2018autumn《憲法「改正」は日本をどこへ導くか。》松岡正喜(年金生活者)

憲法を変えようとする人たちの運動が進められている。国会でも、巷でも。国会では自民党は党是だからといい、公明党は与党勢力の一員という立場で加憲的「改正」を唱え、それに賛同する維新は学費無償化などを書き込むという。

自民党の党是だからいうのは、今さら何を言うのかという感を免れない。なぜなら、党是というならこれまでも何度も変えるチャンスがあったはずだからである。それをしないで、あるいはできないでつい数年前までやって来た。別の言い方をすれば、60数年間現行憲法でやって今の日本を作って来て、とりわけ問題もなかったということである。

もっとも、市民・国民の中には漠然と変えてもいいんじゃないかという人もいるし、自衛隊があれだけ活躍しているのだから憲法に書き込み、「決着」を付けるべきだという考えの人もいる。前者は一般に経年的に物事は古くなり、傷んでくるから取り替えたらいいという考えを背景にしている。後者はやや設計主義的に変えようという意図があるんだろうと思う。でも、今回の憲法「改正」はどちらの態度をもってしても十分で必要な根拠にはならないと思う。

今回の憲法「改正」の論議は、以前からないことはなかったが、市民・国民の中からやむにやまれず出てきたものではない。第1次安倍政権で教育基本法に手を付け「改悪」に成功した経験があり、その成功体験が「党是の実現」はこの時期を措いてはないと思わせたことは、想像に難くない。自民党は2012年に「憲法改正草案」を発表した。目を通してみた。いろいろと違和感を感じた。一言で言うならば、古色蒼然とした戦前復帰の印象をぬぐえなかった。まず最初前文の「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し・・・」が「わが国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、・・・」として、戦争の「惨禍を「荒廃に置き換え、「決意」という文言をなくしてしまった。「荒廃」とはまるで自然現象のようである。戦争は自然現象ではない。人為の意図的行為である。要は、現憲法の前文にある戦争へ突入した反省と、もう2度と戦争はしないという決意を取り除き、基本的人権の尊重の前に国と郷土の誇りを持ってきて、それを守ることを強調するものになっている。

他にも取り上げてみたい箇所がいくつもある。すべてにふれることはできないかもしれないが、これから可能な限り皆さんとともに考えてみたいと思う。

今が「改正」のチャンス ―

この憲法を「改正」しようという安倍政権の衝動は、どこから始まったか。私なりに見ておきたいと思う。もちろん党是だから自民党は「改正」の意向をずっと持ち続けていた。それが決定的になって、具体化の道に着手したのはごく最近の話だ。

安倍首相は13年の12月には国家機密法を成立させた。これは戦前の軍機保護法のようなもので、軍の情報・施設・設備をはじめ、軍事に関するあらゆることを軍の独占的管理の下に置くというものであった。明治の終わりに作られ、1937(S,12)年に大改訂された。日中戦争が全面的に始まった年である。

今回の国家機密法は、要するに戦前の軍機保護法の現代版ともいえる。国民の目から軍事を秘匿し、関与させない法的措置をとったということだ。こういう枠をはめて、20147月に集団的自衛権の行使容認を閣議決定した。その「成果」を持って、154月自衛隊幹部がアメリカへ行き「日米防衛協力のための指針」(=日米ガイドライン)の「改定」に合意した(18年ぶりの改訂)。そして、その場で合意の線に基づいて国内法の整備を夏までに仕上げると伝えた。アメリカとの約束はできた。さあ、次は国内だということになり、その年の9月の「安全保障の法的整備法」(=戦争法)の強行採決へと向かうことになる。市民・国民の多くが疑問や反対を表明したことを恐れ、昨年は共謀罪法を強行し、人の心まで取り締まることを決めてしまった。野党共闘が進み、国民輿論が後押しするのを事前に摘み取ってしまう現代版「治安維持法」ともいえる。現在が戦前のアジア・太平洋戦争に突入していった直前の1930年代の状況によく似ていると言われている。どういう状況であったかについては、すでにご承知のことだから詳しくは取り上げない。ただ世界の政治・経済・外交の面でも、また国内の政治・経済の面でも軍部の台頭も含めて不安定要素を増していたことは間違いない。ワシントン軍縮会議からロンドン軍縮会議、世界恐慌と緊縮財政、軍部の不満と統帥権干犯問題、満州国の成立と対外膨張主義、北一輝の影響を受けた青年将校らのクーデター(2.26事件)、犬養毅首相暗殺事件、仏教界など宗教の国家神道への一体化がこの時代に顕在化している。この時代の状況をつかむ上でキーワードになるだろう。

さて、アメリカとの「約束」もできた。日米同盟の固い「絆」も確認できた。北朝鮮の核開発とその実験・挑発の脅威は最大限利用できた。中国の軍事的脅威もしかりだ。憲法を兵糧攻めにし、憲法を孤立化させ、いつでも「改正」作業に入るところまできたと安倍首相や政権与党に思わせる状況になって来た。

ところが、まだ憲法「改定」には入れてはいない。それはなぜか。私は憲法が生きているからだと思う。憲法そのものが持っている人類普遍の原理や哲学が大本にあり、それが国民の生活の中に浸透しているからだと思う。たとえ十分ではないにしても。

ここで憲法の主だった条文に戻って考えていきたいと思う。

戦後ずっとやってきたというか、続けてきたものは数多くある。憲法もそうである。日米安保体制も別の意味で同様であり、むしろ冷戦以降は軍事同盟化され、安倍首相の言う「信頼関係」の根本にあって継続・強化されてきた。いわゆる「北方領土問題」も1956年を1つの画期として、事実上放置したままの状態を続けてきた。自民党保守政権にとっては好ましいから続けて来たんだろうし、あるいは容易には枠組みが変えられないから事実上放置して、その状態が続けられてきたと言える。

