LAPIZ2021春号 Vol.37《Lapizとは》Lapiz編集長 井上脩身

パレスチナの少女

Lapizはスペイン語で鉛筆の意味。(ラピス)
地球上には、一本の鉛筆すら手にすることができない子どもが大勢いる。
貧困、紛争や戦乱、迫害などによって学ぶ機会を奪われた子どもたち。
鉛筆を持てば、宝物のように大事にし、字を覚え、絵をかくだろう。
世界中の子どたちに笑顔を。
Lapizにはそんな思いが込められている。

Lapiz 予告 記事紹介します!

Lapiz 2021春号

3/1 Lapiz 2021春号《巻頭言》井上脩身編集長
3/2 特集「あれから10年」予告
3/3 春の宵のひと時に《初めに》片山通夫 ⇒ 随時
3/4 シリーズ とりとめのない話《あの一言》中川眞須良 ⇒ 毎週木曜日
3/5 《breath of CITY 》北博文
3/6 連載コラム/日本の島できごと事典 その14《笹森 儀助》渡辺幸重

冬の夜の昔話《樺太から戻ったコロポックル 最終回》片山通夫

アイヌ民族

 

 

 

 

 

 

 

 

アイヌ民族は日本政府による同化政策でどんどん少なくなっている。そんな中、国連は先住民の権利を認めた「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が、2007年、ニューヨークの国連本部で行われていた第61期の国際連合総会において採択された。

日本は少なからぬ政治家等が「日本は単一民族」と口走っては撤回している。つまり「過ちを指摘されて初めて」陳謝・撤回する。根底から改めるというわけでもなさそうである。アイヌ民族のみならず、わが国には琉球民族などが存在する。 “冬の夜の昔話《樺太から戻ったコロポックル 最終回》片山通夫” の続きを読む

冬の夜の昔話《樺太から戻ったコロポックル 10》片山通夫

イオマンテを行うアイヌの男性たち。供物を捧げている。(1930年撮影)

いずれにしても樺太から北海道へ戻ったアイヌは日本による同化政策のよって、どんどん減少してゆく。明治政府以来の日本政府のアイヌ民族だけではなく琉球民族や朝鮮民族に対する対応はすべからく高圧的だったことは否めない。
明治政府のよって宗谷に移住させられたアイヌ民族は農業を強いられた。彼らは狩猟民族である。その文化を無視して農業を「指導」してもおよそ無理な話だ。今や北海道の河川に登ってくる鮭も自由には穫れない。無論イオマンテ(熊祭り)などは出来ないようだ。北海道におけるイオマンテの儀式は1955年に北海道知事名による通達(2007年4月、通達を撤回している)によって「野蛮な儀式」として事実上禁止となった。類似の熊送り儀礼は、樺太周辺のニヴフなど、ユーラシア・タイガの北極圏に近い内陸狩猟民族に広く存在している。イオマンテもその一種である。

冬の夜の昔話《樺太から戻ったコロポックル 9》片山通夫

宗谷岬に立つ案内標識「サハリン(旧樺太)43Km」とある。

樺太は歴史的に見てその地位は複雑だった。1855年の日露和親条約で千島列島(クリル列島)の択捉島と得撫島との間と定められた。しかし樺太は国境を定めることができなかったので、日露混住の地となった。国境がなかったのだ。その20年後の1875年にようやく
千島・樺太交換条約を結んで樺太全島はロシアに、千島列島は日本に帰属する。
ところが樺太アイヌと千島アイヌなど先住民は「3年の経過措置ののち、その時点での居住地の国民」ということになった。しかし日本は北海道開拓使の長官黒田清隆が「一応形だけの募集を行った」がアイヌの反発が強く当時の南樺太に在住していた先住民族は、アイヌを主体に2372人だったが、そのうち108戸841人の樺太アイヌが宗谷へ移住しただけだった。この強制移住政策ともいえる政策はアイヌ側の反発は強かったようで、108戸841人だけが対岸(海峡を挟んで43キロしかなかった)の宗谷へ移住しただけだった。

