《渡来人たちの宴・外伝20》片山通夫

石舞台古墳
以前、石舞台古墳は少し書いた。

再び石舞台古墳に関して・・・・。
規模からかなり力のある人物が埋葬されていただろうとは、容易に推測できる。 興味あるサイトがあった。奈良県観光公社の石舞台古墳の項である。ぜひお読みいただきたい。一部を紹介しておきたい。
この巨大古墳が誰の墓なのかは不明であるが、付近に蘇我馬子の庭園があったことから、馬子の墓ではないかとの説が有力である。また、石室が露出しているのは、馬子の横暴な態度に反発した後世の人が封土を取り除いたためともいわれている。周囲は芝生広場になっており、春は桃やサクラ、秋は彼岸花が咲く。

馬子は飛鳥をベースに勢力を誇示した。その邸宅には池を造り池には島があったという。つまり大金持ちの大邸宅というわけだ。しかしというか、やはりというか、相当横暴な男だったようである。そんな権勢を欲しいままにする馬子でなくては、あの石舞台の古墳には葬村れることはないだろう。
今はのどかな田園風景の広がる明日香村だが、当時は大王がいて蘇我馬子が住む大都会だったろう。

例によってこの書しかないので仕方ないことだが、『日本書紀』『古事記』の記述によると、馬子は敏達天皇の即位時に大臣となるとある。また天皇は584年に百済から来た鹿深臣が石像一体、佐伯連が仏像一体を持っていたのを受け入れた。馬子はその2体の仏像を請うてもらい受け、どのような供養をすれば良いのか、知識あるものを求めて探し出した。
播磨の国に高句麗人の恵便という人物を見つけだして彼を師としてわが国の仏教のはじめとなした。(この項続く)