ところが、である。憲法は「改正」の衝動が止まらない。戦後の日本がスタートする時期に憲法は内外の意見や考えを周到に考察して、GHQによって準備され与えられた。

これについては膨大な研究があり、機会があれば別途ふれたいと思う。

 ―歴史を学ばない自民党の憲法観 ―

自民党の改憲草案を見てみると、自己の政党の私的思惑に基づく権力体系をいかに作るかという構想に貫かれている。「内外の意見や考えを周到に考察」した形跡が見られない。平和・人権・国民主権を謳った現憲法から大きく外れ、後退している。自己閉鎖的で世界に開かれて古色蒼然としたものだ。

なぜなのか。大きくは、それは70年以上も前のアジア・太平洋戦争をなかったものにしたい、もう戦後70年以上も過ぎたのだからもういい。しかも、現憲法はGHQに押し付けられたもので、「自分たちの憲法ではない」という捉え方から抜けきれないからだと思う。歴史の事実に向き合えないのだ。あの大戦で敗北を喫したことの総括からいまだに目を背け続けている。現憲法はアジア・太平洋戦争で敗北し、ポツダム宣言を受け入れ、その主旨を盛り込んだものが土台にある。数年前、国会で「ポツダム宣言」を読んだことがあるかと、野党議員に聞かれた安倍首相は「つまびらかには読んでいない」と答弁して、内外の失笑を買ったことがあった。彼は本当は読んでいると思うが、中身を読み取れなかった・読み取ろうとはしなかったという意味であれば、「読んでいなかった」と言える。

現憲法は占領時に押し付けられたものだから、「独立国」となった日本には「自主憲法」が必要だと自民党は言う。「独立国」ということが何をもってそう言えるのか問題だし、

天皇を再び元首にするという復古調も問題だ。

憲法「改正」について主だった条文に戻って考えていきたいと先に書いたが、果たせていない。憲法「改正」がここ数年の情勢の大きな変化に乗じ、自民党政権によってやられようとしている。ここでは現憲法が誕生した70年あまり前の敗戦時のころに関わって触れてみた。一言でいえば、自民党が出した2012年の「憲法改正草案」は古い時代の憲法に戻ろうとすることを特徴としている。今はアメリカとの「不動の同盟関係」をどう進めるか、自衛隊を憲法に書き込むことを中心に「改正」論議が進められている。いずれも市民・国民の平和・安全・自由がどう担保されるのか、されないのか注視していかなければならない。森友・加計問題、それに伴う文書改竄、スーダン・イラク日報問題、セクハラ問題などで安倍首相をはじめ、自民党や官僚の「指導者」としての退廃・劣化が激しいがゆえに、なおさらそうである。

ここでは現憲法と自民党の「憲法改正草案」を比べながら、国民主権・平和主義・基本的人権などの現憲法に特徴的な命題をキーワードに、どちらが私たちにとって優れているか見ていきたい。現憲法の前文の書き出しは次のようになっている。少し長くなるがお付き合いいただきたい。

「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」としている。この部分は、この憲法を制定する目的が書かれている。「日本国民は~」がこの文章の主体であって、その主体が~するで結ばれている。その間に、誰が・誰に・何のために・何をして・どうするかに触れ、その担い手まで記述して触いる。「日本国民は~」が文の最初に置かれていることに注目したい。

大国意識と天皇の元首化 ―

自民党案はそうなっていない。自民党案は「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される」としており、まず最初に「日本国は、~」で始まっている。現憲法の「日本国民は、~」の文言がドロップしている。つまり国民の定義の基本=国民主権をはずし、日本国=国家の規定から始めている。いかにも自民党らしい。国家が先にあって、国民はその下にあると言っているようなものだ。この発想は象徴天皇制の規定にも顕れている。現天皇制はその地位を「主権の存する日本国民の総意に基く」という言葉で規定している。しかし、ここではこの部分をそっくり削除している。まだ前文の一部にしか触れていないが、すでにこの段階で自民党の「憲法改正草案」には全体を規定する特徴がでている。いかにも権力を握っている者が、その下に国民をするかのような上から目線のポーズだ。天皇制の規定は現憲法も自民党の「改正草案」(以下、「自民党案」とする)も第1章で書いてあるのは同じだが、発想が立憲主義(=憲法による権力の乱用の防止)の対局側の発想であったり、立憲主義を認知しているようで他の言葉との矛盾を含んでいたりしている。

例えば、第1章で「天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」(「自民党案」)と書かれている。

真っ先に「元首」である。これは明治憲法の規定と変わらない。またぞろ明治時代作られた天皇制に戻りたいのかと、思わざるを得ない。「神聖にして、不可侵」という文言はさすがに入っていないが、いかにも古色蒼然とした発想を根底において、再び天皇の政治利用を企んでいるのではないかと思ってしまう。元首とは、古くはローマ時代を引き合いに出すまでもないが、国家を代表する人物のことを指す。まさか天皇が国家の代表として「大権」をかざして政治・外交を行うことを目指しているのではないだろうが、自民党はとにかく天皇を引っ張り出したがる。

