Lapiz22夏号 あとがき《一人寝の子守歌》片山通夫

重信房子 ベイルートで筆者撮影

Lapiz22夏号の最後に・・・。

先月のことだった。日本赤軍の最高幹部だった重信房子が出所したというニュースに触れた。
もう半世紀以上前になるが、筆者は彼女に会ったことがある。場所はレバノンの首都・ベイルート。当時の筆者は所謂ノンポリと言われていたグループに属していたと自認する。学生運動が日本中を駆け巡っていたがおよそそれらに参加することはなかった。彼女に会ったのは日本赤軍のメンバーがテルアビブ空港で乱射事件を起こした前年だったと記憶する。日本でも大きな衝撃をもってこの事件は受け止められた。

その首謀者の一人で重信房子はテロ事件には直接参加していなかったが、一躍彼女の名は全国にとどろいた。
「国際テロの魔女」とも呼ばれた彼女は、筆者があった時には穏やかな女性だった。
彼女は何も答えてくれなかったが、ただこう筆者に教えてくれたことがある。
加藤登紀子さんが歌っている《一人寝の子守歌》って知っています?あの歌詞の2番、私が考えたのよ」
後で調べてみたら《天井のネズミが歌ってくれるだろう・・・
国際テロ事件を起こしパレスチナで活動した彼女はこの歌を幾度となく口ずさんでいたことだろうと思われる。もちろん事実かどうかはわからない。

ノンポリ:英語の「nonpolitical(ノンポリティカル)の略で、政治運動に関心が無いこと、あるいは関心が無い人。 そのような集団をノンポリ層とも呼ぶ。 元は1960 – 70年代の日本の学生運動に参加しなかった学生を指す用語である。

テルアビブ空港乱射事件:1972年5月30日にイスラエルのテルアビブ近郊都市ロッドに所在するロッド国際空港で発生した、パレスチナ解放人民戦線が計画し、アラブ赤軍3名が実行したテロ事件。

Lapiz22夏号 Vol.42 とりとめのない話《俳句うらおもて》中川眞須良

イメージ

私がながく接するモノクローム写真の世界は日常に於ける自分のイメージトレーニングの現状、結果を目視で確認できる唯一の手段と思っている。このため内面的なアンテナを立て、広く情報、感覚をキャッチすることに心がけているが、このアンテナ 自分の体調、気分、またTPOによって感度が著しく変化する(ほとんどの場合、鈍化する)ので困ったものである。 “Lapiz22夏号 Vol.42 とりとめのない話《俳句うらおもて》中川眞須良” の続きを読む

22年夏号Vol.42 連載コラム・日本の島できごと事典 その64《豊田音頭》渡辺幸重

豊田音頭を踊る人(「地域文化遺産ポータル」動画より)

120kgもの重い石地蔵を背負って盆踊りをやるなんて、誰が考えつくでしょうか。それが佐渡島の真野(まの)地区豊田では古民謡「豊田音頭(真野音頭)」として伝わっているのです。

かつて佐渡のホテルで豊田音頭を見た「東京やなぎ句会」のメンバーはその姿に感動し、絶賛しました。小沢昭一は柳家小三治との対談で「僕の心の中の、あれを見たときのざわめき、嬉しさ、……あのナンセンス……(笑)何の意味もない中に、思えばどれだけの深い哲学を、その人その人なりに、あそこから汲み取ることができるかっていう、これぞ、深い芸術、芸能っていうものの極致です」と語り、小三治に対して「あん時にあなたが喜んでる姿を右の目で見ながら、僕もおんなしに喜んで感動していたんです」と言っています(東京やなぎ句会編著『佐渡新発見』1993年5月三一書房)。このときは踊りの輪の中を60kgの石地蔵を背負った男が右から左へただ一回だけ通り過ぎたと説明されています。

豊田音頭は、佐渡金山が隆盛を極めていた頃、その道中音頭が元となってできた盆踊り唄で、昔、若くして妻子を亡くした男が、お盆に戻ってくる妻子の身代りに大光寺境内の地蔵を背負って踊ったのが地蔵を背負う始まりと伝えられ、その後若い衆が力自慢に背負うようになったようです。石地蔵の重さは60~100kgで、なかには120kgを超えるものもあるそうです。私が見た「地域文化遺産ポータル」の動画では、音頭を踊る女性たちの輪に交じって大きな石地蔵を背負った2人の男性が同じ盆踊りを踊っていました。また、豊田音頭を継承しようと活動をしている「小波会(さざなみかい)」の動画では踊り手全員が小さな石地蔵を背中に結んでいました。豊田音頭は一時途絶えたものの1978年(昭和53年)に復活し、真野小学校の子供たちも背の2倍にもなろうという大きなハリボテ地蔵を背負って踊ります。

