宿場町《東海道・桑名宿#1》文・写真 井上脩身

水道完備の七里の渡し

歌川広重の浮世絵「東海道五十三次之内 桑名・七里渡口」(ウィキペデアより)

サラリーマンにとって転勤は世のならい。私は7、8回転勤した。江戸時代、城勤めの侍も江戸詰めなどの転勤はあったが、地方への転勤で一家が引き裂かれた例があると最近知った。桑名藩士の渡部勝之助が越後・柏崎への異動を命じられ、長男を残して妻と任地におもむいたというのだ。勝之助は桑名の「七里の渡し」で引越しの旅に出た。渡しがあるということは、湊の前の宿場はにぎわっていたにちがいない。東海道の桑名宿を訪ねた。

柏崎陣地への転勤命令

桑名藩には越後に飛び地があった。その領地は5万石の石高があり、柏崎に陣屋(役所)が置かれていた。役職が横目という藩の下級武士・渡部勝之助が柏崎陣屋の勘定人を命じられたのは天保10(1839)年の正月、36歳のときだった。下っ端役人ながら「学問ができ仕事もできる」と高く評価されていた勝之助にとって、このお役替えは出世ではあった。
だが、単純に喜べない事情があった。勝之助の家族は妻おきく(24歳)と数えで4歳の長男鐐之助だけだが、おきくはおなかに子どもを抱えていた。勝之助は迷った末、鐐之助を叔父の渡部平太夫に預けることにした。現在の会社の命による転勤でもよくあるが、いったん勝之助だけが単身で赴任。2カ月後の5月、桑名に帰省した。おきくは娘おろくを産んだばかりだった。このころ、江戸では渡辺崋山や高野長英らが幕府に捕らわれる「蛮社の獄」が起きていた。しかし、桑名城下の組長屋に暮らす勝之助には無縁の世界であった。
5月30日六つ半(午前7時)、勝之助一家は柏崎に出立。勝之助夫婦は寝ていた鐐之助を起こさず長屋をでた。勝之助はそのとき、いずれ桑名に戻ると一緒に暮らせる、と思った。平太夫やおきくの実家の人たち、勝之助の友人らが「七里の渡し」まで見送ってくれた。
桑名は長良川と合流する揖斐川に面しており、伊勢湾にそそぐ河口近くに位置する。「七里の渡し(写真)」は桑名から熱田神宮がある宮宿まで、距離が7里であることからつけられた。勝之助は30キロ近い伊勢湾の船旅の道中、来し方行く末がさまざまに去来したのであろう。柏崎まで旅日記をつけた。柏崎に着いた後もまめに日記をつけ、平太夫に送った。平太夫からも日記が勝之助のもとに送られ、交換日記の形になった。この日記を基に新聞記者の本間寛治さんが1988年、『幕末転勤傳――桑名藩・勘定人渡部勝之助の日記』(エフェー出版)(写真左)を著した。
本間さんは同書のなかで勝之助らの「七里の渡」しでの船出を以下のように表している。
木曽三川の一つ、揖斐川河口にひらけた七里の渡しの朝は活気があふれていた。水上には何艘もの帆船が沖がかりをし、川につき出た桑名の白壁が朝日に映えた。川面を渡る風はさすがに涼しく、勝之助らを乗せた帆船は滑るように伊勢湾に出た。勝之助は熱田の宮の渡しまで水路を行き、そこから陸路越後を目指した。
このくだりを読んで、私はネットを開いた。渡しの近くに本陣や脇本陣、それに桑名城があったという。宿場と渡し、それに城下が一体となっており、いわば三位一体の街のようなのだ。興味をひかれ、1月下旬、桑名に向かった。