ある本に「天皇に忠誠をつくし、ひれ伏すことを説く者ほど天皇を利用し悪用する」という主旨の記述があったが、誠にその通りだと思う。先般、天皇の代替わりについて有識者会議が開かれていた。現天皇の意思と国民輿論におされて生前退位が行われることになったが、様々な議論があったようだ。その中の一つに「天皇はただ静かにお祈りをしておればいい存在だ」と述べた「有識者」がいたそうだ。まるで飾り物扱いだ。これがすべてだとは言わないが、こういう人も含めて安倍政権は現憲法「改正」を熱心に説いている。天皇の人格をそれとして尊重する姿勢がまるで見えない。しかし、「自民党案」には元首と書いてある。元首として位置づけ、元首の役割を果たしてほしいと思うがゆえにそう書いたのだろうが、戦前のように国体そのものとしての元首なのか、飾り物としての元首なのかよくわからない。そのあとで「自民党案」は「日本国及び日本国民統合の象徴であって~」と続く。そもそも国民統合の象徴と元首は相入れ合うのだろうか。「自民党案」にある元首の記述は、現憲法にはない表現であることから見ると、戦前の体制の中核にあった地位を取り戻したいと考えているとしか思えない。そうでないならば、敢えて書き込む必要はないはずだ。天皇の元首扱いについてはこれからも議論が起こってくるだろうが、そう単純に「元首復活」が実現するとは思われない。なぜなら、国民の間に定着した現天皇の在り方と、元首扱いにする「自民党案」の間にギャップがありすぎ、元首と言われても、国民の間にリアリテイをもって受け止められる状況にはないからだ。

 ―マッカーサー・GHQの先見性と天皇 ―

なぜそう言い得るのか、少し振り返ってみたい。戦後間もない時期に昭和天皇がマッカーサーに会いに行った。1945927日の第一回会見のことである。よく写真で見る天皇が直立不動、マッカーサーがリラックスした姿で写っているときの会見である。以後天皇はマッカーサーが退任するまで11回にわたって会っている。この会見で天皇が言ったが近年行われてきた。天皇は元首の座は降ろされたが、憲法で与えられた地位を超えて役割を担った。いわゆる天皇外交である。昭和天皇は自身をとりまく国際情勢に極めて敏感ことについて従来「マッカーサー回想録」をもとに語られてきたが、その中身を覆す研究であった。敗戦までの最高の政治的・軍事的・道徳的指導者は天皇であった。その天皇がポツダム宣言を受け入れ、敗戦を認めたあと真っ先に危惧したのは、戦争責任を追及され、訴追を受けることであった。そして天皇制が消滅することであった。「マッカーサー回想録」が言うように、「わが身はどうなってもいい。自分の指示や命令に従った者の責任は追及しないでほしい」は、後付けの天皇擁護論だと言える。もうじゅうぶん天皇を使って占領時からアメリカの支配の構造とその直後の冷戦構造に対応できるシステムを作り上げた成功物語のなかに、内外から疑問をもたれないように天皇を取り込む必要があった。

しかし、事実はマッカーサーが言うようなものではなかった。

「マッカーサー回想録」の中で述べられたことがどうもそうではない、つまり昭和天皇の「わが身はどうなってもいい。自分の指示や命令に従った者には責任はない」発言は、マッカーサーを最高権力者とするGHQ と日本の旧体制側に与する政治家や官僚によって作り上げられた物語にすぎないという疑念は払拭できない。

話が横道にそれるが、アメリカはアジア・太平洋戦争が開始された当初は日本に劣勢を強いられていた。日本海軍の奇襲と機動作戦に圧倒されていた。しかし、すぐさま攻勢に転じた。と同時に日本の敗戦を予想し、戦後の統治のあり方をめぐって研究をスタートさせていた。その一つが明治憲法を廃止して、新しい憲法を作ることであった。また、その憲法で他の問題も含めて天皇をどう位置付けるかが大きな課題であった。そのために、国防省・国務省の下に軍人は言うまでもなく、官僚・大学教授・研究者・日本通の人物を糾合して研究に当たらせた。明治憲法が施行されたのが1890年(明治23年)。この時までに50いくつとも、また一説には100ほどとも言われた民間憲法草案が出されていた。議会設立と憲法制定を要求する自由民権運動の高まりがその背景にあった。アメリカは明治初期の日本の近代化の中で、民間によって模索されていた憲法草案も研究の対象にしていた。植木枝盛の「東洋大日本国国憲案」の国民主権を求める内容や、民衆の側からの抵抗権・革命権も認めていたことに注目していた。50年あまり前に発見され、現在の憲法にも通底する優れた私擬憲法案である「五日市憲法草案」はペンタゴンや国務省の目には触れなかったが、この時期に起草されている。アメリカは戦争中のこれらの研究を通して、確実に日本人の民衆の中に民主主義を求めた歴史があったことを把握していた。

「歴史は音もなくめくられた」ではないが、敗戦を受け入れ戦争を終結する天皇の「玉音放送」を聞いた時、天皇に対して表立って責任追及に及ぶ者はいなかった。その周りにいた人に対しても抗議の行動に出る人もいなかった。人々は長きにわたった戦争の終結に安堵感を抱きこそすれ、何をどうすればいいのか見通しが持てなかった。アメリカはこの様子をよく観察していた。「音もなくめくられていく歴史」の瞬間に立ち会い、実質的支配者としてその後の戦略を練っていた。そして日本には昨日まで戦争を進めていた軍人・政治家・官僚が多く生き残り、依然としてその地位に就いていた。枢軸国の一員であったドイツとは様子が異なっていた。ドイツでは頂点に立っていた人物が自ら命を絶ち、組織体としての国家は消滅していた。ポツダム宣言を受け入れ戦争を終結するまでも、それ以前においても「国体」の維持をいかに確保できるのか、戦争指導者の議論は前線の兵士や国民大衆の運命は眼中になかったといえる。歴史の大転換を迎えても、旧体制の中心にいた指導者は旧体制を維持することにしか関心はなかった。