柳家小三治は「まいんち担いでるやつは、普通の顔になっちゃうわけ。だからあれは悲しかった。すばらしかった。で、しかも、もう担いでる自分の姿を想像して、滑稽にすら思ってる、っていう、そういう、辛い悲しい、そういうものを通り過ぎてしまった人の、……態度だね。だから、すばらしい」と言っています。小沢昭一も小三治も妻子を亡くした男の話は聞いていなかったようです。しかし、それを知っても豊田音頭に対する「あの無意味、不条理、不毛、あれは人生だなァ」(小沢昭一)という評価は変わらなかったでしょう。

22年夏号Vol.42 原発を考える《「黒い雨訴訟」に見る原発の問題点》井上脩身

『私が原発を止めた理由』の表紙

2014年5月、関西電力大飯原発3、4号機の運転差し止めを、福井地裁の裁判長として命じた樋口英明氏の活動を追った映画が今秋上映される。題は「原発をとめた裁判長そして原発をとめた農家たち」。樋口氏を中心に福島県二本松市の営農家らの活動を通し、原発の危険性を告発する映画となるようである。その主人公の樋口氏については、ラピスでも著書『私が原発を止めた理由』を取り上げ、我が国の原発が過去の地震の大きさに対応する対策がなされていないことを明らかにした裁判官であると紹介してきた。樋口氏についての映画企画が浮上したのを機に、私は改めて同書を読み返した。樋口氏が放射能被ばくの観点から「黒い雨訴訟」を注目していることに気付かされた。本稿では、同訴訟を通して、原発の問題点を考えたい。 “22年夏号Vol.42 原発を考える《「黒い雨訴訟」に見る原発の問題点》井上脩身” の続きを読む

連載コラム・日本の島できごと事典その60《島嶼町村制》渡辺幸重

当初、普通町村制が適用されなかった地域

明治維新後、日本政府は急速に近代的な行政組織を整備します。1871年(明治4年)の廃藩置県は有名ですが、市町村レベルでは1878年(明治11年)に郡区町村編制法(地方三新法のひとつ)が制定され、そして現在につながる地方行政改革が1888年(明治21年)の市制・町村制、1890年(明治23年)の府県制・郡制の制定によって行われました。市制・町村制は1889年(明治22年)に施行され、同年中に北海道・香川県・沖縄県を除く44府県(東京は東京府)で、翌年2月には香川県で施行されました。しかし、北海道・沖縄県の全域と東京府・鳥取県・島根県・香川県・長崎県・熊本県・鹿児島県の一部島嶼地域には長い間、この普通市制・普通町村制は適用されませんでした。
隠岐諸島では1904年(明治37年)5月1日に施行された「島根県隠岐国ニ於ケル町村ノ制度ニ関スル件」(明治37年勅令第63号)により町村制に準ずる町村が発足しました。さらに、1908年(同41年)4月1日に「沖縄県及島嶼町村制」(明治40年勅令第46号)が施行され、青ヶ島・八丈小島を除く伊豆諸島、小笠原諸島、対馬、トカラ列島、奄美群島および沖縄県全域が対象とされました。実際に施行された時期は地域の事情によって異なり、伊豆諸島の大島、対馬、上三島・トカラ列島(旧十島村(じゅっとうそん))、奄美群島、沖縄県全域では1908年(同41年)4月1日に施行、同年のうちに伊豆諸島の八丈島で、1923年(大正12年)10月1日に伊豆諸島の利島・新島・神津島・三宅島・御蔵島での施行となりました。1921年(同10年)5月20日になって沖縄県全域が普通町村制に移行して「沖縄県及島嶼町村制」から離脱。その前年に勅令により制度の名称が「島嶼町村制」に変わっています。
島嶼町村制施行により、各地域には普通町村制よりも権限が小さい町村が生まれることになりました。奄美大島には名瀬村・笠利村・龍郷村・大和村(やまとそん)・住用村(すみようそん)・焼内村(やきうちそん)・東方村(ひがしかたそん)・鎮西村(ちんぜいそん)の8村が成立しました。それが現在は奄美市・龍郷町・瀬戸内町・大和村・宇検村(うけんそん)の1市2町2村体制になっています。上三島・トカラ列島は十島村になりましたが、このとき徴兵制は実施されたものの国会議員の選挙権や県議の選挙権・被選挙権などは認められませんでした。
普通町村制への移行は、対馬が1919年(大正8年)4月1日 、奄美群島、上三島・トカラ列島が沖縄県全域と同じ1921年(同10年)5月20日、伊豆諸島は1940年(昭和15年)4月1日に実施されました。ただし、伊豆諸島の青ヶ島、小笠原諸島の父島・母島・硫黄島は島嶼町村制の適用がないまま、伊豆諸島の他の島と同時に普通町村制が施行されました。八丈小島だけは島嶼町村制も普通町村制の適用もなく、第二次世界大戦後の1947年(同22年)10月の地方自治法施行によって宇津木村・鳥打村(とりうちむら)の2村が生まれるまで名主制が続きました。