渡しに面して建つ鳥居と櫓

七里の渡しに面して建てられた蟠龍櫓
七里の渡し前の伊勢の国一の鳥居

近鉄桑名駅で降りると、まっすぐ「七里の渡し跡」に向かった。東に歩くこと約30分。揖斐川沿いにだだっ三之丸公園が広がっている。その名の通り、桑名城の三之丸跡にあたり、二層の櫓が建っている。「蟠龍櫓」と名づけられている。説明板によると元禄時代の火災後に再建された61の櫓のなかで、「七里の渡し」に面して建てられた蟠龍櫓は、東海道を行き交う人々が必ず目にする桑名のシンボル。歌川広重の「東海道五十三次之内桑名・七里渡口」では桑名の名城ぶりを表すため、この櫓が象徴的に描かれているという。
スマホで広重の浮世絵を見た。目の前の櫓はおとなしい造りだが、浮世絵の櫓はどこか勇壮な気迫が漂う。現在の櫓は2003年、水門の管理棟として、元の櫓を復元して建てられた。勝之助は旅立ちの際、蟠龍櫓を見たはずだ。勝之助の目におとなしく映ったか、それとも勇壮に見えたか。家族をつれてはるばる越後まで長旅をしなければならない勝之助の胸中は複雑であっただろう。
蟠龍櫓の約50メートル先に鳥居が建っている。伊勢国の一の鳥居として天明年間(1781~1789年)に建てられた。高さ約10メートルの黒っぽいこの鳥居の間に松の木が植わっていて、その緑が冬の空に映えている。鳥居の約30メートル先は揖斐川の岸辺。木の柵が設けられていて、そこに川に降りる石段がつくられている。石段をおりたところに渡しの乗り場があったのだろう。残念ながら、鉄の鎖が張られていて、今はおりられない。
そばに「七里の渡し跡」の説明板。「七里の渡しの西側には舟番所、高札場、脇本陣・駿河屋、大塚本陣が、南側には船会所、人馬問屋や丹羽本陣があり、東海道を行き交う人々で賑わい、桑名宿の中心として栄えた」とある。
現在は渡しの乗り場のすぐ前に高さ10メートル近いコンクリート壁がめぐらされ、幅約10メートルのすき間が申し訳程度につくられているだけ。そのすきまから向こう岸をのぞくしかない。伊勢湾台風で大きな被害にあったことから、沿岸の人々を守るために築かれたのであろう。やむを得ないことではあるが、はるかに宮宿の渡しの船着き場まで遠望できれば、という期待がピシャッと断ち切られ、いささかもの足りないおもいであった。
この渡し場から鳥居に戻る途中、外堀が揖斐川に平行してつくられていることに気づいた。桑名城は川を巧みに利用した水城なのだ。堀の水面に蟠龍櫓の白亜の壁が映っている。「川につき出た桑名の白壁」という、『幕末転勤傳』での本間さんの表現。なるほど、である。(明日に続く)

京都奇譚《六道の辻》山梨良平

小野篁(おののたかむら)

京の都は平安に時代から華やかな王朝の生活を忍ばせる物語が多く残っている。そしてそれは王朝文学として貴族の生活を私たちに垣間見させてくれている。
竹取物語、源氏物語や枕草子、伊勢物語などが有名だ。多くは王朝貴族の恋の物語でもある。余談だが筆者の高校時代、こんな戯れ歌が流行っていた。

♪ 光源氏の夜遊びをいみじゅうおかしというけれど
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連載コラム・日本の島できごと事典 その94《奄美島唄》渡辺幸重

沖縄三線の爪(上)と奄美三線のバチ (「大阪発中年親父の道楽ブログ」より)

NHK番組『新日本風土記』のバックには幽玄さが漂う歌声が流れます。私の好きな奄美島唄の第一人者、朝崎郁恵の歌声です。奄美島唄の唄者(歌手)では元(はじめ)ちとせや中(あたり)孝介らが有名ですが、ご存知でしょうか。

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京都奇譚《一寸法師》山梨良平

鴨川の源流雲ケ畑で

ここに「一寸法師」というよく知られたお伽話がある。物語はご存じのように、ある老夫婦には子供がいない。どうしても欲しいと思って住吉の神様にお願いした。すると老婆に子供ができた。しかし生まれた子供は一寸(3cm)ほどの小さい子供だった。子供は一寸法師と名づけられた。
ある日、一寸法師は武士になるために京の都へ行きたいと言い、お椀を舟に、箸を櫂(かい)にし、針を刀の代わりに、麦藁(麦わら)を鞘(さや)の代わりに腰に差して旅に出た。都では大きな立派な屋敷を見つけ、そこで働かせてもらうことにした。その家の娘と宮参りの旅をしている時、鬼が娘をさらいに来た。一寸法師が娘を守ろうとすると、鬼は一寸法師を飲み込む。一寸法師は鬼の腹の中を針の刀で刺すと、鬼は痛いから止めてくれと降参し、一寸法師を吐き出すと山へ逃げてしまった。一寸法師は、鬼が落としていった打出の小槌を振って自分の体を大きくし、身長は六尺(メートル法で182cm)にもなり、娘と結婚した。御飯と、金銀財宝も打ち出して、末代まで栄えたという。
以上がよく知られているお伽話のあらすじである。 “京都奇譚《一寸法師》山梨良平” の続きを読む

