度数を読みとる。
小説中の記述はもっと詳細であるが、素人にはチンプンカンプンであった。『伊能忠敬の日本地図』に広島で行われた測量の絵図が掲載されている。「御手洗測量之図」と呼ばれ、伊能は黒の陣笠をかぶっている。福住でも黒の陣笠をかぶっていたに相違ない。井上ひさしは「この小方位盤は測量家としての忠敬の、いわば〈目〉となった道具である」と書いている。命の次に大事な方位盤が入った桐の箱をさながら殿様扱いする伊能に、本陣を司る山田嘉右衛門は目を白黒させたかもしれない。
福住での測量を終えた伊能は翌日、西京街道を東に進み、埴生村(南丹市)で一泊。亀岡を経て京から江戸に戻る。
第9次は1815年、伊豆七島の測量。翌年、第10次として江戸を測量して、15年に及ぶ測量を終えた。

伊能地図の最終版である「大日本沿海輿地全図」が幕府に提出されたのは伊能が病没して3年後の1821年だった。大図214枚、中図8枚、小図3枚から成る膨大な資料であったが、その正本は1873年に焼失。その写本のうち207枚が2001年、アメリカ議会図書館に実在していることが判明した。
明治になり、宿場町としては廃れていくなか、篠山と園部間を国鉄で結ぶ計画が持ち上がり、福住再興への期待が高まった。しかし1972年、計画は撤回され国鉄篠山線は幻に。福住宿跡は篠山の観光コースからはずれていて、今はひっそりとたたずむ日陰のような山里だ。鉄道の夢ははかなく消えたが、伊能地図に福住一帯が刻まれていることをもって瞑すべきであろう。(完)