「作られた」天皇像 ―

 1945927日の第1回目の天皇会見の中身は、マッカーサー「回想記」にいうようなものではなかった。それは「回想記」が出された1964年(S39)当時、文芸春秋が米軍の公式戦闘記録と「回想記」を比較し批判的な検討を発表していた。要は、マッカーサーの誤認や誇張・自慢話がちりばめられていて、歴史の真実を明らかにしたものではないということであった。当日マッカーサーと天皇の通訳を務めた外務省の奥村勝蔵氏の「手記」が1975年に公表され、研究者の豊下楢彦氏(関西学院大学教授)によって分析された。その分析によって2002年の外務省・宮内省が「ご会見録」で外していた部分に、新たな光が当たったと言える。この箇所こそが「回想記」がいう天皇発言とは異なる部分だった。

 1945年の敗戦当時、最初の内閣は東久邇宮内閣だったが、917日に外国人記者との会見インタビューで、宣戦の詔書の署名問題などについてまともに答えられなかった。この時期、外国では天皇の戦争責任を追及する声が日増しに高まっていた。とりわけ、真珠湾を奇襲されたアメリカでは天皇の責任を問う声が厳しかった。イギリスやロシアでも同様であった。天皇の側近をはじめ、国務大臣で元首相の近衛文麿、本郷茂徳元外務大臣、木戸幸一内大臣等が「東条が絶えず天皇に戦争の開始を迫っていた」と外国の記者に漏らし、天皇に責任がないことをアピールしていた。天皇の戦争責任について極めて緊張した情勢が推移していたこの時期に、天皇が短時間であるがニューヨークタイムズの記者・クルックホーンとの単独インタビューに応じた。1945925日のことである。マッカーサー会見の2日前だった。そのインタビューの内容は側近が「練り上げたもの」で、インタビューの回答はすぐさまアメリカ本国へ知らされるはずだから、アメリカ人への天皇のメッセージという性格も帯びていた。このインタビューの回答も戦前の戦争遂行者の手で作られていた。この時期に同じ体制側に位置していた重光葵外務大臣が天皇の戦争責任について、他の側近と異なる見解を述べて917には更迭され、マッカーサーと通じることができると評価されていた吉田茂が外務大臣に就任した。重光は後にも政府の要職について戦後の政治をけん引していくが、この時は敗戦の責任を東条大将以下の軍部に押し付け、「自己弁明」をする天皇の側近を厳しく批判していた。重光は国体擁護論者なので、天皇制をなくせという議論を張ったわけではない。むしろ、天皇制・国体擁護の立場から天皇に一部の責任もないとするのは、かえって国体を内部から崩壊させてしまうのではないかと危惧したからに他ならない

つまり当時の日本側の指導者は、いかにすれば天皇訴追の事態に陥らないかについて集まり、知恵を巡らしていたと言える。近衛等は「真珠湾攻撃は東条の独断であって、陛下は知らなかった」としてクルックホーンにアメリカに知らしめるように考えていた。果たして、ニューヨークタイムズの記事に「ヒロヒト、インタビューで奇襲の責任を東条におしつける」と載った。925日のことだった。載ることは載ったで側近たちは驚いてしまった。そのように伝えられるよう策略を巡らせていたにも関わらず、である。

戦後の天皇とその側近のことを細かく書いてきたが、実はこの時期の天皇及びその側近、すなわち戦前の戦争指導者たちの発言と行動がその後の日本の方向を決めていくことになる。翌年1946年の元日に天皇自身によるいわゆる「人間宣言」(これは天皇が述べた詔書の一部を切り取ったマスコミの解釈で、天皇自らが「神ではなく、人間であること」を言ったわけではない)、3月には現憲法がGHQの主導のもと決められ、女性参政権が認められた総選挙(4月)、続いて東京裁判(5月)も始まろうとしていた。時期を同じくして天皇のいわゆる行幸のキャンペーンがスタートすることになる。天皇が行幸を始めたのには、周囲のおぜん立てとそこに込められた思惑もさることながら、何よりも天皇自身に東京裁判の訴追を免れる「自信」があったに違いない。

天皇ももう堂々としたものである。敗戦直後は天皇制が廃止されるのではないか、と最も危惧していたことが回避できる可能性が見えてきたわけである。天皇はこの後、天皇外交といわれる交渉に踏み出していくことになる。

天皇制護持しかなかった体制派の政治家・官僚・宮中派 ―

では、天皇が戦争責任を追及されずに済んだ背景には何があったのか、再びクルックホーンの会見やマッカーサーとの会見の話に戻って考えてみたい。クルックホーンがアメリカへ送った会見記事が、数日後に日本の新聞に掲載される段になって、内務省がそれを差し止めようと横やりを入れた。おかしな話である。天皇の戦争責任が問われないように、側近たちが東条を中心に軍の枢要な人物に責任を取らせようと画策して、925日の回答となって天皇自らが答えた。それが海の向こうでは記事になった。マッカーサーも天皇ももちろん承知していた。それが日本で報道されると、困ると言うのである。理由は「天皇が東条を非難したかのような印象を国民に与える」ということであった。事実非難していながらである。要は、天皇がクルックホーンとの会見で回答した内容とは異なって「かならずしも東条を非難したわけではない。天皇は軍の戦略の細かなことについては預かり知らない立場だし、宣戦の詔書にしても交戦前に布告するのが御意思だった。個人を非難することは従来してこなかった」と再回答してすり替えてしまった。何かこう書いていて、最近の財務省の公文書改竄を連想してしまった。権力を維持するためには外向きの回答と内向きの回答を別々に作って、「騒動」が起きないようにする。内務省は二枚舌を使い都合のいいように状況を取り繕っていた。最高権力者であるGHQ(=アメリカ)には「天皇制維持」のため有利な言い訳をし、国内向けには「東条批判」をしたということによって反発を食らうことを避けていた。実際前回にふれた重光葵は「東条のみに責任をかぶせることは、軍部の徹底抗戦派にとって受け入れがたいことだ。彼らは心穏やかならざることだと思っている」と述べていた。軍部を中心に東条を支持する人々がいたということだ。こういう状況の中で天皇とマッカーサーの会が行われることになった。まだ明治帝国憲法は廃止されていなかった。天皇の元首としての行動は続けられていたということになる。たとえ、主導権をマッカーサーを代表とするGHQに握られていたとしても、である。