京都奇譚《前書》山梨良平

百鬼夜行の図

京都という都はすでに1200年以上の歴史を誇る。ふと思ったのだが、1200年もの間、人が営みを続けていると、時空を超えて様々な事象が起こるのではないか?そういえばこの間には、人が生まれ育ち、時には幸せをかみしめ、またある時は憎み戦ってきた。天皇や貴族、武士などの生活を描いた記録や物語は残っている場合も多いが、庶民の営みはどうだったのだろうか。 御伽草子という物語集がある。物語としては鎌倉時代に完成したようだが、平安時代から伝えられてきた物語を採集したものらしい。貴族社会の生活や僧侶の話など、また歴史書にはあまり見られない庶民の生活も生き生きと語り伝えられている。
本稿はお目汚しになるかもと思いながら、御伽草子だけでなく京都にまつわる話を筆者の独断と偏見で書いてみた。なにしろ平安の時代、百鬼が横行していたという。所謂百鬼夜行が起こりやすい夜行日(やぎょうび)なるものがあり恐れられていたという。
たとえばこの夜行日には首の無い馬に跨って人里を徘徊すると言うひとつ目の鬼(あるいは首なし馬そのものを指す)が横行すると恐れられていた。掟を破って物忌みの晩に出歩く者は、この首無し馬に蹴り殺されてしまうとも恐れられていた。
※お断り:「忌憚」という文字を意味が違いますので本来の「奇譚」と書き換えます。(この稿続く)

とりとめのない話《朝東風と夕西南風》中川 眞須良

イメージ写真

昔の話である。
兵庫県津名郡津名町塩尾(現在 洲本市)に住む一人の元漁師の長老(Tさん)とある少年(マー坊)との会話。

T:ん?、、、、おまはん 見かけん顔やな?どこの子や。
M: 家 あそこ!

T:あそこって、、? いせや(伊勢家)はん とこの子か?
M: N(名字) です。

T:・・・と言うことは いせやの三男坊か 父ちゃん Gさんや なあ? そうかわかった、ほんで何の用や?
M: おっちゃん、毎日一人でここ(堤防の上)に座って何してるん?

T:毎日?、、。おまはんとこからよう見える・・・
(ゆっくりと立ち上がりながら)
「あさごち ゆうにしまか」(朝はひがし風 夕方は西南風 か)・・・。
あしたもいけそうや(漁に出られそうや)。
ぼんっ!早よう 家(うち)へ帰りや。

少年:まー坊(私)が10才未満の頃、見知らぬ老人から聞いた言葉。何故かずっと耳に残っている。自分が古希を過ぎた今も風を求めてさまよい歩く病の感染源はこの言葉かも知れない。海沿いの小さな漁師町の住民は老若男女、風には敏感だ。と言うより風と共に生きてきた。
「漁師泣かすに策いらん 風の3日も吹けば良い」がそれを物語っている。

都会に移り住んだ少年マー坊 気候天気の変わり目毎、また台風接近時に両親 周囲から何度風の話を聞かされたことか。
関西の瀬戸内地方で呼ばれ続けられている風の名称、東風(コチ)だけを例にあげても「朝ゴチ」「宵ゴチ」「寒ゴチ」「夜ゴチ」「冬ゴチ」「落ちゴチ(天候悪化)」「セリゴチ(台風接近の強い東風)」「いなりゴチ(4月の東風)」などなど。

また西に地域を広げるなら「雨コチ」「荒コチ」「強ゴチ」「梅ゴチ」「桜ゴチ」「鰆ゴチ」など。更に別方向からの風に、地方、季節、天候等をプラスすれば風の名称の数は無数だ。

毎年 スギ花粉の飛び始める三月初旬 必ず訪れる事にしている場所がある。その場所であのときの風 私を追い越して行ったあのコチに会いたいがために。しかし東風が吹けどもなにかの臭いと気配を含んだあのときのコチには未だ出会えていない。

その場所は東方向へわずかに上りの街道沿いの狭い三叉路、お地蔵さんが祀られ、すぐそばの古びた石の道標に「是より高野山女人堂へ十二里」と彫られ、くたびれた文字はこの時期低い夕陽に浮かび上がる。

人は風と暮らす。

東風吹くや 耳あらはるる うなゐ髪    杉田 久女

編集長が行く《吹田事件の現場を訪ねる 02》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身

神社前の狭い広場で激突?