連載コラム・日本の島できごと事典その56《散骨島》渡辺幸重

カズラ島(「自然散骨カズラ島」

60過ぎたら死を考えろ」という言葉を何かで見た記憶があり、歳を取ると「墓はどうしようか」「葬式は」などと考えるようになりますが、遺書に残すとしても「さてその内容は」となるとなかなか決められません。私は海が好きなので海に散骨する海洋葬がいいと思いましたが、家族に手間をかけそうです。森を守る運動をやってきたので樹木葬もいいし、合同墓はもっとも簡単かもしれません。そういうとき、島根県の隠岐諸島に日本で唯一の「散骨島」があることを知りました。

 カズラ島は島前・中ノ島の北部海岸に近く、島前湾の東入口に浮かぶ無人島です。面積約1.4㏊の小さな島ですが、大山(だいせん)隠岐国立公園内にあり、一切の建築物・構築物が認められない第一種特別地域に指定されています。2008(平成20)、首都圏の葬儀会社などが出資する民間葬祭業者が島を買い取り、島内に自然散骨所を設けました。対岸に献花・献酒・献水などのお別れの儀や命日の法要などを執り行う慰霊施設を整備し、5月と9月の年2回、渡島して散骨・慰霊式を行っています。自然環境を心配する声に対して、業者は「遺灰は無害なリン酸カルシウムが主成分なので比較的早く分解されて土に還るので、環境にはまったく問題ない」と答えています。それでも環境保全や風評に配慮する形で散骨粒形や量の自主規制を行い、島を10のブロックに分けて毎年散骨場所を変えるそうです。国立公園内なので開発される心配もなく、死者は豊かな自然の中で永遠の平安を得るということなのでしょう。

 実は、日本では各地に「お墓の島」があります。沖縄島の羽地内海(はねじないかい)に浮かぶ奥武(おう)島は対岸の沖縄島の3地区の墓の島で、亀甲墓や横穴式の墓など新旧入れ混じったさまざまな墓地がみられます。死者のための島として墓参に訪れる以外は渡島が禁じられています。同じ羽地内海にはヤガンナ島やジャルマ島という墓の島もあります。北九州市の筑前諸島では貝島に6世紀に造られた13基の古墳があり、干潮時につながる藍島の墓場だったとみられています。九州・大村湾の南西部に浮かぶ前島も古代人の集団墓地と考えられる“古墳の島”です。また、かつて炭鉱の島だった長崎市の中ノ島は1893年(明治26年)に閉山したあと軍艦島として有名な端島の火葬場・墓地として利用されました。そう考えると散骨島としてのカズラ島は現代風の「お墓の島」かもしれません。

連載コラム・日本の島できごと事典その55《野良クジャク》渡辺幸重

放置され、野生化した猫や犬を「野良猫」「野良犬」と呼びますが、沖縄県の先島(さきしま)諸島には「野良クジャク」が棲んでいます。本来はインドやスリランカなどに生息するインドクジャクで、これまでに石垣島、小浜島、黒島、新城上地(あらぐすくかみじ)島、与那国島、宮古島、伊良部島で生息が確認されています。雑食性で植物やは虫類、昆虫類などを食べ、生態系への被害が懸念されることから環境省の「生態系被害防止外来種」に指定され、駆除活動が行われています。大根や芋、ほうれん草など農作物への被害も報告されています。 “連載コラム・日本の島できごと事典その55《野良クジャク》渡辺幸重” の続きを読む