ニュヨークタイムズ記者・クルックホーンへの回答は、2日後に迫った天皇・マッカーサー会見の予行でもあった。927日の第1回目の会談はアメリカ大使館で行われた。ここで何が話されたのか。天皇は何を言ったのか、またマッカーサーはそれに対してどう返答したのか。通訳官一人を交えての会談が、その後の日本の国の姿・あり方=「国体」をどうフレームアップすることにつながったのか。その根本を規定する憲法に、またその憲法体制と、もう一方の権力構造と言っても良い日米安保体制にどうつながっていくのか。マッカーサーの「回想記」が言うように、天皇は「わが身はどうなってもいい。我が臣下の軍人・役人は自ら任命した者であるから、彼らには戦争への責任はない」ということを本当に述べたのか。この会見に関わっていた人々考えやその行動、あるいは会見後の事態の展開はどのようになったのか、見ていきたいと思う。

 927日の内容は内務省を通じて発表された。その内容は次のようなものであった。天皇曰く「連合国(=アメリカ)の進駐による占領が何の問題も起こさなかった。また、だれが戦争に責任を持つか、マッカーサー元帥は何もふれなかった。そのことに感動を覚えた」と。それに対してマッカーサーが「いかなる流血も招かなかったのは、天皇のリーダーシップのおかげである。もし米軍の本土侵攻が行われていたならば、双方に多大な損害と破壊がもたらされただろう」と述べ、両者の見解が一致していた。そしてマッカーサーが天皇の戦争責任について何も追及する姿勢を見せなかったことを好として、天皇は「最終的な判断は後世の歴史家に委ねざるを得ないであろう」と述べていた。この文言は今でも自民党の領袖や組織のトップにしばしば使われる謂いである。このフレーズの淵源は天皇のこの謂いにあったのかと思ってしまうほどである。さて、マッカーサーが天皇の戦争責任についてあえて触れなかったのには、前にも指摘したようにそうした方が得策であるというさまざまな判断が働いていた。日本の敗戦が確実視される頃から、アメリカ国務省の中国課あたりから「天皇は戦後の日本を統治する上で重要な存在である。なくすよりは、むしろ重用すべきである」という考えを聞いていたと思われる。なぜなら、マッカーサーの下には本国から参謀本部はもとより、各省・各部門から多くの優秀なスタッフが送くられ、働いていたからである。また開戦前に日本で任務に就いていた大使館勤務員やジャーナリストも概ね天皇の廃止は考えになかった。こういう人の意見や考えもマッカーサーにすでに届いていたと考えるのが自然だ。

 日本の旧体制派に属する「指導者」は、いかにして天皇の戦争責任を回避できるか、そのためには東条一人に責任を転嫁できる「理屈」を考えることが仕事になっていた。マッカーサーがこういう日本側の事情を掌握していた上で、日本統治の独自の戦略を練っていた。それと同時に、彼には憲法策定の課題も含め日本統治を自分のイニシアティブで進めなければならないという別の理由があった。実はマッカーサーの地位はまだ盤石のものではなかったのだ。ワシントンとの対立もあった。

マッカーサーの権力と世界情勢 ―

 日本の敗戦処理を取り仕切る機関は、言うまでもなく連合国最高司令官総司令部(GHQであったと一般には受け止められているが、実はそうではなかった。確かにGHQが実質的に最高権力機関として君臨していた。しかし、国際的に見ると日本の戦後処理・統治についてはGHQを凌ぐ上級機関があった。戦後すぐに作られ、当初は極東諮問委員会と言われていたが、曲折を経てモスクワ外相会議で確認された極東委員会である。本部がワシントンに置かれていた。すでに翌年の1946226日に第1回目の会議が開かれることが決められていた。歴史の事実に“もし”はないが、仮にこの極東委員会が機能していたら日本の戦後の運命は変わっていたに違いない。そもそも極東諮問委員会はアメリカの提唱で設立されたが、当時のソ連などの反対にあいその名称では日の目を見なかった。それが極東委員会へと名称を変え、発足したものである。この極東委員会は米・英・ソを中心に組織され、後に全体で13カ国が参加した委員会であった。