阪急石橋阪大前駅の阪大側改札口付近
デモ隊と警察が衝突した須佐之男命神社

1月末、私は吹田事件の現場を訪ねた。すでに述べたように、阪大グラウンドでの集会の後、デモ隊は二手にわかれている。人民電車部隊コースをとった一団は阪急石橋(現石橋阪大前)駅に向かい、上りホームで気勢をあげ、人民電車の発車を要求、臨時電車で大阪方面に向かったという。
その現場である石橋阪大前駅上りホーム。私が自宅から大阪に行く際に利用する阪急電車はこの駅を通る。同駅から阪大に通じる商店街にある鍼灸院に何度か通ったことがあり、この駅は知り尽くしている。上りホームは箕面線ホームとの分岐点にもなっていて、そこに改札口が設けられている。改札口辺りは事件のとき、現在と同様、比較的広いスペースがあったであろう。おそらくそこでデモ隊は団子状になり、勢いあまって「人民電車を出せ」と要求したのであろう。 “編集長が行く《吹田事件の現場を訪ねる 02》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身” の続きを読む

編集長が行く《吹田事件の現場を訪ねる 01》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身

――朝鮮戦争の軍需列車阻止の闘い――

『朝鮮戦争に「参戦」した日本』の表紙

1950年に始まった朝鮮戦争の休戦協定が成立して今年で70年になる。あくまで休戦であって戦争が終わったわけではない。2018年6月と19年2月、アメリカのトランプ大統領と北朝鮮の金正恩最高指導者の間で米朝首脳会談が行われたが、何ら進展はなかった。むしろ双方の緊張状態は一層深刻化、さながら米朝冷戦真っただ中の様相である。もし朝鮮半島が有事になればどうなるか。朝鮮戦争では、武器や爆弾を運ぶ軍需物資輸送網が日本中にしかれた。戦争を止めるためは輸送ルートを食い止めるしかない――という実験のような事件が実際にあった。吹田事件である。我が国周辺の緊張が高まるなか、反戦運動のためにどこまで体をはれるのか。それが知りたくて吹田事件の現場をたずねた。 “編集長が行く《吹田事件の現場を訪ねる 01》文・写真 Lapiz編集長 井上脩身” の続きを読む

神宿る。《京阪電鉄萱島駅の楠》片山通夫

1972(昭和47)年、京阪電鉄は高架複々線工事に着手、萱島神社のあった場所にホームが移動することになった。クスノキは伐採される予定だったが、住民運動が起きて保存されることになった。この際も、「ご神木を切れば災いが起きるかもしれない」などとの噂が立った。

京阪電鉄は、近隣住民の意を汲んでかホームをぶち抜いた形で件の楠を残した。樹齢700年と推察される楠は写真のようにガラスにおおわれてホームを貫いている。「御霊信仰(ごりょうしんこう)」という信仰がある。御霊信仰とは、人々を脅かすような天災や疫病の発生を、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする日本の土着の信仰のことである。
この楠に対しての信仰がそうなのかはわからないが、少なくとも萱島駅周辺の人々は「切ると祟りがある(かも知れない)」と残すよう動いた。

ホームの下には萱島神社がある。一帯は過去には開拓新田だったが、その鎮守として1787年に萱島開拓の祖神を祀ることとなり、宗源の宣旨により豊受大神・菅原道真が勧請・合祀された。明治時代には村社に列格し、「神名社」という社名であったことが1879年)¥(明治12年)の記録にあるが、1907年(明治40年)に一旦廃社となった。京阪電鉄の複々線化で伐採されることになったが、保存の声が高まり、京阪電鉄が神殿を造営・寄進し、1980年7月、「萱島神社」として再興された。

*菅原道真;忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで上り詰めた。しかし謀反を計画したとして(昌泰の変)、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後怨霊と化したと考えられ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神、受験の神として親しまれる。太宰府天満宮の御墓所の上に本殿が造営されている。(ウイキペディアより)

3・11特集 原発を考える《脱原発への5アンペア暮らし#2》文 井上脩身

エアコンを使わない生活に

箒で掃除をする斎藤氏(ウィキペデアより)

2012年7月、斎藤さんの5アンペア暮らしが始まった。それまで40アンペアで生活していた斎藤さんにとって、いきなりの電気8分の1ライフである。その気持ちを、バットの振り方も知らない者がプロ野球の打席に立って試合に臨むようなもの、と斎藤さんはたとえる。

5アンペアで一度に使えるのは500ワットまでだ。洗濯機や冷蔵庫を使ってもブレーカーは落ちないか、などとそのつど不安にかられる暗中模索の新生活であった。福島では線量計を持ち歩いて被ばく量を測っていた。そのときの「数字見える化」を応用すればいいと考え、消費電力測定器を購入した。家電のプラグを測定器に差し込むだけで何アンペアの電流がながれているかが分かる計器だ。