連載コラム/日本の島できごと事典 その13《春一番発祥の地》渡辺幸重

春一番の塔

あなたは“春一番(はるいちばん)”という言葉にどんなイメージを浮かべますか。「もうすぐ春ですね」というキャンデーズの明るい歌でしょうか。では、「明日、春一番に襲われるかもしれません。海難事故に気をつけてください」という“春一番警報”が出たらどうでしょうか。実は、春一番というのは漁師に恐れられた怖い暴風でもあるのです。
幕末の1859年3月17日(安政6年2月13日)、長崎県の壱岐島の漁師が出漁中、南からの強風によって船が転覆し、53人の犠牲者が出る海難事故が起きました。この風が春一番なのです。地元では「春一(はるいち)」「春一番」「カラシ花落とし」と呼ばれており、この事故をきっかけに「春一番」という気象用語が全国に広まったといわれています。民俗学者の宮本常一は郷ノ浦(ごうのうら)町で聞いた「春一番」の言葉を1959年に『俳句歳時記』で紹介しています。
現在は東北以北と沖縄を除く地域で春先に吹く南寄りの強風のことを春一番としており、テレビの気象情報でおなじみの言葉です。石川県能登地方や三重県志摩地方以西などで昔から用いられていたといわれ、春一番の語源には諸説あるようですが、壱岐島の故事がもっとも有名で、1987年(昭和62年)に「春一番発祥の地」として郷ノ浦港入口の元居公園に「春一番の塔」が建立されました。その横には銘板「春一番海難記」があり、近くには遭難者慰霊塔があります。
なお、新聞では1963年2月15日の朝日新聞朝刊での「春の突風」という記事が初めて春一番の語を使ったとされ、この2月15日が「春一番名付けの日」となっています。

冬の夜の昔話《樺太にわたったコロポックル 8》片山通夫

ニヴフ 民族

筆者は2000年前後からサハリンに通い詰めた。その間、様々な人と会い、聞いた。無論主目的の残留朝鮮人のことが主だったが、少数民族のことも折に触れ聞いた。しかしそこにはアイヌ民族の痕跡は筆者が知る限り残っていなかったことを書き加えておきたい。

ウイキペディアによると、「樺太アイヌ」または「サハリンアイヌ」の名前で知られているものの、実際には樺太全域に居住していたわけではなく、特に樺太南部に集中して居住していた。これは樺太アイヌの祖先が先住民(オホーツク文化人=ニヴフ)を押しのける形で北海道から樺太へ進出していった歴史が関係していると考えられる。13世紀から近代に至るまで、樺太では樺太アイヌ、ウィルタ(アイヌからの呼称はオロッコ)、ニヴフ(アイヌからの呼称はスメレンクル)の3民族が共存していた。
 現在、サハリンには「樺太アイヌ」はいないといわれている。大きな原因の一つが、ソ連の対日参戦時に北海道へ日本当局によって北海道へ移住させられたためである。それでもおよそ100人の樺太アイヌがサハリンに残っていたらしい。
 大部分の樺太アイヌがソ連対日参戦後に日本の当局により北海道に避難させられた。現在のサハリン州にも個人としてはアイヌが存在している可能性はある。1949年の時点では約100人のアイヌがサハリンに残っていたという。ソ連当局はサハリンにおいて子供にアイヌを名乗らせないように圧力を掛けた。1980年代には3人の純血のアイヌが亡くなり、数百人ほどの混血者だけが現在も居住している。しかし彼らは先祖であるアイヌに関する知識はほとんどない。
(この項続く)