オピニオン《核のボタン》山梨良平

核のボタンが入ったケースを持つロシア人

ウクライナが大変なことになっている。ロシアのプーチンは驚くなかれ、「核攻撃も辞さない」と脅しをかけている。クレムリンの報道官は、ロシアの国が「消滅する危険がある場合」だという。私に言わせれば「プーチン体制の危機」ではないかと疑っている。

核のボタンに手をかけて世界に脅しをかけるプーチン。その前提のようにチェルノブイリやその他のウクライナの原発を攻撃した。攻撃したロシア兵達はもしかして、いやおそらく原発の怖さを知らないのかもしれない。

一方、わが国では安倍元首相が「核の共有」などとこの機を利用して核武装論を述べだした。なんでもアメリカが持っている核兵器を「共用」したいらしい。アメリカが簡単に核のボタンを日本に渡すとは思えないが、少なくともそのように安倍や維新の松井などは考えている。

さて読者の皆さんに質問したい。安倍や松井にあなたは「核のボタン」を持たせたいか?持たせても大丈夫か?勿論非核三原則と言う原則はある。憲法9条と言う縛りもある。しかし彼らはこの縛りを変更するつもりのようだ。(敬称略)

連載コラム・日本の島できごと事典 その54《美女とネズミと神々の島》渡辺幸重

 トカラ列島は屋久島と奄美大島の間、約180kmにわたって点在する島々です。悪石島(あくせきじま)は列島のほぼ中間に位置する島で「美女とネズミと神々の島」とも呼ばれ、島内に「美女とネズミと神々の島」記念碑があります。これは朝日新聞社の秋吉茂記者の著書『美女とネズミと神々の島-かくれていた日本』(1964年)からきたもので、1960年に秋吉が悪石島に1ヶ月間滞在し、朝日新聞に10回連載した現地ルポ「底辺に生きる」がもとになっています。現在でも村営船で鹿児島から約10時間、奄美大島・名瀬港から約5時間かかりますが、当時は接岸できず艀(はしけ)で渡ったため時化のときには欠航せざるをえませんでした。ほとんど知られていなかった島の習俗や信仰、人の生き様などを伝えた内容が反響を呼び、1965年には第13回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞しています。

 私はまだ本を読んでいないので、2009年にKTS鹿児島テレビの山元強社長が書いたブログ<悪 石 島 の「美 女」を 想 う>(https://www.city.kagoshima.med.or.jp/ihou/551/551-23.htm)から内容の一端を紹介させていただくことをお許しください。それによると、「美女」とは、島の掟を破って10年前に奄美大島からきた男と同棲した278歳の女性のことで、秋吉の助けもあって隣りの諏訪乃瀬島に脱出し、新たな人生のスタートを切ったということです。ただ山元は、秋吉が「美女」としたのは島全体の女性のことも指しているようだといい、「島の娘のかわいさにくらべて、これ(大人の女性は)はなんというはげしい変貌であろう。長い間の粗食と、過労と、ハダシの生活が“花の命”をけずりとった残骸である」という文章を紹介しています。「ネズミ」とは、1935年に竹が結実して野ネズミが大量に発生し、農作物が甚大な被害を被って飢餓に陥ったことを反映しています。ネズミは海を泳いで渡ってくるともいわれます。「神々」とは、島の至るところに祀ってある「やおよろずの神々」のことで、悪石島では祭祀が多く催されます。旧盆には10日の間、「長崎船」「花踊り」「こだし踊り」「俵踊り」など7つの盆踊りがテラ・墓・釈迦堂・集落の入り口や各家の庭先などで踊られます。最終日には異形の仮面を着けた来訪神「ボゼ」が出現しますが、2017年には「悪石島のボゼ」として国の重要無形民俗文化財に指定され、翌年には「来訪神:仮面・仮装の神々」のひとつとしてユネスコ無形文化遺産に登録されました。

 目次には「米んめし」「きよらウナグの島」「ネズミさま」「神さまへの挑戦 」「ハダシの美女たち」などの言葉が見えます。ぜひ探しあてて読んでみたい書籍のひとつです。