まず扇風機を測った。風量「弱」では0・3アンペア、強風で0・6アンペア。エアコンの15分の1から30分の1しか電気を消費しないことがわかった。ついで全自動洗濯機。「洗い」「すすぎ」「脱水」という一連の流れのなかでアンペアは0・8→1・6→0・0→1・2→0・6→1・8と目まぐるしく変動した。冷蔵庫は測定器をセットした段階では0・8アンペア。とびらを開けると1・6アンペアと2倍に。「冷蔵庫の開閉は短時間に」との省エネ教科書記載通りの結果だった。

こうした見える化によって、冷蔵庫を開閉しなければ、洗濯機を4アンペア使ったうえ、さらに照明も可能であることが判明。扇風機を「強」の0・6アンペアで動かしても、2・6アンペアのテレビを見ることができる。しかしテレビをつけたまま洗濯機を動かすと7アンペアを超えるので、同時には使えないこともわかった。

こうしてアンペアデータを得たことによって、10アンペアになるエアコンの使用をやめた。電子レンジ(10アンペア)、トースター(同)、5合炊き炊飯器(13アンペア)、ドライヤー(10アンペア)、たこ焼き器(8アンペア)、掃除機(強10アンペア、弱5アンペア)なども使うのをやめた。条件付きで使うことにしたのは42型液晶テレビ(2・6アンペア)、320リットル冷蔵庫(0・8~2アンペア)。今まで通り使うのは乾燥機能のない洗濯機(0・8~4アンペア)、蛍光灯(0・5アンペア)、ノートパソコン(0・2~1アンペア)。

これまで使ってきた家電を使わないとなると、暮らしの在りかたを変えねばならない。夏、浴室でシャワーを浴びた後、体をあまり拭かずに扇風機にあたると、水滴が蒸発して体温を奪い、心地よい涼しさを感じることができた。「エアコンで得られない至福の時間がもたらされた」と斎藤さん。掃除機に代えたのが箒。舞いあがるホコリを防ぐために、濡らした新聞紙を小さく切って部屋にばらまいてから掃くという、昔ながらのやり方をはじめた。電子レンジに代えて金属製の蒸し器を使用。電気炊飯器に代えて鍋で炊くと、炊飯器よりもおいしく炊けた。

こうした5アンペア暮らしによって、7月18日から30日間の使用量は59キロワット時、電気料金1208円。福島にいた前年の同じ月は133キロワット時なので56%減少した。冷蔵庫を使わなかった11月の使用量は11キロワット時、電気料金は285円。1年前に比べ86%も減った。

太陽光発電でテレビ見る

斎藤氏宅の太陽光発電装置(ウィキペデアより)

5アンペア暮らしが軌道にのった2013年9月、今度は名古屋に転勤になった。南にバルコニーとベランダがある2階建ての一軒家を借りた。同年12月の電気使用量が2キロワット時にまで減少したのを機に、斎藤さんは太陽光発電所の建設に着手した。

現在普及している太陽光発電は、電力会社の電線とつないで、発電した分を電力会社が買い取る方式だが、斎藤さんが目指したのは独立型太陽光発電。自分がつくる電気を自分で使う自産自消電力だ。5アンペア暮らしなのだからソーラーパネルは1枚でまかなえると考え、ネットショップで約3万3000円の50ワットセットを注文。自分で組み立てて室内に設置した。太陽にパネルを向けると発電ランプが点灯し、独立太陽光発電所が稼働をはじめた。斎藤さんは「健康第一電力」と命名。後にベランダにパネルを取り付けた。(写真上)

斎藤さんの計算では、1日に3時間太陽が当たるとすれば、発電量は150キロワット時。50ワットのテレビなら1日に3時間は見ることができる。1カ月のうち20日間発電できれば、3キロワット時になり、斎藤家の使用電力をほぼまかなえるという。

考えてみれば、テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫の三種の神器が登場する以前の昭和30年代初めまで、ほとんどの日本の家庭では、電気製品といえば電灯と扇風機、アイロンしかなかった。5アンペア暮らしは当たり前だったのである。

高度経済成長期以前の暮らしに戻ることは現実には不可能であろう。大半の人にとって5アンペア生活はムリだとしても、斎藤さんの試みは、電気浪費時代の今、大いに注目されてしかるべきだ。私の極めて大雑把な提案だが、一人の基準を10アンペアとし、家族が一人増えるごとに5アンペア分プラスできることにしてはどうか。夫婦二人なら15アンペア、4人暮らしなら25アンペアになる。これならそうムリせずに暮らせるはずだ。強制すべきでないことは言うまでもないが、国民すべてがそうした気持ちをもてば、「原発は要らない」が国民世論になるにちがいない。(完)