 ただマッカーサーには急がなければならない事情があった。この極東委員会開催前に憲法を制定し、占領・統治のイニシアチブをとることであった。これらが前回ふれた「マッカーサーの地位はまだ盤石のものではなかった」ことと関連している。マッカーサーは1945年末までに、トルーマン大統領から2回本国への召還の命令を受けている。問題の発端は戦争が終結した直後から始まっていた。一つはマッカーサーの声明である。GHQの本部を第1生命ビルに置いた日に917日に出された。曰く「膨大な費用と人的負担を予想していた軍政がスムーズに行われた。近い将来、いまの負担をほぼ半減させることができるだろう」と。当時40万人近い人的負担の半分が要らなくなるのだからワシントンは喜ぶべきであったと思われるが、そうでもなかった。マッカーサーの考えには、連合国を構成するアメリカ以外の国に軍事的・経済的・人的負担をしてもらうという構想が前提にあった。折しもワシントンでは、各国の軍の構成や規模などをめぐって議論が錯綜しまとまっていなかった。マッカーサーは占領軍による統治の困難さを理由に「今すぐには帰れないと」と、第1回目の本国への召還には応じなかった。また、「占領軍の存在はアメリカの政策を実行する手立てであって、政策の決定者ではない」とするワシントンに対して、マッカーサーは「日本の占領政策を決めるのは、ワシントンではなく東京である」として2度目の帰国命令にも従わなかった。マッカーサーの地位が「盤石なものではない」ことが、本国との関係でも現れ始めていた。これと並行してマッカーサーの地位を脅かすヨーロッパ・東欧に対する占領体制と日本のそれとの違いも明らかになって来た。

マッカーサーは日本の占領統治に自らのイニシアチブで関わっていく考えに固執していた。それは天皇に対して戦争責任を問わず、むしろ何等かの形で天皇・天皇制を温存して自らの占領統治に利用することが有利である判断していたからである。日本の旧体制側の支配者もその一点を保守するために動いていた。マッカーサーと日本の旧体制側の利害は一致していた。

マッカーサーにしてみれば現地の状況を熟知しているのは自分であり、ワシントンではないという「自負」があったに違いない。さらにマッカーサーがそのように確信を持つにいたるには、彼の側近であったフェラーズ(日本通で知られていた軍人。天皇の戦争責任を回避するために奔走した)であったり、アチソン(マッカーサーの政治顧問。天皇制には批判的だったと言われている)、ひいては東京裁判の首席検察官を努めたキーナンらの

「働き」も大きかった。彼らの側面からの援護で天皇制を温存しながら、憲法を策定し東京裁判へと導くロードマップが描かれていた。彼らは東京裁判へ天皇を出廷させることは、即ち天皇の戦争責任を問い糾すことになると考えていた。なぜなら、東京裁判は戦争政策を進めた政治的・軍事的責任を追及する国際的な裁判であったからだ。天皇を裁判に出してしまえば、この裁判は成立しなくなるとまで考えていた。だから何としても戦争責任は天皇になかった、ということを事前に世界に知らしめておかなければならなかった。それ故に、天皇の戦争責任回避のための「日米合作の作戦」が、一方は占領軍のGHQ ・他方は敗戦でポツダム宣言受諾国という関係でありながら、昨日までの敵同士の間で同時並行的に進められていた。キーナンの例などはその典型であった。45年の12月に来日してマッカーサーと会い、9月の天皇会談の内容を聞いていた。それを元陸軍少将の田中隆吉に漏らし「天皇の戦争責任回避」が証明されるように裁判の中で協力してほしい、と要望した。内大臣の木戸幸一が戦犯容疑で逮捕された後、彼の秘書官を務めていた松平康晶(松平春嶽の孫。宮中派の一員)もキーナンと繋がっており天皇の戦争責任回避に向け人脈を通じて奔走していた。

このように見てくると、マッカーサーの地位と権力は「盤石」のように見えてくるが、それはマッカーサーと日本の支配層、ある面では国民との間に限られていたと言える。日本と軍事同盟を結んでいた枢軸国のイタリアは1943年に降服していた。王家がムッソリーニに協力して戦争を進めたが、クーデターを起こし政権は崩壊していた。このイタリアを軍事占領したのはアメリカである。軍事占領が日本と明確に異なっていた。イタリアの場合は、ドイツや東欧のルーマニアなどの場合と同様であった。つまり、占領管理体制が整えられていた。降服ないしは敗戦を喫したのち、当該国をどう戦後処理・統治していくか英・米・露で事前に協定されていた。イタリアの戦争はムッソリーニが起こした戦争であって、サヴォイア王家が起こしたものではなかった。この辺りも日本とは事情が違っていた。

日本の場合は天皇の戦争であった。天皇の判断・裁可がなければ戦争はできなかった。東条自身が東京裁判の中で明確に述べており、天皇は名実ともにその権限を保持していた。それは明治憲法に謳われた最高位の地位と権力を保証する法的な論拠を背景にしていた。何人も天皇の裁可がなければ、今でいう自由な意思表明も行動もできなかった。またそのもとで異を唱えたの人が弾圧され、獄中に留め置かれ命を落とし、戦争に狩り出されていた。

戦争末期には、すでにふれたように戦後の国際秩序の在り方をめぐり連合国側で議論が始められていた。第一次世界大戦で多くの犠牲者を出した惨禍から、欧米諸国を中心に教訓を引き出し、二度と戦争に訴えることなく国際間の問題を解決するための枠組みが模索されていた。いわゆるベルサイユ・ワシントン体制である。他方、それとは異なって列強間で戦後世界の指導者の地位をどこが握るのか、体制間の軋轢をも含みながら思惑がうごめき始めていた。こういう情況が戦後の日本のみならず、ヨーロッパ・東欧の戦後処理・統治の在り方に大きな影響を与えることになった。

 ― マーッカーサーの攻勢 ―

さて、マッカーサーの地位と権力の「盤石」さの問題に戻って話を進めてみたいと思う。

マッカーサーにはワシントンとの対立があったことは前にも述べた。さらに彼が連合国との間にも急がなければならない懸案がある点についても触れた。要するにマッカーサー自身のイニシアチブでいかに日本の占領統治を排他的に進めるかが、彼およびGHQの喫緊の課題になっていた。

