連載コラム・日本の島できごと事典 その40《保健婦初子の像 》渡辺幸重

 

「保健婦初子の像」 ブログ「 犬飼ライダーズすて~しょん」より

四国の南西部、足摺岬(あしずりみさき)の西約42kmに沖の島があります。島の斜面に数百年にわたって石を積んで作られた段々畑の風景で知られ、その島に「保健婦初子の像」が建てられています。これは、1949年(昭和24年)から20年以上ただ1人の島の保健婦として勤務し、乳幼児死亡率の減少や風土病フィラリア(象皮病)の撲滅に貢献した荒木初子を顕彰したものです。
1917年(大正6年)に沖の島に生まれた初子は看護婦と助産婦の資格を取得したあと結核療養のために帰郷し、病気を克服して資格を取り、沖の島駐在の保健婦になりました。高知県では保健婦が村々に駐在して住民の保健管理・指導を行う保健婦駐在制度が戦前から続いていました。初子は 3千人以上が住む無医地区の沖の島でたった一人の医療者として、午前は保健所支所で実務、午後は島内の各家庭を巡回訪問しました。病人の看護や助産の仕事もあり、睡眠時間以外はすべて仕事に費やしたといいます。隣の鵜来島も担当しました。
当時、沖の島では300人以上が風土病フィラリアとその後遺症に苦しんでいました。初子はフィラリアを媒介する蚊の撲滅と衛生環境の改善を説いてまわりました。墓地の花筒の花や汚水を捨てて蓋をする行動に走り、住民の反発をかったこともあったそうです。フィラリア患者に対する差別意識もあるなかで深夜の採血活動を続け、全島検診への参加を呼びかけました。初子や住民の努力と特効薬スパトニンの発見などの成果が出て1966年(昭和41年)には患者が11人に減り、“フィラリアの島”から脱却しました。乳児死亡率も劇的に改善され、1966年(昭和41年)には2年連続で乳児死亡0になりました。初めは初子を“変わり者”扱いしていた島の人たちも次第に初子を信頼するようになり、身の上相談までするようになりました。初子の将来を心配して恩師たちが島外への転任を持ちかけたとき、島では引き留め運動が起こり、陳情団が高知県にまで押しかけたそうです。
初子の活動はテレビや書籍で紹介され、映画『孤島の太陽』にもなりました。初子の活動が称賛され美化される一方で「医師もなく保健婦一人が献身的にせざるをえなかった制度の問題」を指摘する声もあります。初子は生涯独身のまま81歳で亡くなりました。漫才コンビ「やすきよ」の横山やすしを取り上げたともいわれています。