冬の夜の昔話《樺太にわたったコロポックル 7》片山通夫

北緯50度線上に立つ日ソ平和友好の碑

北緯50度線以南のサハリン島は1905年の日露戦争の結果日本の領土となった。その前に大部分の樺太アイヌがソ連の対日参戦前に日本の当局により北海道に避難させられた。現在のサハリン州にも個人としてはアイヌが存在している可能性はある。1949年の時点では約100人のアイヌがサハリンに残っていたらしい。ソ連当局はサハリンにおいて子供にアイヌを名乗らせないように圧力をかけた。1980年代には3人の純血のアイヌが亡くなり、数百人ほどの混血者だけが現在も居住していると言われている。しかし彼らは先祖であるアイヌに関する知識はほとんどない。
では日本当局に移動させられた樺太アイヌはどのような運命をたどったか?(この項続く)

連載コラム/日本の島できごと事典 その12《オトーリ文化とコロナ禍》渡辺幸重

 2020年1月以来、全世界において新型コロナウイルスが猛威を振るっており、2021年2月中旬現在で累積の感染者数は約1億854万人、死者数は約240万人に達しています。昨年4月~6月には日本の島々は一斉に来島自粛要請を出しました。医療体制が脆弱な島が多く、超高齢社会だからです。
にもかかわらず、人口約5千人の鹿児島県・与論島で7月22日~8月7日に島外在住者も含め計59人の感染が確認されました。さらに11月に入ってからも与論島で2度目のクラスター(感染者集団)が発生し、11月10日までに55人の感染が明らかになりました。患者は鹿児島県本土、奄美大島、沖永良部島、与論島の病院に入院しました。
2011年に入って沖縄県の宮古島でもクラスターが発生し、1月末までに40人が感染しました。宮古島市唯一の感染症指定病院・鹿児島県立宮古病院は1月26日から一般外来を中止する事態にまで至り、1月31日から2週間、反対の声もあがる中で県の要請を受けて陸上自衛隊第15旅団災害派遣部隊が高齢者福祉施設内で医療支援活動を行いました。
クラスター発生の原因は不可抗力も含めいくつも考えられ、必ずしもはっきりしませんが、島の風習である“回し飲み”文化も一因として挙げられています。与論島では宴席などで口上を述べながら黒糖焼酎を回し飲む「与論献奉(けんぽう)」という風習があります。同じように宮古島では泡盛を回し飲みする作法「オトーリ」があります。酒に弱い人が断りやすいように宮古保健所では2005年度から「オトーリカード(イエロー・レッド)」を発行しており、2018年度からは「美ぎ酒(かぎさき)飲みカード」と呼んでいます。宮古島市ではオトーリの自粛を強く呼びかけています。
コロナ禍は酒飲み文化を大きく変えようとしています。

冬の夜の昔話《樺太にわたったコロポックル 6》片山通夫

北緯50度線上にある日ソ平和友好の碑

北緯50度線以南のサハリン島は日露戦争の日本勝利の結果、日本の領土となった。その前に大部分の樺太アイヌがソ連の対日参戦前に日本の当局により北海道に避難させられた。現在のサハリン州にも個人としてはアイヌが存在している可能性はある。1949年の時点では約100人のアイヌがサハリンに残っていたらしい。ソ連当局はサハリンにおいて子供にアイヌを名乗らせないように圧力をかけた。1980年代には3人の純血のアイヌが亡くなり、数百人ほどの混血者だけが現在も居住していると言われている。しかし彼らは先祖であるアイヌに関する知識はほとんどない。
では日本当局に移動させられた樺太アイヌはどのような運命をたどったか?(この項続く)

*日露戦争・1904年(明治37年)2月から1905年(明治38年)9月にかけて大日本帝国とロシア帝国との間で行われた戦争である。朝鮮半島と満州の権益をめぐる争いが原因となって引き起こされ、満州南部と遼東半島がおもな戦場となったほか、日本近海でも大規模な艦隊戦が繰り広げられた。最終的に両国はアメリカ合衆国の仲介の下で調印されたポーツマス条約により講和した。