従って、彼は敗戦の年に矢継ぎ早に指令・指示を連発している。一言でいえば、日本の政治・社会は新しく変わり民主主義化していることを内外にアッピールすることを急いでいた。12月に出された「神道解体令」、それに先んじる政治犯解放令、東久邇宮内閣に代わった幣原喜重郎内閣に対する新憲法制定の指示などがそれである。この先頭に立って協力的である天皇の姿を演出し、東京裁判への訴追を免れるための下準備に余念がなかった。それと並行して翌年の東京裁判開始へ向けて誰の戦争責任を追及するか、そのリストアップが進められていた。これらは先にも述べたように翌年のいわゆる天皇の「人間宣言」につなげられていくことになる。付言すれば、46年の23日マッカーサーによる憲法制定の三原則が幣原内閣に出され、同月の13日には憲法草案の日本政府への手交という展開になる。そして第1回目の極東委員会(46226日)への備えを固めていくことになる。こういう一連のマッカーサーの「民主化」への数々の指令・指示は、イギリスやソ連・オーストラリアなどの少なくない国の天皇の戦争責任を追及する声が止まなかったことに対して「そうではない」ことを示すことにあった。さらにはGHQの上級機関である極東委員会が機能すれば、その構成員である国によって必ずや批判が起こり、マッカーサーの意思通りに日本の占領・統治が進まなくなる懸念があった。ワシントンはアメリカだけが連合国ではないことを意識し、この時点ではまだ.彼のやり方に疑念を挟んでいた。

ここまで天皇に戦争責任はない、ということをフレームアップし東京裁判に天皇を出廷させないために、マッカーサーと共に旧体制派の政治家・官僚・宮中派の人物がいろいろ画策してきたことについて述べてきた。また何ゆえにそうしてきたのか、についてもふれてきた。ここで天皇には「戦争責任ない」というフレームアップがなぜ可能になったのか、いま一度まとめておきたいと思う。

日米合作の政治的仕掛け ―

先ず第1に、天皇自身がアジア・太平洋戦争を通じてこの戦争が「」(=皇祖は天照大神のことで、神話の世界における日本の開祖。また、皇宗はその下の歴代の天皇を表す)に対しては責任を抱くが、それ以外の配下の人々に対して責任をとる考えはなかった。従って、敗戦色が強まりポツダム宣言受諾の可否を検討する頃は、どうすれば「国体護持」が可能か、これが彼の焦眉の課題であった。

2に、明治の「王政復古」以来、権力の中枢にいて天皇の権威・権力を築くうえで、枢要な役割を果たしてきた「穏健派」と言われた人々が「国体護持」で固まっていたこと。宮内大臣・内大臣・侍従長をはじめその部下を含めた一連の宮中派人物が、英米の高官と緊密な関係にあり、敗戦後も連絡を取り合っていたことを見逃してはいけない。つまり、「国体護持」を守るためには海外からの、とりわけ敵対国であったアメリカから同調の声が大きな後押しになった。また折々の内閣を構成した政治家も軍人出身が多かったが、「国体擁護」では一致していた。もし、天皇の戦争責任が問われるようなことになれば、それは「国体」の崩壊につながり、共和体制を認めることに陥ってしまうからである。彼らにとっては許されざることであった。

3に、マッカーサーが天皇との会見以来、自分のイニシアチブの下で日本の占領統治を天皇を利用しながら完成したいという気持ちを抱いたこと。そのためには天皇を平和主義者に仕立て上げることが必須の大前提であった。それと関連して、天皇を平和主義者にするためには、戦争に訴えた東条英機以下の軍人に責任を転嫁することが必要であった。「戦争」の主導者と「平和」の担い手を目に見える構図で、日本人はもとより、世界の人々にも見せる必要があった。

4に、国際情勢からしても天皇の戦争責任を不問にしなければならない理由があった。前にも述べたが、世界の声は天皇の戦争責任を問う声の方が強かった。枢軸国の一員として日本だけが責任者の過誤が問われないのは、どう見ても論理的にも事実としても無理があった。それを避けるためには日本は平和国家の道を歩み始め、その中心に天皇が存在しており、日本は2度と戦争する国にはならないという証文を内外に示す必要があった。1945年の秋ごろからの日本の民主化へ向けた数々の指令・指示はそれを示している。翌年のマッカーサーによる憲法草案の手交も、これら一連の「計画」を実行する大きな課題であった。GHQには極東委員会という上級機関があった。これが正式にスタートすればGHQと日本の「指導者」との「共同作戦」は水泡に帰すかもしれなかった。是が非でも天皇の戦争責任は不問にしなければならない、という彼らにとっての必然性があった。

このようにして1945年、敗戦直後の第 1回目のマッカーサー・天皇会見から半年余りの間に、天皇を東京裁判に出廷させないための偽装が間断なく行われた。この短期間でマッカーサーと日本の旧体制派は、戦争のシンボルから民主化のシンボルへと天皇の立ち位置の180度の転換をなしえたのである。マッカーサーはワシントンとの軋轢を残していたものの、次第に米ソの対立が深まるにつれて、排他的な日本占領と統治の枠組みを自分の専管事項とし、主導権を確立していった。ワシントンもそれを次第に認めざるを得なくなっていた。それはヨーロッパ大陸での事情が反映していた。ヨーロッパではイタリアの占領はアメリカがにぎっていた。ドイツは連合国が合同で占領管理した。東欧はソ連が排他的占領を主張し押し通そうとしたが、アメリカやイギリスが異を唱えて思惑通りにいっていなかった。しかし、東欧の占領はソ連が離さなかった。第1次世界大戦でドイツが敗北し、その支配から独立を求める民族解放運動が組織され、次々と独立国が生まれていた。それに対してソ連が大きな影響力を与えていた。

話がそれるが、第1次大戦中ロシア革命が起こされた。その戦争でドイツに加担するオットマン帝国の背後をついて攪乱すれば、戦後アラブ人の独立国家建設をイギリスが認めるとした「フサイン・マクマフォン宣言」、後に「バルフォア宣言」。またフランス・ロシアも加わった「サイコス・ピコ協定」で、アラブ人の民族独立・ユダヤ人のナショナルホーム建設の願望に乗じて民族分断・植民地争奪戦が繰り広げられつつあった。ロシアは中途で離脱したが、それはロシア革命が起こされた結果である。レーニンが提唱した「民族自決権」の方針が適用され、新植民地主義による民族分断政策から手を引いたからだ。そういう経過もあり、この地域に隣接する東欧からソ連は引くことができなかった。それゆえこの地域での主導権はさまざま制限がつけられたが、ソ連がにぎる代わりに、東京での日本占領と統治機能の排他的優先権が事実上アメリカ=マッカーサーの手に握られるようになっていった。マッカーサーが日本における主導権を確立した背景には、第2次世界大戦後の大国間のこうした国際政治における勢力図の確定の思惑も関わっていたと言える。

極東国際軍事裁判=東京裁判に至る過程で天皇の戦争責任は問われることなく済まされることになった。これはマッカーサーにとっても、日本の体制派の政治家にとっても、また天皇にとっても画期的なことであった。天皇制護持のレジュームが残されたのも同然であった。日本の支配者にとっては何にも代えがたいビッグニュースであった。後の首相の吉田茂が国会で「天皇制は何も変わっていない」旨の発言をしている。極論すれば、天皇制が護持されれば、マッカーサー・GHQのいうことは何でも受け入れるという情況であった。マッカーサーとGHQは日本に二度と軍事力を与えてはいけないと考えていた。天皇が平和主義者で民主日本を作る先頭に立っているという権威と、その権威を利用しながら実質的な権力が行使できる最高司令官としてマッカーサーは立ちつつあった。 天皇はそういうマッカーサーを頼りにし始めていた。昨日の「敵」は今日の「友と」いうべきか。

戦後政治の捻じれの始まり―

上記のテーマでしばらく書き続けてきたが、今回をもって第1弾の締めくくりとしたい。初回に自民党憲法草案の前文と現憲法のそれとを、一部比較して憲法の基本理念が根本的に異なることを批判的に取り上げた。また、自民党案が天皇を「元首」にすると書いていることで何を企図しようとしているか、時代錯誤だと問題提起した。憲法を支える基本精神が異なれば、それを具体化する個々の条文にその精神が反映する。その一つである天皇の「元首」化は、これまで見てきたように敗戦後の日本占領と統治に関わって、「ポツダム宣言」をどう受け入れていくか、実行に誰がどうかかわっていくか、その政治日程の中で、天皇および体制派が果たした「実績」を蘇らせ、その構造を取り戻したいという思いがあるのだろうと思う。つまり天皇に戦争責任がないということを確定し、天皇制が護持できたということを。例え象徴天皇制であったとしても。なぜなら、敗戦直後のヒロヒト天皇はまだ明治憲法下の地位が保証され、統帥権の総攬者(=元首)として自他ともその認識の下に行動していたからだ。前にも触れたが、天皇はマッカーサーに11回会っている。天皇外交と言われるものだが、象徴天皇の地位ならば国政には関与できない。しかし、ヒロヒト天皇はマッカーサーに会見をし、後の日本の運命を決めたアメリカ軍の継続的駐留を要請し、政治に関与していた。それが今日まで続き自民党によってそのレジュームが守られ、強化さえされて今日に至っている。いわゆる日米安保体制である。

安部首相が言う「戦後レジューム」は占領期の数年だと限定し、占領が「終了」するサンフランコ条約の前と後を切り離しているが、誠に陳腐な議論である。ポツダム宣言には占領が終了すれば、占領軍は直ちに日本から引き上げると書かれている。しかし、占領軍は引き上げなかった。サンフランシスコ条約を締結して「日本は独立した」と言うが、ではなぜポツダム宣言が守られていないのか、なぜアメリカ軍は撤退しないのか、という問いは自民党の歴代の政権からも安倍政権からも聞こえてこない。これこそ改めるべき戦後レジュームではないか。自民党や安倍政権が取り上げ、同時に否定する「戦後レジューム」が確定した真っただ中で、連合国を代表したアメリカ軍は、天皇の戦争に対する無罪化を日本の体制派と画策し成功した。戦後レジュームは、安倍首相やその支持者が主張する特定の時代やある事柄についてだけの問題ではない。憲法だけの問題ではないのだ。日米安保条約も戦後レジュームの大きな柱ではないか。戦後がどうして戦後となったのか、あの戦争は何だったのか。アジア・太平洋戦争(15年戦争)について日本のみならず、アジアと世界に対して反省を欠いた自己都合の議論をする勢力には、理解できないのかもしれないし、理解したくないのかもしれない。歴史の事実を学ばないからだ。歴代自民党や右翼的保守勢力にとって、「戦後レジューム」を見直すということがストレートに憲法「改正」に結びつき、現憲法が「押し付け憲法」であると反発し「自主憲法」をと、言う。立憲主義を放棄し、国民の上に国家を置き、人々をし、の苦闘と努力が集約された現憲法の普遍的な価値を忘れた、それこそ「押し付け憲法」になる可能性が濃厚だ。迷惑である。断じて“否”と告げたい。